7.出て、戻る

夜の一人寝はこわいので、大部屋は空き次第。

そう先生にお願いして、わたしは診察室を後にした。
ただ、炎症が治まったら退院になるかもしれない。先日先生も言っていたように、この程度の記憶の混濁では日常生活には支障は来さないからだ。


カツン。松葉杖が乾いた音を立てる。
カツン。一歩進むことに、あの病室が近づいてきてどんどん気が重くなる。


「………」


病院内に設けられたコンビニ前で脚を止めた。
“ここで買い物をして戻るのが遅くなった。”という口実を思いついたのだ。

今使っているシャンプーも無くなりそうだし。

だけど、こんな理由でもなければ自由になれないなんて…
そう思うとますます心が黒く淀んでくる。

口実を作らなければ、一人になれる時間を作れないなんて。なんでこんな機嫌をうかがうような真似して、遠慮してコソコソとしなきゃならないんだろう。監視みたいなことをされなきゃならないんだろう。

総司さんはわたしから何もかもを取り上げ遠ざけていっている気がして、憤りしか湧いてこない。

それから、…何度も何度も繰り返し思う。
本当にわたしたちは将来を約束するほどの仲だったのだろうか。…って。


「……はぁ、」


今もんもんと考えても仕方ない。頭を振ってもやもやを振り払い、今は大部屋に一日でも早く移れることが先決だ。と気持ちを切り替えてコンビニへと向かった。

ゆっくりと本の棚を抜け、衛生品を置いたコーナーに進む。


「………っ!!」


見覚えのある人が、わたしの目当てのコーナーにしゃがんでいた。


「…総司さん……」
「あ、ユイちゃん」
「それ…」
「うん」


ちょうど無くなりそうだったでしょ?そう言って私の愛用のシャンプーのボトルを手に取り、カフェオレとミルクティーも一緒に会計してくれた。

少し散歩しよう。

珍しい提案をされ、驚きながらもステーションにあった車いすを借り、総司さんに押してもらいながら、金木犀の香る中庭に出た。


「いい香り、…」
「…うん。そうだね」


まだ金木犀は今が盛りと咲き誇り、辺りをあの秋独特の香りで包んでいた。


「お部屋用に少し拝借しようか?もう落ちそうなものだけ、ね。」


そう言って総司さんはトントンと枝を軽く叩き、橙色の花を手のひらに落とした。


「はい」
「ありがとうございます…」


総司さんの手からパラパラと落とされる小さな金木犀の花たちは、ころころとわたしの手のひらで転がった。

どうしたんだろう、いつもと様子が違う。
いつも、私を見張ってぴりぴりとした空気を纏っているのに、今日はなんだか柔らかい気がする。
今までになかった何気ない内容の会話をしていることが何だか不思議だ。
少し言葉を選び、探りながらだけど、さっきまでの重たい気持ちが軽くなった気がした。

こういう優しい空気も持った人なんだから、本当はわたしを束縛するばかりの人じゃないのかもしれない。


「少し、寒いね」
「そうですね。風が、つめた…!」


言い終わらないうちに、総司さんに後ろから抱きすくめられた。

突然のことで頭が働かない。どうして総司さんはわたしのことを、いきなり抱き締めたの!?
驚いたわたしは、慌てて総司さんの腕を掴んだ。そのせいで手のひらに乗せた金木犀の花は、無残にもぱらぱらと膝の上や地面に落ちていった。


「寒いから、ユイちゃんが風邪引いちゃうといけないでしょう?」
「…でもっ!」


ここは入院患者と見舞いの人の共有の中庭だ。ここにいるのはわたし達だけじゃ無い。

身体をよじって腕の中から逃れようとするけど、総司さんは力を緩める気なんて全くなくてびくともしない。


「やめ…!」
「どうして?婚約者を守るのもぼくの勤めだよ」
「………っ」


わたしは無言で首を横に振った。
だからって、だからって人前でこんな事するなんて嫌だ。
さっきまでの優しい空気が、また今までの嫌なものに変わっていった。
私の気持ちを考えない、自分の気持ちばかりを押し付ける。この嫌な空気だ。


「恥ずかしがらなくていいんだよ」


恥ずかしいとかじゃなく、ここでわたし達の事を他の人達に見られたりしたら…!


「…っ!!」
「ユイちゃん…?」


ビクン!と身体をこわばらせたわたしに総司さんが驚く。
だけど、今、頭の中によぎったことが、私の中でくすぶっていた気持ちに確信を持たせた。


「………っ」


わたし、いま

他の人達に勘違いされたくない、誤解されたくないって咄嗟に思った。

総司さんとわたしが…


「……ぅ…」


また、深く考えることを阻むように、思考の渦に飲み込まれる…。
頭が重くなってずきずきと脈打つように痛みが走り、クラリとして眉間を押さえ小さく唸った。


「ユイちゃん…、大丈夫…?」
「…ごめん、なさい…。部屋に…」
「…うん」


ああ、遠回りしようとして結局は部屋に戻る近道を作ってしまった…。
からからと車いすの車輪の音を耳の裏に残し、遠ざかっていく金木犀の香りに、一層胸が苦しくなっていった。


─────
2015/11/21


ALICE+