次に目が覚めた時にはとっくに朝は過ぎていて、太陽の光で部屋がぽかぽかと暖かくなっている頃だった。
 欠伸をしながらも、随分と前から幾度となく静かになったり騒がしくなったりを繰り返していたスマートフォンを手探りで見つけ出して、床に転がっていたそれを耳に当てる。

「んん・・・・・・もしもし・・・」

 さすがにうつ伏せではうまく喋れない。しかたなく身体を動かして仰向けになると、巻き付いていたブランケットから嗅いだことのあるような香水の匂いが微かに漂った。
 どこだったかな。ここではなくて、もう一軒の泉さんの家でもなくて、他のどこかだったような。

『今何時だと思ってるの』

 記憶を手繰り寄せながらも夢心地の気分のまま電話の相手に向けて反応をすると、すぐに耳をつんざくような怒声が届いた。
 どこの借金取りかと思ったけれど、程なくしてそれが泉さんだと気付く。お金を借りた覚えはないと言い切った時、間髪入れず出世払いはどうしたのと反撃されたことで確信した。

 長い説教が始まる予感に恐縮しながらも、壁に掛けられている時計を確認して「13時前です」と答えれば、しばらく沈黙が流れた。
 重すぎる静寂の中、泉さんを呼ぶマネージャーらしき人の声が聞こえる。仕事の合間だろうか、忙しいだろうに、どうしたのだろう。疑問をぶつけてみると、泉さんはもっと怒ってしまった。泉さんの逆鱗はよくわからない。

 どうやら泉さんは私のためを思って朝食を用意してくれていたらしい。だけどそれを伝えるのを忘れていて、だからこうして休憩時間に電話をかけてくれたのだと。
 当然のように私がそのご飯を食べたと思い込んでいた泉さんは、後輩なんだからお礼の連絡くらい寄越せとお説教をするつもりだったけれど、そんな優しさは露知らず、朝ご飯を食べてない上に更には今までぐっすりと熟睡していただらしのない私に怒っていた。

 寝すぎも身体に良くないんだから、と熱が落ち着いてきている声に返事をしながらキッチンへと向かってみると、確かに一人分のおかずが並べられていた。
 申し訳ない気持ちでいっぱいになる。でもでも、朝食の時間は過ぎてしまったけれど、昼食の時間は過ぎていないから。
 これからいただきます。そう言うと、泉さんはあまり納得がいっていない様子ながらも呟くように小さく返事をしてくれた。

「なんていうか」
『何?』
「なんだか、泉さんがいなくちゃ何もできなくなっちゃいそうです」

 起こしてもらって、ご飯も作ってもらって。泉さんは不本意でやってくれているのだろうけど、ここまでくるといよいよ本物のお母さんに見えてきてしまう。だからキッチンに置かれた朝食兼昼食用のおかずをテーブルに並べながらついそう言ってしまった。
 私の予想では「呆れた」やら「ありえない」等の一言二言を返されると思っていたのだけど、泉さんは私の名前を呼んだ。
 まるで確認するような言い方に少しばかりの疑問を抱きながら返事をすると、優しさが含まれていて、それでもって甘えているような、心配するような、まるで恋人に話しかけるかのような柔らかい声が耳に流れ込んだ。

 ほんの一瞬だけ、泉さんが恋人のような存在だと錯覚してしまった。
 数秒遅れて返事をすると、やがて電話が切れる。私がどう返事をしたか、それに対して泉さんが何を言って電話を切ったのか、そこら辺はあまり覚えていないけれど。
 とにかく、私は自分を落ち着かせるように、窓の向こう、陽の光に照らされてキラキラと輝く高層ビルをしばらく眺めていた。

ーーもう少ししたら帰れるから、いいこで待っててよね

 なんて、いつもの泉さんだったらきっとそんなことは言わない。言うとしてもどこか人を馬鹿にするように言うのに。
 あんなに優しく言われてしまえばいくら意識していなくたって恥ずかしくなってしまう。もう好きじゃないはずなのに、恋愛感情は抱いていないはずなのに、どうしようもなく胸が熱い。


 泉さんが作ってくれたご飯は量が少ないように見えたけれど、昨日の夜にたらふく食べたお肉たちがまだお腹の中に潜んでいた私にとってはちょうどいい量だった。
 おにぎりに目玉焼き、ウインナーとプチトマト。それらをペロリと平らげて食器を洗った後、泉さんのせいで未だに冷めない熱を落ち着かせるためにシャワーを浴びることにした。

 いいこで待っててね、なんて、あれは私がドキドキすると知っててわざと言ったのだろうか。
 私では答えを出せないし、こんなことを直接聞く勇気もないけれど、どうしても気になる。というか、泉さんは自分がかっこいいのをもっとよく自覚すべきだと思う。安易にああいった発言をするのは控えてほしい。勘違いしそうになる。

 泉さんが帰ってきたらさり気なく注意しておこう。そう決意していたのだけど、そんな決意は一瞬で吹き飛ばされてしまった。浴槽の壁にテレビが備えつけられていたからだ。
 もちろん私の住むマンションの浴槽にテレビなんてものはない。だからついつい興奮しすぎて、シャワーだけの予定がお湯を張って熱心にテレビを見つめていた。見ていたのは何の変哲もないニュース番組だったけれど、部屋で見るのと湯船の中から見るのでは全然違うのだ、と新たな知識を得た私は気持ちのいい気分のままお風呂を出た。

 随分長い間浸かってしまっていたらしい。リビングへと戻った頃には既に泉さんが帰宅していた。

 ソファに座っている泉さんが私に気付いてこちらを見る。その瞳を見た瞬間、忘れかけていた熱が再びじわじわと上がり始めて、私は曖昧に笑ってみせる。
 おかえりなさいと呟くと、向こうもほんの少し微笑んで「ただいま」と言った。お風呂上りだったからか、頬が一層赤くなったことには気付かれていないようだ。

「体調は?」
「はい、おかげさまですっかり元気です。ご飯も美味しかったです」
「当たり前でしょ、俺が作ったんだから。でも夕飯はなまえも手伝ってよねぇ」
「へ?」

 目を丸める私に対して泉さんは聞こえなかったと思ったのか同じことを口にした。夕飯は手伝って、と。いや、聞こえているけれど。確かに聞こえたけれど。
 まさか夜も一緒にいるだなんて考えもしていなかったから動揺が隠しきれない。私はてっきり泉さんが帰ってきたらすぐ自分の家に帰るつもりでいたから、だから。

 電話の向こうでは不機嫌だったけれど、今は随分とご機嫌な様子だ。そんな泉さんがなかなか返事をしない私の様子にすっと眉を寄せたのを見て、慌てて頷いた。ひとりで食事をするより誰かと一緒に食べる方がずっと楽しいから、泉さんもきっとそういう気持ちなのかな。
 泉さんが料理に対して口うるさいことをすっかり頭から飛ばしたまま頷けば、すぐに満足気な顔をする。なんだろうか、泉さんはひょっとして寂しがりなのだろうか。
 疑問を抱きつつも、恐る恐るソファの端、泉さんからは距離を取って腰掛けると、これまでとは比べものにならないくらいに胸の鼓動が早くなった。
 いつもなら喋ることもたくさん思い付くのに、今は少しも頭が回らない。

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