「相変わらず化粧が甘い」

 おそらく言われると思っていたけれど、まさか予想していた言葉と全く同じになるとは。もはや胸も痛くならない。
 泉さんは穴が開くくらい真剣にこちらを凝視する。至近距離で見られれば当たり前のように恥ずかしいし、お世辞にも綺麗とは言えない肌を見られるのはあまり気持ちの良いものではない。
 睫毛が長いのだとか、蒼い宝石のような瞳だとか、すっと通った鼻筋だとか、思わず触れてみたくなるようなきめ細やかな肌だとか、赤くて薄い唇だとか、そういう綺麗な部分を見ない振りして泉さんから距離を取った。

「なまえってさ」
「はい」

 どうせお小言に違いない。無意味にバッグの持ち手を掴んで身構える私の手にちらりと目を向けた泉さんは、何でもないように再び私の顔を見た。少し恨めしそうな表情が印象的だった。

「そこそこ綺麗な二重してるよねぇ。なんかムカつくんだけど」

 思わず耳を疑ってしまった。
 即座に慌ただしく後退していった私がいよいよエントランスの中へと引き戻りそうになった頃、これまで真剣な顔をしていた泉さんがついに面倒臭そうに眉間に皺を寄せた。
 そうそう、その顔、私はその顔を見ていた方が安心する。さっきのは聞き間違い、決して私を褒めていない。きっと私が言われたことを都合良く解釈してしまったに過ぎない、そうに違いない。

「何してんの。まったく・・・」

 私の勘違いだと思い込もうとしたところで、一度でも褒められたと浮かれてしまった心はなかなか落ち着かない。むしろ頭で泉さんの口にした言葉がエンドレスリピートされてしまう有様だ。
 私は返す言葉もなくしてしまって、エントラス前、観葉植物の影にしゃがんだまま動けなくなってしまった。

 動かない私に泉さんは呆れたように溜息を吐いて歩み寄ってくる。
 両手で顔を隠したままの私は少し強引に立たされて、そのままエントランスから伸びる光で黒々と輝くタクシーの後部座席へと押し込まれた。そのまま続くように泉さんが隣に座って、車のドアが静かに閉じられる。私は未だに顔を上げられない。

 「さっきの店まで」と、泉さんはタクシードライバーに簡単に合図をする。すぐに車は動き出した。
 眠くなるような揺れに身を任せながらも、ぼんやりと街灯の少ない住宅街の景色を眺める。
 私は住み慣れたこの街が好きで、とても気に入っているけれど、やっぱり数週間前に見た泉さんの住んでいる街にはかなわない。私もあの街に引っ越そうかな、でも、泉さんに知られたら非常に嫌な顔をされそうだ。ストーカーとかやめてよ、なんて言って。

 夜の街にひっそりと構えるスナックの怪しい赤い光を見た時、ふと人が欠けていることに気付いておずおずと隣を見ると、泉さんはスマートフォンを見つめ、慣れた手つきで指先を滑らせていた。

「あの、泉さん」
「ん、待って、今仕事の連絡してるから」

 外と同様に車内も暗く、泉さんの顔はやけに眩しく映っている。
 ずっと昔、真っ暗闇の中、懐中電灯で自分の顔を照らして家族を驚かす遊びに夢中になっていたことを思い出した。泉さんに同じことをやったら驚いてくれるのだろうか、それとも怒るのだろうか。おそらく後者なんだろうなあ、そんなしょうもないこと真剣に考えてしまうくらいに泉さん待ちの時間は暇だった。
 やがてスマートフォンの明かりがなくなって、眩しかった泉さんの顔が一瞬で見えなくなった。
 唐突だったから少しの間目がチカチカしていたけれど、タクシーが住宅街を抜けて大通りへ差し掛かると、たくさんの店や街灯の光が車内を明るくさせた。泉さんがこちらへ目を向けたのに気がつく。

「今日、凛月さんはいないんですか?」

 そもそもはじめに電話を掛けてきたのは凛月さんだった。だから彼が来ないのは少しおかしな話だ。
 まあ、私と凛月さんが揃えば喧嘩になってしまうことは私も凛月さんも泉さんもよくわかっていることだし、来られないのなら来られないで残念な気持ちにはならないけれど。なんて、本人に言ったらまた口論になってしまいそうだ。

 「来なきゃ不満?」と、泉さんは私の言葉に対して随分とひねくれた捉え方をした。私と凛月さんが犬猿の仲なのは誰でもない泉さんが一番理解しているというのに。
 即座に首を横に振ると、泉さんは面白くなさそうに「先に行ってる」と教えてくれた。私の好きな食べ物をあの手この手で奪おうとするモンスターのような凛月さんの様子が目を閉じなくとも鮮明に浮かぶ。

「私、泉さんの隣に座りたいです、凛月さんの隣は嫌だ・・・」
「あっそ、好きなようにして。あとついでになるくんもいるから」
「え! なるちゃんもいるんですか!?」
「不本意だけどねぇ。あんたがいるだけでも騒がしくて手一杯なのにさ、あいつらも一緒とかほんっと最悪・・・・・・、ねぇなまえ、2人で別の店行かない? あんたが行きたいって言うなら特別に俺の行きつけのレストラン連れていってあげる」

 名案だと目を輝かせる泉さんからは、つい1時間ほど前、knightsのパフォーマンスで魅せていた凛々しさは感じられない。
 もちろんテレビの向こうの泉さんも、今横で子どものように頬を僅かに赤くしている泉さんも、どちらも油断すると簡単に落とされてしまいそうなくらいに本当にかっこいいけれど、そうじゃなくて。
 今ここにいる泉さんの喋り方だとか、喋っていることだとか、仕草だとか、丸々全てが媒体を通してでは見ることが出来ないような、プライベートでしか見られないもので。今更と言われるかもしれないけれど、仕事では絶対に見せないような表情を見て、その事実に改めて気付かされてしまった。

 気付いた途端、心臓の病気に罹ってしまったかのように胸が締め付けられて苦しくなった。
 理由はわからないけれど、すごく苦しくて、だけど何となく泉さんに知られてたまるかという気持ちになって、私は慌てて「凛月さんたちはどこのお店に行っているんですか?」と訊ねた。息が詰まりそうな気持ちに思わず変な顔をしてしまいそうになったけれど、泉さんは気付いていないようだった。
 私が提案を跳ね除けたからだろうか、面白くないとばかりに口をムッとさせた泉さんの言葉を待っていると、次第に胸の締め付けは弱くなっていって、泉さんが店の名前を口にした時には既に圧迫感は消え去っていた。

 ところで、私はラーメンをよく食べるけれど、あれは作るのが楽だからであって、決してラーメンが死ぬほど好きというわけではない。飽きる時は飽きるし、飽きたら違うものだって食べる。
 数週間前、泉さんのSP役としてスーパーに行った時、私がラーメンを愛していると思い込んでいる泉さんに、ラーメン以外で好きなものは何なのかと聞かれた。私はその時真っ先に美味しいお肉だと答えた。
 そして、今泉さんが口にした店は、おそらく普通の家庭なら簡単には行けないような、そもそも予約がいっぱいで行きにくいような、グルメ番組で取り上げられる程の有名なしゃぶしゃぶのお店だ。
 もしかしたら私がお肉を好きだから、お店の名前を言ったら私が泉さんの行きつけのレストランではなくてそっちを選ぶに違いないから、だから言うのが嫌だったのかもしれない。

「私、持ち合わせが・・・」
「俺と2人で食べたいって言うならご馳走してやらなくもない。いいからさっさと『泉さんと一緒に美味しいイタリアン料理が食べたいです』って言ってよ!」
「でも、お肉食べたいです」
「年下のくせして我が儘言うの? 図々しいんじゃない?」

 頭に思い浮かんだのは真っ赤に輝く牛肉、それをひと切れすくい取って、熱々の鍋の中で揺らしてあげて、私はタレの絡んだその牛肉を口に放り込むのだ。
 想像するだけで涎が出てしまいそうだ。だんだんと泉さんが牛肉に見え始めた。

「・・・・・・ああ、もう! わかった、わかったから! 連れていけば良いんでしょぉ?」

 鼓膜をざわつかせた大きな声に、シャボン玉が弾けたように私の意識が戻る。頭の中の私は既に3皿分の牛肉を平らげていた。
 お肉に夢中な私を見て、泉さんは少なからず引いているようだった。

BACK // TOP