泉さんの隣に座るべく泉さんに引っ付いていた私を捕まえて自分の隣に座らせるという荒技を披露した凛月さんに、普段の私なら激昴して大バトルになっていただろう。それから、なるちゃんに音信不通になった理由を尋問されるという胸が痛んでしまうようなことも、普段の私ならきっと気持ちを顔に出して気を遣わせてしまっていただろう。だけどそんな試練もなんのその、私は牛肉に夢中だった。
先程まで私を心配してくれていた泉さんは、私があまりにもお肉に夢中で引いたのか、お腹いっぱいなのか、鍋奉行に徹していた。
もはや、ついさっき夕飯を食べたばかりだなんて記憶にない。人間は美味しいものを目の当たりにすると無敵になるんだなあと思った次第。
「ほら、肉ばっか食べないで野菜もちゃんと食べなよぉ?」
「はい」
そもそも、ここの料理の金額に恐縮してしまって、数枚程度食べられれば良いやと思ってじっくりと味わうように食べていたのだ。だけどそれを見かねたのか、泉さんに好きなだけ食べなよ、と言われてしまって。
もちろん本当はたくさん食べたかったから気持ちは揺らいだけれど、泉さんにはお世話になりすぎているからと断った。バーの件も、大量買いしてくれた食料品の件についても、全部。それを言ったら泉さんは不満そうな顔をしたのだけど、後輩にご馳走するのが好きなタイプなのだろうか。
結局言葉に甘え、それでもってせめてもの『出世払い』という、何百年後になるかも不明な不安の残る形で丸くおさまったのだった。
でも、それにしたって度が過ぎているような気もする。どうしてこんなに世話を焼いてくれるのだろうか、そんな疑問がいよいよ膨らみすぎて少し泉さんを疑ってしまいそうになる。
決して裕福とは言えない私の生き方が可哀想とでも思っているのだろうか。同情で付き合ってくれているのなら悲しいけれど、どうなんだろう。それとも、本当にただ気前がいいだけなのだろうか。
関わりがあったのはもう10年程前、たった1年の間の出来事で、私には泉さんが何を考えているのかよくわからない。
「ほんッと、よく食べるわねェ・・・」
「なるちゃん、もう食べないの?」
「アタシはもういいわ。お腹いっぱいよ」
さすがスタイル抜群の人気モデルさんたち。カロリーを計算しながら食べていたのだろうか、泉さんとなるちゃんは既に食べるのを止めていた。
泉さんは時々絡みに来るなるちゃんを鬱陶しそうにしながらも相手をしたり、私の食べる物をテキパキと用意してくれたり、少し忙しそうだ。一方、私は泉さんの伏せられている目を縁取る長い睫毛を少し羨ましいなと思いながら、のんびりとえのきを食べていた。
いつまでも見続けていたら目が合った。ガンを飛ばされたとでも思ったのか、すぐさま私に威嚇する。
「ちょっと、まだ俺が牛肉に見えるわけ? いきなり飛びつくとかほんと勘弁してよねぇ・・・」
「私のこと獰猛な闘牛か何かだと思ってますか?」
「少なくともその食欲を見てたら普通の人間だとは思えなくなったけど」
「どうせ私は人間以下です」
「はいはい・・・ちゃんと人間だと思ってるから、ほら、満足するまで食べな」
ちょうどこのタイミングを待ってましたと言わんばかりに、女将さんが襖を開けた。
空になったお皿が下げられて、その代わりに新しいお肉がやってきた。終わりのないお肉の天国だ。今日1日でたくさんの牛肉を食べているから、きっともし私が何か悪いことをして地獄に落とされたら、牛に食べられる刑を受けることになるだろう。
「泉さん」
「何」
「あの、どうしてこんなに優しくしてくれるんですか?」
お腹が空き始めたのか、お肉を食べようとしていた泉さんの動きがぴたりと止まる。じっと黙ってしまった泉さんは何を考えているのだろうか。なるちゃんや凛月さんには、わかるのだろうか。
「私に優しくしても・・・大した見返りなんてないですよ」
こんなことを言ったら自分が虚しくなるだけなのだけど。でも、本当のことだ。
泉さんと私では生きている世界が違う。このしゃぶしゃぶのお店こそいい例で、ここは私では到底来れるようなところではない。来ようとも思わない。だって、分不相応だから。
自分が惨めに思えてつい笑ってしまうと、静かにこちらを見ていた泉さんは呆れたように溜息を吐く。少し冷めてしまったかもしれない牛肉を口にして、やがてもう1度肩を上下させた。
「見返りなんて、はなから期待してないし」
じゃあどうして、そんな言葉が喉まで出かかった時、左半身が重くなる。
すっかり忘れていたのだけれど、今日は天敵である凛月さんがいたのだった。そしてその凛月さんは、私の左腕に絡みつき、艶のある黒髪を少しばかり揺らして私に笑いかける。
凛月さんのこの笑顔には何一つ良い思い出がない。例えば、授業をサボろうだとか、炭酸飲料を買ってこいだとか、膝枕を強要してくるとか、あれこれ。
だから私は蘇ってきた過去に危機感を覚えてすぐさま身体を引こうとしたのだけど、残念ながら遅く。気付けば随分な力で腕を掴まれていて、咄嗟に偶然目が合ったなるちゃんに助けを求めたけれど、私と同じように過去を思い出しているのか、少し嬉しそうに見つめられてこれは駄目だと悟る。ちなみに、泉さんは目すら合わせてくれない。
「凛月さん、ほんとのほんとに苦情メール送り付けますよ!」
「あー、好きなようにすればいいんじゃない? それよりさ、まだ夜も始まったばっかりだし、お酒飲もうよ」
「お酒?」
「うん。セッちゃんから聞いたよ、いける口なんでしょ? どっちがたくさん飲めるかねぇ・・・」
「アホくさ」と、向かいから溜息混じりの声が聞こえた気がしたけれど、凛月さんに売られた喧嘩となると私は買うしかないのだ。だから勝負をすることになったのだけど、実は凛月さんはお酒に滅法強かった。
負けず嫌いが災いして、この後、私は酷く酔わされることになる。
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