16.頬なでる風

「支度できた?」
「…は、い」


総司さんが部屋の扉をノックしてきた。昨日のような優しいノック音は変わらないけれど、表情は硬い。


「………じゃ、いこうか」
「………」


なるべく目を合わせないように俯きながら玄関へ向かう。背中に怒気を含ませた総司さんが、車のキーをチャラ、と鳴らしながら玄関ドアを開けた瞬間、ふわっと風が吹き込んでわたしの髪を揺らした。


「……っ」


……外、だ。


「…どうしたの? 行くよ?」
「あ、…はい」
「.....」


今まで気付かなった。
気付けなかった。


唯一外に出られるのが、通院の時なんだ…。リハビリの時や、山南先生のところへ行く時だけ、わたしは自由になれる…!

そう気付いてしまったら、勝手に気がはやってしまう。ドキドキと心臓が高鳴っていく。総司さんにそれを悟られないように、胸元をぎゅっと抑えながら車に乗り込んだ。


「朝ごはん、食べなくて平気なの?」
「…、いら、な、いです」
「……らしくないね」
「………」


昨晩あんなことをされ、あんなことを言われ…普通に接する事なんてできない。テーブルに向かい合って食事なんて…絶対にごめんだ。

あのあと部屋に飛び込み、手荷物を取られないよう抱き込むように握りしめ、不本意だけど、渡されたスマホも引っ掴んで布団に潜った。
次から次へと溢れる涙を拭い、そして唇を何度も何度も擦り切れるほど拭いながら、声を殺して朝を待った。


わたしを逃さない、という言葉が総司さんの本心なんだろう。


微塵でも期待した自分が馬鹿だった。
愚かさに、恐怖に涙が止まらない。

絶対にここから逃げてみせる…。


「…ぅ、」
「…どうしたの?酔った?」
「い、…え…」


なんだか頭が痛い。いつも起こす頭痛と少し違う。身体も節々が痛くてさっきから寒気が止まらない。

多分、湯船にも浸からず髪も乾かさず夜を明かしたせいだろう。
だけど、外に出られたんだ。具合のことなんて構っていられない。

マンションから病院まで、車で大体30分位だろう、と言っていた。沈黙ばかりの続く空間が、ただでさえ時を長く感じさせる。

見慣れた風景が見えた頃、わたしはようやく肩の力を抜いた。


「受付して来るね」
「わたし、行きます…」
「座ってて。迎えに行く時間も聞かなきゃならないでしょ?」
「………」


総司さんが受け付けに行っている間に、待合室のベンチに腰掛ける。ここは、退院の時に一度だけ訪れた覚えがある。入院の時は搬入口からだったし、ゆっくりとあたりを見回すのは初めてかもしれない。

総合病院というだけあって、ロビーは広く清潔感漂っている。高い天井を見上げれば、シーリングファンがゆっくりと院内の空気を循環させていた。

カツカツと靴音を響かせ、受付を終えた総司さんがこっちへやってきた。


「おまたせ、南館だって」
「あ、…はい」
「行こう?」
「あの、あ、…あと、は一人で、行きます、から…あ、の…」
「だめだよ、先生に挨拶しないと。僕のお嫁さんをおねがいします。って」
「……っ!」


周りを固める気なのだろうか。
そんなことをわざわざ先生に言いに行こうとするなんて…


「い、いいです、ひと、り、で」
「行くよ」
「…っあ!」


腕を掴まれ、強引に南館への廊下を突き進む。頭痛も手伝って、わたしは総司さんの腕を払うことができなかった。

びっこを引きながら転ばないように歩くのが精一杯。頭はがんがんと容赦なく痛む。


「ひとりで、ある、あるき、ます、から…──はなし…」
「だめだよ、支えないと危ないでしょ?」
「乱暴は良くねぇぞ」
「……っ!?」


総司さんの肩を、総司さんより背の高い男の人が掴んだ。



…あっ…この人…!



リハビリ室にいた、頭にタオルを巻いた療法士さんだ。


「ちょっと君、…誰?」


総司さんの顔が険しくなる。恐ろしさに身を縮めていれば、その大きな療法士さんは徐にわたしの方を向いた。


「君が今日からの捻挫の子だろ?俺が担当の永倉だ」
「…そう。先生なんだ。どうぞユイちゃんのこと、よろしくお願いします。僕の大切なお嫁さんですから」
「ああ、もちろんだが。さっきみたいに引っ張るのは感心しねぇな。嫁さんなら尚更だ」
「………っ」
「じゃ、早速行こうか。ユイちゃん」
「あ、はい」


永倉先生はわたしを支えながらリハビリ室に入っていった。恐る恐る振り返ると、総司さんはわたしに手を振っている。けれど顔は笑ってはいなかった。


「終わったら連絡してね。迎えに行くからね」
「………」


わたしはその言葉に返事することなく、黙って顔を反らし、扉を閉めた。


「じゃ、荷物はこのロッカーに入れて、鍵は無くさねぇようにゴムバンド腕に通しておきな」
「はい」
「………」


上着と荷物をロッカーに詰め、先生の言うゴムバンド、というかリストバンドの中に鍵をしまいこんだ。


「しっかり返事、できんだな」
「…え」
「さっき吃ってたからよ」
「……………」


他の人ですら、わたしが総司さんと会話する時に吃音になってしまうことに気づけてしまうのに。と、苦い気持ちが上がってきてしまう。


「新八、その辺にしとけ」
「左之」


また、別の先生かなのかな?赤みかがった髪の、これまた永倉先生と同じくらいの大きさの…白衣を纏っているから先生だろう。
ボーッと考えていると、赤い髪の先生がいきなりわたしの首筋に触れた。驚いて身を竦めようとしたけれど、節々の痛みが頭に響いて思わず顔を顰めた。


「……っ!?」
「熱、測るか」
「…?」
「おい、左之?」
「その子、発熱してるぞ」
「…っな、マジか!?」
「………」


そうか…。

ああやっぱり、と思った。この感じ、確実に風邪だ。

渡された体温計を挟み、そのヒヤリとした感触にすらぞくりと寒気が走った。


「せっかく…でられた、のに…」


うわ言のように、ぽつりと呟いた言葉を、永倉先生は聞き逃さなかった。


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2016/02/29


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