美味しそうな匂いを漂わせる料理が並べられている食卓に着くなり、2人は特にこれといった会話もなく食事をはじめた。そんな2人に合わせるように目の前のパスタに手をつける。
 半熟卵にフォークを入れると鮮やかな色をした黄身が溢れ出してきた。思わずごくりと唾を飲む。フォーク回し、パスタを絡ませて、ひと口。相変わらず、この人たちは本当に料理が上手だ。

 いっそアイドルをやめてコックさんになればいいのに。なんて、口には出さないけれど、そう思ってしまうほどにそれは美味しくて、思わず頬を押さえたくなってしまった。
 どうやらこの時の私は「泉さんちの子になりたいです」と、恍惚とした表情で呟いていたらしいけれど、これは無意識の領域だ。やけに輝いて見えるパスタに夢中で、しばらく周りの声すら断絶してしまっていたのだと思う。
 でも、美味しいものを食べ始めると夢中になってしまうのは仕方ない。だって、美味しいものは心置きなく味わいたいもの。

 それよりも、問題はこのあとだ。
 私は今日ほど睡魔に負けたことを悔やんだことはないし、今日ほど凛月さんが憎いと思った日はない。


ーーーちょっとぉ、なにこれ!

 食事を終え、せめてものお礼の気持ちとして食器を洗っていた時、ふらりとキッチンへやってきた泉さんがある一点を見てそう言った。

 何だろうと首を傾げる私には見向きもせず、すぐさま泉さんはソファで寝転んでいた凛月さんへ向かっていったのだけど、しばらくして「馬鹿じゃないの」と怒声が聞こえてきた。
 懐かしい口癖。昔の面影は残っているけれど、それでも身長は伸びているし、顔も年相応に大人びている。高校生の時の影をすっかり潜めてしまっていた泉さんが、あの時のように怒っている。そんな様子に少し胸が高鳴って、頬が緩むのを抑えられなかった、のだけど。

 泉さんがぽこぽこと怒り出した原因は、凛月さんが私の分のカップケーキをひとつ残しただけで他を全て食べてしまったからで。
 本当はすごく楽しみだったのに。そう思いながらも、でも、まだひとつは残っているからと油断してしまったのが悪かったのかもしれない。


はい。ちゃんと味わって食べてよねぇ?

 食器を洗い終えた後、泉さんはご褒美とばかりに最後の1個のカップケーキをくれた。
 ちょこんと可愛らしく生クリームが渦巻いていて、その上に苺が乗せられている。インターネットで見たことがあるようなカップケーキに感動しながらもそれを食べようとした時、私の手首を掴んだ者がいた。

 ちなみに、その時泉さんは洗面所の方に行ってしまっていて、リビングにいたのは私と凛月さんのみ。

ふふふ、いただきま〜す

 私の手を掴んだ凛月さんは、手からカップケーキを奪い取って、それをぱくりと食べてしまったのだ。


「凛月さん、私のこと嫌いなんでしょうか」

 車内に流れるラジオには最近流行りのアイドルの曲が流れている。
 軽快なメロディに明るい歌詞。でも、今の私の気分は、どちらかというと重苦しいメロディで暗い歌詞の曲だ。
 シートベルトを緩めてラジオのチャンネルを変えるボタンを打してみたけれど、生憎私の気分に合っている曲はなくて、仕方なく助手席の背もたれに背を押し付けた。
 そのすぐ後、不意にラジオの音が小さくなる。窓の外に映る夜道から泉さんに目を向けた時には泉さんは既にハンドルに手を掛け直したところだったけれど、音量を下げたということは、それなりの話だと思ったのだろう。全然、大した話でもないのだけど。

 最後のカップケーキを奪われてしまったことは泉さんには伝えていない。
 あの時、あまりのショックで呆然としてしまって、その後戻ってきた泉さんに「もう食べ切ったの?」と呆れるように言われて、私はそれに美味しかったですと嘘をついてしまった。
 それに対して、当然だ、とやけに強気だったのに、満更でもないようにご機嫌になってしまったのを見て胸が苦しかったし、私と泉さんのやりとりを眺めて楽しそうに口角を上げていた凛月さんへの憎しみの量はすごいことになっていた。
 私も泉さんの作ったカップケーキが食べたかったのに。

 ちょうど目の前の信号が赤になる。泉さんはブレーキを踏んで車を止めると、少し笑った。

「嫌われるようなことでもしたのぉ?」
「うーん」

 思い当たる節がないわけではない。
 泉さんの代の先輩たちが卒業して、プロデュース科が本格始動して、新入生が入学してきて、新入生が学校に慣れ始めた頃、私はよく凛月さんのそばにいた。凛月さんは自分のペースを乱されるのが嫌いな人だから、多分、私が引っ付いていたのが気に入らなかったのかもしれない。嫌われる要素があるとしたら、多分これだろう。

 悩んだ末に打ち明けると、最後まで黙って聞いてくれていた泉さんが納得いかないとばかりに唸った。

「そもそも、どうしてくまくんと行動してたわけぇ?俺がいた頃は会う度にガキみたいな言い争いしてたじゃん」
「嫌がらせを受けてた時に・・・・・・ほら、凛月さんって私と同級生でしたけど本当は1歳年上じゃないですか。それに意外と力も強くて、だから一緒にいれば安心かなって、当時思ってて」
「嫌がらせ?」

 重く低い声に首を傾げると、青い瞳は見る見る細くなっていって、最後にはこれでもかというくらいに不機嫌な顔になってしまった。
 咄嗟に何か気を紛らわせられることを言おうとしたけれど、結局信号が青になったことくらいしか言えず、車が動き出してから私はこっそり息を吐いた。
 新入生のプロデュース科の一部から嫌がらせを受けていたこと、とっくの昔に泉さんに伝わっていたと思っていたのだけど。余計なことを言ってしまった。

「そういうことはまず一番に面倒見てやってた俺に連絡してくるもんじゃないのぉ?」
「連絡しても良かったんですか?」
「してくるな、なんて一言も言ってないでしょ」

 卒業式の日のこと、返礼祭の日のこと、その他諸々。日常生活を思い返してみても確かにそんなことは一切言われていなかった。
 卒業式の日、私が泉さんへの恋心を胸にしまった日。その時恋心と一緒に関わりさえも断ってしまった。今では泉さんのことをずっと遠い存在の人だと思ってしまっているけれど、そっか、私が自分から線引きをしたのか。

「わかってたら、連絡したのに」

 泉さんが高校を卒業して、私が3年生になって、少なくともその1年間は泉さんのことを忘れた日なんてなかった。
 泉さんが映るテレビ番組は必ずと言っていいほど録画していたし、泉さんの載っている雑誌は片っ端から買っていたし。その度にもう会うことはできないのだと実感して、苦しくなっていたのだけど。

 口から出た素直な気持ちは震えた言葉になって泉さんへと届いただろう。途端に熱くなった目元を隠すように下を見て、一度だけ鼻をすする。

「でも、あれで良かったんです。多分、泉さんが卒業後も相手をしてくれていたら、きっと私の中の泉さんが好きだって気持ち、もっと大きくなっていたと思うし、きっと今よりもっともっと嫌な性格になってたと思います」

 だから、“ありがとうございます”。
 連絡を取ろうとしてくれなくて。会いに来てくれなくて。


 返事は期待してなかったから車内が重苦しい雰囲気になっても我慢しようと思っていたけれど、私の住むマンションは既に目前だったらしい。
 泉さんはハザードを焚いてから車を寄せた後、車を降りた。早々に後部座席に詰んであった今日のスーパーで買った食料品が入っている袋を取り出し始めたので、慌てて私も車を降りる。

 部屋は2階。そう遠くはないし、エレベーターもある。泉さんはきっとそう考えたのだろう。私には一番軽いものひとつだけを持たせて、持つと言っているのに他を全部持ってくれた。


「くまくんはあんたのこと、嫌ってないよ。むしろ多分、その逆だと思うけど」

 軽い荷物のついでに手渡された鍵で車をロックしている時、背後から静かにそう声をかけられた。振り向くと泉さんは私から目を逸らすようにしてさっさとエントランスの方へと向かってしまったのだけど。

 どうしてそうなるんですか。めげずに訊ねてみたけれど、泉さんは黙ったまま私を睨みつけて、何も言おうとはしなかった。

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