夕飯を食べて、食器を洗って、ぽつりぽつりと話をして、そんなことをしていたら時間なんてすぐに過ぎてしまうもので。

「泉さん、私そろそろ帰りますね」

 既に21時を過ぎている。
 昨晩も泊めてもらった身でこれ以上長居をさせてもらうのはさすがに申し訳ない。そう思ったのもあるけれど、それと同時に、別の意味で限界が来ていた。恋心を抱いてしまっていたことに気付いた夕食の時から、もしかしたら泉さんに聞こえてしまうのではと思うくらいにずっと胸が騒がしいのだ。
 少し混乱している。だって、私は泉さんへの気持ちを卒業式のあの日に胸の奥に押し込んだのだから。だから泉さんへの恋心は既になくなっているはずで、それを決定づける証拠に、大学生の時、私は泉さんではない別の異性に恋をしてお付き合いをしていた。あの時期の私は確かに泉さんのことを思い返さなくなっていたのだ。
 それなのに、懲りずにまた泉さんのことを好きになってしまった。叶うことがないとわかっていながら、また間違った道に足を踏み入れてしまったのだ。

 食器を洗い終えてからは何を話したらいいのかわからなくて、ソファに座る泉さんから逃げるように、窓のそば、フローリングに座って夜の街を眺めていた。
 眼下に広がる星を散りばめたような景色から目を離して泉さんを見れば、泉さんはちょうど名の知れたブランドの化粧水を肌に馴染ませているところで、こちらを見ようともせずに「泊まってけば」と言った。
 まさかそんなことを言われるとは思っていなくて、瞬きを繰り返す。泉さんは付け加えるように、ワインを飲んだから車が出せないと言った。

「まだ終電には余裕があるので大丈夫ですよ」
「駄目」
「な、なんでですか」
「危ないから。ここからあんたの最寄りまで1時間はかかるし、駅から家までもそこそこ歩くじゃん。何かあったらどうするの」

 私の家から最寄り駅までの距離を調べたらしい泉さんは、危ないからと言って頑なに首を縦にしない。
 これ以上迷惑をかけられないと言えば今更すぎると言われるし、服がないからと言えば貸すと返されるし、どうしたものか。料金が馬鹿にならないから、できれば控えたかった最後の手段、タクシーで帰宅することを伝える頃には既に泉さんのスキンケアは終わっていた。
 無表情の泉さんがじっとこちらを見ている。なんだか目を逸らしたら負けな気がして、こちらも負けじと青い瞳を見返していた。そうしてしばらく無言で見つめ合った後、ふと泉さんが目を逸らした。
 勝った、そう内心で思ったのも束の間「この時間帯、ここらへんはタクシー走ってないから」と言われて思わず眉を下げる。タクシーが通らない都心だなんて聞いたことがないけれど。どうやら泉さんは意地でも帰らせないつもりらしい。

 言葉に甘えて泊まらせてもらうのも良いかもしれない。だって、好きな人の家に泊まれるだなんて最高だもの。だけど、泉さんに限ってはそれをしてはいけないのだ。
 私と泉さんの間にある見えない一線、私が勝手に引いたものだけど、今更それを越えるような真似はできない。自分が恋心を抱いているのだと気付いてしまったのだから、なおさら。
 私と泉さんは、生きている世界が違うのだ。

「泉さんがそこまで寂しがりだとは知りませんでした」

 わざと溜息を吐いて、大きめの声で言えば整えられている眉がぴくりと動いた。
 私と泉さんの年の差は1歳。たったの1年ではあるけれど、それでも先輩には違いはない。後輩の私にまるで子どものようだと遠回しに言われるのは癪だろう。
 私だってこんなこと言いたくはないけれど、でも、こうするしかない。皮肉を言えば、きっと泉さんは怒る。怒った泉さんはきっと、好きにすればと言う。そう思っていたのに。

 おもむろに立ち上がった泉さんはキッチンに向かって、数個のカップケーキが乗せられている小皿を手にして戻ってきた。それはついさっき、私が夜景を眺めながらロマンチックな気分に浸っている時に作ってくれていたもので。

「ご褒美。食べてからでも遅くはないでしょ?」

 私がわざと皮肉を言っても言い返してこなかった。昔の泉さんだったら絶対に喧嘩腰になっていたのに、どうして。
 大人の対応と言われたらそれまでだけど、そうまでして私を家に置いておく必要なんてきっとない。心配してもらわなくてもちゃんと家に帰れるのに。

 でも、わざわざ作ってくれたものを食べずに帰ることなんてできない。幸いなことにうるさい心臓は少し落ち着きを取り戻していたから、泉さんと上手く喋り続けられるかはわからないけれど、なんとかなると思う。それに、カップケーキを食べるだけだしね。
 大丈夫、そう自分に言い聞かせて椅子に腰掛ければ「紅茶と珈琲、どっちにする?」と訊ねられる。悩むことなく紅茶をお願いすると泉さんは再びキッチンへと足を向けた。


 時計の針は21時半少し前を指している。
 ここから紅茶と一緒にカップケーキを食べるのに30分くらいかかるとして、22時。電車で1時間かかると言っていたから23時。私の家に着くのは日付が変わる少し前くらいだろうか。
 日付が変わるか変わらないかくらいに帰宅することなんてよくあることだ。泉さんは危ないからと言っていたけど、別にそこまで気にする時間でもない。どれだけ心配症なのだろう。

「家に来た人、みんなにそういう感じなんですか?」
「どういう意味」
「だから・・・・・・帰りが遅くなるようなら泊まらせてあげるとか・・・」
「さあ、どうだかねぇ」
「じゃあ、女性限定とか?」

 話題作りを失敗したと思った。こんなこと聞く予定じゃなかった。聞いてはいけないとわかっているのに、言葉がとまらなかった。
 口に出して激しく後悔していたら、ティーセットを用意していた泉さんがちらりとこちらを見たけれど、視線を絡ませる勇気がなくて慌てて夜景の方へと目を移す。時間によって色を変えているタワーは、今はスカイブルーに光っていた。

「まったく、アイドルの世界舐めてるでしょ? 仮に異性を家に招いて、もしそれがバレたらどうするの」

 確かに、アイドルが世間に恋愛事情を晒すのは御法度だ。つまり今の言い方だと、泉さんは女性を家に招いたことがないということになる。でも、それだったら私はどうなるのだろう。私は例外なのだろうか。騒ぎになったとしても、先輩と後輩の関係だから大丈夫なのだろうか。

「とにかく、なまえは鈍臭いところがあるから、この時間にひとりにさせるのが心配なだけ」

 鈍臭いのは間違いないからそう言われてしまうと何も言い返せない。それでも、泊まらせてもらうわけにはいかないのだけど。

 小さく深呼吸をして呼吸を整えた私は、目の前にある私の大好きなチョコチップの混じったカップケーキをひとつ取って口に放り込んだ。
 念願の泉さんお手製カップケーキは私好みの甘さで、油断したらとろけてしまいそうなくらいに美味しくて、何故だか少し胸が苦しくなった。

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