10.狂い始めた歯車

まぶたを閉じれば、押し出されるように涙が次々と溢れだす。濡れた頬に冷たい風が当たり、ひやりとした感触が、余計に切くさせる。

彼は、誰なんだろう。

知らない人、なの?

あの日、わたしの名前を言ったあの人。

記憶をなくす前に、この人とわたし、なにか繋がりがあったの…?

わからない。だけど胸が締め付けられるのはどうしてだろう。

今すぐ、彼と話をしたい。どんな声をしているのか、聴いてみたい。

なのに、なのに動かないわたしの脚。

歩けないわけじゃないのに、何かをためらっているわたしの脚。

わたしの何かを知る人のはずなのに…、どうしてこんなにも心のどこかで恐れているんだろう…。


「…………」


歩行訓練、してるのかな…?
そういえば、彼、脚と腕にもギプスがはめられていたけど、無事取れたみたい。良かった。

頭にタオルを巻いた理学療法士さんが、手を差し出しながら誘導している。それを目指して一生懸命、歯を食いしばりながら。彼は前へ前へと進もうとしている。

補助の手すりに捕まり、苦しげに顔を上げたその刹那


「っ!!」


たった一瞬だけど…、目が、合ってしまった…。


(あ……っ!)


どくん、と熱い掌で心臓が一掴にみされる感覚に襲われる。

苦しい、だけど…どこかで満たされていく…。

あたたかい。だけど切なくて悲しくて…。

やっぱり、わたしはこの人の蒼を知っている。

この人の瞳を知っている…。
あの人を見つめた時の、見つめ返された時のこの感覚を知っている…。

この感覚だけは、確信が持てる…!

はじめさん…

わたしはあなたを知っている。心のどこかでわたしはあなたを覚えている。


「……っ」


立ち上がろう、彼の元に行ってみよう。と松葉杖にを手かけた途端、
バタバタという足音が遠くからこちらへ近づいてきた。


「ユイ!!…あんた!…あんた一体総司さんに何言ったのよ!?」
「っ!?」


突然の荒らげられた大声に、驚いて流れた涙を拭うことなく振り向いた。後ろに立っていたのは、息を切らせたお母さん。
さっきの総司さんのように、拳を握りしめ、わなわなと震えている。


「…なに、あんた…泣いてんの…?」
「お母さん…?」
「そんなに、嫌なの?」
「…?!」


“嫌”とは、総司さんとの結婚のことだろうか…。お母さん、わたしの気持ちに気づいていたなら、どうして…


「でも、もう遅いわよ!こっちも、…もう受けちゃったんだから。いまさら返せないわよ…!あんたが総司さんと結婚するのが条件なんだから…!」
「お母さん…?」
「…、あんた、思い出して断ったんじゃないの…?」
「……なんの、こと…」


これ以上を知るのが怖い。
そして何より、お母さんが怖い。

わたしの事をさっきから名前も呼ばず、まるで他人を見るような目つきで睨み続ける…。


「おかあ、さん…」
「とにかく!あんたから謝りなさい!」
「嫌!それだけは嫌!」


謝るってなんで!?
本当に心から繋がっているなら、わたしのことを考えていてくれるなら…。
一ミリくらいの気持ちを聞いてくれたって…

無視され続けるわたしの意思。気持ち、感情。何より心が押しつぶされている

なのに、なのに!?
わたしの意思は関係ないというの!?


「………っ」


……この結婚は、愛し合って、じゃないの…?

また、ぽたりと水の中に落としたインクが見る見るうちに広がって透明な液を黒く染めていく。


「お母さん、わたしは…どうして総司さんと結婚…っ」


深く想い出そうとすると、その意識に無理矢理蓋をするように、また頭痛が襲いかかる。だけど、見えかけた先。今しか、明確にできない。
わたしはお母さんに手を伸ばし、全ての疑問をぶつけようと足掻いた。
頭を押さえながら、痛みに耐え、呻き、顔をしかめ、途切れ途切れの声で結婚を拒んだ。


「ユイ、よしなさい!」
「いや、だ…。わたし、いや……いや…どうして…」
「そこにいなさい!先生呼んでくるから!」
「…まっ…て…、おか、…さん…やだ…」


わたしの気迫にたじろいたお母さんが、後じさり、慌てて先生を呼びに行った。
遠ざかるお母さんと、わたしの意識。


いやだ…、隠さないで。

わたしは、わたしの心に従いたいだけ…


上からゆっくりと、暗く生温い闇が覆いかぶさってくる。

全てを黙らせよう。わたしのすべてを閉じ込めようとする。


いやだ、いやだ、いやだ。

もう、こんなのいやだ……。


ベンチの背もたれから、だらりと落ちた腕。力無く倒れこむ身体。それを視界の端に捉えたのが最後。


────はじめさん…。


つぶやいた名前は、無駄に響いただけで


──届かない。


─────
2016/01/16


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