chapter.3


 耳障りなセミの合唱に起こされる。
 手を伸ばしてペットボトルを探し出す。明らかに真夏の室温に順応してしまった烏龍茶、少し抵抗があったけれど潔くそれを飲み込んだ。まだ外で熱いお茶を飲んだ方がマシだと思えるくらいの中途半端なぬるさに、思わず眉間を寄せてしまいそう。

 もう数ヶ月も前になる。あの日、深夜のエントランス前、私の腕を掴んでいた泉さんの力は相当なものだった。
 どこか駄々を捏ねる子どものような影が見え隠れしていた泉さんは、同じく子どものように、思い出せない、わからない、ただそれだけを繰り返す私をやがて本当に部屋に連れ戻そうとした。力の差もあり、私は簡単に連れていかれそうになって、それで、確か、泉さんの手首を爪を立てるようにして引き剥がしたんだっけ。

 苦しかったし、ちょっと怖かった。震える手で涙を拭ったのは多分見られていたと思うけれど、どうしようもなかった。それから逃げるようにタクシーへ駆け出して、飛び乗って、家に帰って。それ以来、泉さんとは連絡を取っていない。
 あの日のことを謝りたいと思っているけれど、あんなことがあってからでは電話なんてできっこない。それに向こうからも連絡が来ないから、きっと嫌われたんだと思う。でも、それならそれでいい。むしろ、きっとその方がお互いのためになるのだろう。


「ああもう・・・、一番の被害者は泉さんなのに」

 第一に、私が安易に泉さんの家にお邪魔したのが悪い。酔い潰れていたからなんて、そんなものは通用しない。私ももう大人なんだから、学生の飲み会気分でお酒を飲んじゃいけなかったのに。たとえ煽ってきた相手が、何百回と下らないことを言い争って、幾度となく下校を共にして、何度も何度も泣きついては慰めてもらった、あの自称吸血鬼だったとしても。

 今日こそは謝ろう。毎日毎日、何週間も同じことを決意してはやっぱりまた明日と意思を弱くしている。でも、今日こそちゃんと電話をして、謝らなくちゃ。
 窓の向こうに広がっている青い空を見た私は、吐きかけた溜息を飲み込んでスマートフォンを手にする。そうして未だに消せていない泉さんの連絡先から電話番号をタップしようとした時だった。不意に画面が変わった。

 寝起きに優しくないような色気のある声をした朔間さんの――凛月さんの兄の曲が部屋に響く。
 私があえて個別に設定した着メロだ。しゃぶしゃぶを食べに行った時に凛月さんの連絡先を登録してとせがまれて、その時につけてあげたのだ。
 あの時の深刻なくらいの嫌そうな顔、写真に撮りたかったなあ。そんなことを思いながらも、朔間凛月、そう表示されている画面を数秒くらい見続けた後、私は意を決して指を滑らせた。

「もしもし」
『・・・・・・あー、もしもし』

 テンションの低い声。今にも落ちてしまいそうなくらいに眠そうな声は紛れもなく凛月さんのものだった。
 隣に泉さんがいるのでは、そこが気がかりだったけれど、どうやら凛月さんは寝起きらしい。もぞもぞと布が擦れる音がしばらく続く。
 なかなか喋り出さないのでどうしたものかと思っていると、凛月さんらしい遠慮のない大きな欠伸が聞こえてきた。多分しっかり伸びもしていたと思う。満足したのか、その声は少しだけご機嫌な様子に変わっている。

『もしもし?』
「はいはい、何ですか?」
『ねえ、お願いがあるんだけど』
「他をあたってください」
『え〜? アイス食べたくないの?』
「アイス?」
『うん、撮影現場の近くで見つけたの。最近オープンしたらしくてさ、ま〜くんと行きたかったんだけど忙しいって言われたから・・・・・・だから仕方なく暇そうなあんたを誘ってあげてるの』

 ひどいよねぇ、俺より仕事を取るなんてさ。電話の向こうで今ごろ口を尖らせているであろう凛月さんと、アイスを思い浮かべながら思わずううんと唸る。
 どうしようか、こんな真昼間から凛月さんと会うと大変なことになりそうだけど、でもアイスは食べたいな。冷凍庫にあったアイスも一昨日で食べ切ってしまったし、アイスを食べに行った帰りにスーパーにでも寄って買い溜めしようかな。

「いいですよ」

 どうせ暇だし、そう思って返事をすれば、すぐに「じゃあ」と声が耳に届く。時間と待ち合わせ場所を伝えられた私は慌てて時計を見る。

「急すぎ!」
『ひょっとしてまだパジャマなの? もう13時になるよ』
「まさか。もう準備万端って感じですよ」
『ふふ、そう。じゃあまた後でねえ』

 自分の部屋着を見て、無造作に跳ねる髪の毛に触れて、しばらく絶望していたから電話が切れていたことに気付かなかった。
 移動時間を含めてあと2時間、間に合うか非常に心配なところだけど、凛月さん相手に遅刻なんて絶対にしたくない。そう思った私は気合を込めて支度を始めるのだけど、結局、待ち合わせには15分程度遅れてしまう。


 大きな公園のベンチでサングラスをかけて日傘をさしながらアイスコーヒーを手にしている姿は、どう考えても目立つはずなのだけど、存在感を消す術でも習得しているのか、私が探し出すのが下手なのか、見つけるのに少し時間がかかってしまった。
 おそらく、というか確実にあの姿は凛月さんなのだけど、周りとは違う雰囲気や威圧感もあって声をかけてもいいのか悩む。戸惑いつつ近付いていくとサングラスがこちらを見てどきりと胸が鳴る。それも一瞬のことで、その人は口角を上げてから「おそい」と唇を動かした。ひらひらと手を振るその様子に安心した私は、遅刻していたことを思い出して慌てて駆け寄る。

「遅れてごめんなさい」
「いいよ、今日は特別に許してあげる」

  特別という言葉を強調してわざとらしく首を傾げて私を見た自称吸血鬼についつい反抗したくなったけれど、今回ばかりは全面的に私が悪いので気持ちをぐっと堪える。やっぱり誘いに乗るのは間違いだっただろうか。

「凛月さん、コーヒー飲めるんですね」

 反抗心を燃やしながらも、いつもそんな厳ついサングラスをかけているのか、その黒いシャツは暑くないのか、まだ陽が出ているけれど大丈夫なのか、いろいろ聞きたいことがあったけれど、その中でも一番気になったことを口にした。炭酸飲料しか飲んでいるイメージがなかったからコーヒーを飲むのは意外だ。
 サングラスをかけているからどんな顔をしているのか正確にはわからない。それでも、多分、凛月さんは不思議そうな表情をしていた。

「なまえ、セロリ食べれるようになった?」
「もうとっくに食べられますよ」
「ふふ。そうなんだ。じゃあそんな感じだよ」
「どんな・・・?」
「なまえが俺の知らない間にセロリを食べられるようになったみたいに、俺もなまえが知らない間に大人になったってこと」

 卒業してから10年弱。きっと、その間に私の知らない凛月さんの一面がたくさん生まれているのだろう。凛月さんだけじゃなくて、泉さんも。
 よっこいしょ、そう言いながら立ち上がった凛月さんが眉を寄せてのろのろと歩き出した。きっと今も昼間は得意ではないのだろう。その変わらない部分を見て、少し安心してしまった自分がいた。

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