泉さんの家に来てからずっと部屋に引きこもっていたから、廊下がどうなっているかなんて知りもしなかった。
 先に出てていいからと言われた私は悩まず扉を開けたのだけど、床に敷き詰められているカーペットに驚いて、それからクラシックでも流れてきそうな赤みのある照明に驚いて、思わず扉を閉める。
 部屋へと戻れば、財布やスマートフォンを手にしていた泉さんは、駆け戻ってきた私に眉を寄せる。

「何」
「出たらいけない気がして」
「そう。無理して出る必要もないんじゃない?」

 つんと言い放つ泉さんはカップケーキを食べ終えてからずっとこんな調子だ。一悶着の末、帰れることになったわけだけど、納得はしてくれていないのだろう。
 たしかにこんなに大きな部屋にひとりきりでいたら寂しくもなってしまうと思う。でも、私はこれ以上泉さんに踏み込んではいけない。心の中の自分がそう訴えている。帰らなければならないのだ。
 だから、外まで送ると言ってくれたわりにはやけにゆっくり準備をしている泉さんを急かして、空調まで完璧に整えられている廊下へと、半ば強引に押し出したのだった。


 シックなダークカラーを基調としている廊下は上品で落ち着いていて、私には不釣り合いだと感じた。当然、不機嫌な泉さんは口を閉ざしているから会話なんてないし、カーペットが足音を包み込んでしまっているおかげで音もない。
 気まずい雰囲気に、せめて早く外へ出たいと思いつつエレベーターのボタンを押したのだけど、しばらくした後に開いたそれから降りてきた人を見て息を飲む。

 鉢合わせしたのは、誰もが知っているような有名なモデルさんだった。私や泉さんと同じくらいの歳の人で、もちろん実物で見たのは初めてだ。優しそうなその人は泉さんを見て私を見て、それから目尻に皺を作って挨拶をしてくれて。
 思わぬ人物に遭遇してしまったことに石像の如く固まっていたら、背中を軽く叩かれた。我に返った私は慌てて挨拶を返す。その人は満足したように泉さんへと顔を向けたので、安堵しながらも隣に立っている泉さんへと近寄って服の裾を掴んだ。

「瀬名さんが女性を連れてるところなんて初めて見たかも」
「ただの後輩だから」
「ああ。もしかして、“卒業以来会ってなかった後輩”?」

 顔が小さい、肌が綺麗、手足が長い、泉さんの服を掴みながらもミーハー感丸出しでじっと観察していれば、聞き覚えのあるフレーズが耳に入った。
 昨晩に観た、テレビ番組でのことだ。思い出した私は小さく息を吐く。それにしても、泉さん、この人と仲が良いのかな。こんなすごいモデルさんと敬語を使わずに喋ってるなんて。

 焦ると物忘れが酷くなる私は、泉さんが目の前にいるアイドルと同じくらいーーむしろ彼よりも人気のモデルで、人気のアイドルだということを忘れていた。だけど、私は意識を逸らすことで精一杯だった。なんとなく、泉さんの答えを聞くのが怖かったのだ。

「そうだけど。悪い?」

 相変わらず誰であっても喧嘩腰らしいけれど、そんなことはどうでもよかった。
 泉さんが肯定してしまった。つまりそれは、昨日の番組での泉さんの発言が私のことであったと認めてしまったということ。私と会えたことが嬉しかったと、そう言っていたわけで。
 胸の奥から込み上がってきた何かを必死に堪える。泣きそうになって、すごく苦しかった。とにかく、早く帰りたい。この場から逃げたい。泉さんと彼が会話をしている傍らでずっとそんな気持ちに支配されていた。


 日付が変わってしまっている。ずっと堪えていた涙は今にもこぼれ落ちてしまいそう。あれもこれも全部全部泉さんが悪い。でも、しゃぶしゃぶも、煮込みハンバーグもカップケーキも、最高の思い出だ。せめてあの味はこの先忘れないようにしなければ。そう思いながらも、湿気の混じった空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 どのタイミングで手配してくれたのかはわからないけれど、エントランス前の道路には1台のタクシーが停まっていた。あれに乗れば、私はもうこんな苦しい思いをしなくて済むんだ。そんなことを思っていた。

「ねえ、次はいつ会えるわけぇ?」

 ほんの少し後ろから、生暖かい風に混じって少し寂しそうな声が耳に届いた。
 言葉を耳にした瞬間、頬が濡れて、つい足を止めてしまう。他人の気持ちなんて言葉にしてもらわなければわからない。だから、泉さんが私の気持ちに気付いていなくても仕方がない。それでも、今日ばかりは察してほしかった。
 私は決して善良な人生を送ってきたとは言えないけれど、でも、悪いことばかりをして過ごしてきたわけでもない。それなのに、優しくない神さまはまた私を苦しめようとしているらしい。
 泉さんが、私なんかを好きなはずがないのだ。そうであるはずなのに、泉さんは悪戯にそんなことを言う。

「すみません。今手帳を持ってなくて・・・あいてる日が分からないんです。だから、また今度連絡します」

 声が震えているのを気付かれないように、涙を拭うのを気付かれないように、私は言った。
 そのまま連絡しなければいい。家に帰ったら泉さんの連絡先を消して、電話には出ないようにして、メッセージにも返信しないように。家の場所は知られているけれどさすがに来ることはないだろうから大丈夫なはず。
 高校生の時と同じようなことを繰り返してしまうのは憂鬱だけど、きっと今の状況よりはいいかな、なんて。ーーそんなことを考えている私へ噛みつくように腕を掴んできたのはもちろん、泉さんしかいない。

「今すぐ教えて。教えてくれないなら帰さない。思い出せないなら無理矢理にでも家に連れ戻す。帰りたいなら、死ぬ気で思い出してよ」

 なんで、どうして泉さんが泣きそうな顔をしてるの。今にも声を上げて泣いてしまいたいのは私の方のはずなのに。

 わずかに汗ばんでいる手のひらに夏を気配を感じた。泉さんの悲痛な声を聞いた私は、ただ左腕を締めつける力に、痛いですと、そう返すことしかできなかった。

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