正直、泉さんとのことを聞かれるかと思っていたから、少し身構えていた。
 家に連れていかれそうになったこと、逃げ出したこと、連絡を取っていないこと。どこまで知っているのだろうとずっと不安だったのだけど、私の不安なんて知らない凛月さんは、呑気にチョコ味のアイスを食べて、その後は私が食べ終わるのをのんびりと待ってくれていた。

 店を出る頃には陽が落ちかけていて、そろそろ夜が始まると知らせている。そうなれば彼の時間だ。凛月さんの赤い目は次第に輝きを増し、今では待ち合わせをした時とはまるで別人のようになっている。
 ちょっと嫌な予感がした。だから店の外へ出てすぐに別れを告げて駅の方へと歩き出そうとしたのに、案の定捕まってしまう。

「帰っていいなんて言ってないんだけど?」

 さっと私の前に回り込んだ凛月さんは言った。
 対面して気付いたのだけど、凛月さんは背が伸びたようだ。かつては少し顔を上げるくらいだった身長差が、今ではもっと開いている。
 今更そんな事実に気付いて悔しくなった私は、おもむろに凛月さんがかけている伊達眼鏡を奪い取った。変装しているつもりなんだろうけど、それにしては手を抜き過ぎてるんじゃないの。昼間のサングラスだって余計に目立っていたし。
 凛月さんは人を魅了するような人だから、眼鏡一つで変装したところできっと誰かしらに気付かれていたと思う。それとも、この眼鏡になにか不思議な力でも込められているのだろうか。なんて。
 まさかそんな漫画みたいなことはと思いつつもその眼鏡をかけてみたけれど、残念ながら眼鏡越しに見える凛月さんも、風景も、何一つ変化していない。

「凛月さん、私が誰に見えます?」
「ん〜? ナッちゃんに見える」
「えっ、嘘」
「うん、嘘。似合ってないから、早く返して」

 真面目な顔で冗談を言われるとつい信じてしまいそうになる。そういえば、泉さんも真顔で冗談を言うタイプだったっけ。そのまま少し前のことを思い返そうとして、私は慌てて頭を振った。
 頭を過った泉さんとの楽しかった記憶は、今必死に忘れようとしているところだ。そう考えれば考えるほど思い出深いものになってしまうということはもちろんわかってはいるけれど、意識せずにはいられないのだ。

 早くと言うわりには手を差し出して来ない。黙ったままこちらを見下ろす凛月さんをじっと見つめてみてたけれど、眉を寄せたりなんてしない。きっとこれが泉さんだったら、眉を寄せて、何ガン飛ばしてんのと、そんなことを言いそうだ。
 そうしてしばらく凛月さんをぼんやりと眺めていたから、凛月さんの手が私の頭の上に伸びて来ていたことには頭を撫でられるまで気付けなかった。

「なまえ、何も変わってない」

 わざとなのかと問いたくなるくらいわしゃわしゃと髪を乱すように撫でられて、私は思わず凛月さんに一歩近付いて力いっぱい胸を押した。
 もちろん離れてという意味だ。だけど、凛月さんの体幹が鍛えられているからなのか、私の力が弱いからなのか、凛月さんがバランスを崩すようなことはなかった。

「お兄ちゃんに話せる?」

 高校生の時もだ。凛月さんは私がひとりで落ち込んでいたり泣きそうになったりしている時、ふらりと現れては必ずいつもは絶対に出さないような優しい声を出す。本当にずるいと思う。その声を聞いたら、私が条件反射のように泣き出すのもわかっててやっているのだから、余計に。

 じわじわと滲み出てきた涙に顔を上げると真っ赤な瞳が少しだけ細くなった。慰めてやらなくもないという合図だ。
 私は堪らず目元を邪魔していた眼鏡を凛月さんに押し付けて、そのまま凛月さんの肩に額を押し付けた。まさか大人になってまで頼ってしまうとは思ってもいなかったけれど、大人になった今日も、凛月さんは変わらず私を受け入れてくれた。

「よし、よし・・・・・・セッちゃんに、怖い思いさせられたんだってねぇ」

 アイスを食べていたときは何も言ってこなかったから知らないかとも思っていた。泉さんがどう言ったのかはわからないけれど、少なくとも凛月さんは泉さんが悪いと、そういう風に捉えているらしい。でも、それは誤解だ。

「違う、わたしが」

 頭を撫でる手を退けて、顔を上げたその瞬間、頬に軽い痛みが走った。私の両頬を挟み込んだ色白の手は、まるで本当のお兄ちゃんのように大きくて、あたたかい。
 凛月さんは溢れる涙をその親指で拭ってくれた。早く落ち着かなきゃと必死に言い聞かせていたのだけど、私はふと、真っ黒な髪の隙間から覗く眉が下がっているのに気付いてしまった。

「なまえは悪くないけど。でも、なまえが戻ってきたこと、俺もセッちゃんもすごく嬉しかったの。嬉しくて、でも同時に、またいなくなるんじゃないかって思ってて・・・特にセッちゃんはそこんところすごく心配してるんだよ。それで不安になっちゃったんだと思う」

 そう言って、凛月さんは少し寂しそうに微笑んだ。
 嬉しかったなんて言われても、どんな顔をすればいいのかわからない。私は別に嫌いだから連絡を取らなくなったわけじゃない。ただ私とは釣り合わない人たちだから、そう思ったから連絡を絶ったわけで。だから、まさか泉さんや凛月さんが卒業後も私のことを考えてくれていたなんて、まったく、思ってもみなかった。
 間違いだったのかな。もし卒業後も連絡を取り合っていたのなら、こんなことにはならなかったのかな。なんて、今さら過去のことを後悔したって無駄なんだけど。でも、きっと私はこの件についてずっと後悔してしまうのだろう。

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