「いいんじゃない?」

 凛月くんは腕時計を眺めて微笑んだ。
 シルバーの文字盤に革ベルトの腕時計。悩みに悩んだけれど、シンプルなデザインなら泉さんも使ってくれるかもと2人で話し合った結果だ。日付の機能もついているし、プライベートで使うのに悪くないとは思う。使ってもらえれば嬉しいけれど。
 意を決して財布を取り出せば、時計を店員さんに渡していた凛月くんが少し不安そうにこちらを見たことに気付く。

「もっと安くても喜ぶと思うんだけどねぇ」
「でも、どうせならしっかりしたものを使ってほしいなって思うし」
「なまえってたまに勇ましいよね」

 惚れそう、と言いつつ腕に絡みつくようにして距離を縮めてくる凛月くんを無視したまま、私はレジへと向かった。
 たしかに言われた通り、自分が時計を買うなら候補にすら入れないブランドだ。だいぶ、というかかなり背伸びしなければ買うのは難しい。そんな値段のものではあるけれど、そもそももらってくれない可能性だってあるのだ。
 泉さんのことだから謝ったとしても許してやらないと突っぱねそうだし、そうなったら最悪だ。まだ謝る日すら決めていないというのに、胸が苦しくなる。

「ねえ、俺が払うよそれ」

 保証などの説明を聞き流していた時、暇だったらしく私にやたら絡んできていた凛月くんが隣でこっそりと口にした。
 突然耳元で聞こえてきた声に私は思わず肩を揺らす。驚いてしまったのは凛月くんもらしい。そんなに驚かなくてもという言葉に一言二言反論して、そのあとに凛月くんの言葉を思い出して首を傾げてしまう。どうして凛月くんが払うのだろう。
 聞けば、凛月くんは「贈り物の提案をしたのは自分だから」と口にした。だからいいよと、そんなことを言って財布を取り出そうとした凛月くんを慌てて止める。
 提案してくれたのは凛月くんで間違いないけれど、その提案に乗ったのは私だ。それ以前にこれは私と泉さんの問題だ。そこまでしてもらうわけにはいかない。私がそう言うと、眉を下げてわかりやすく沈んでしまった。

「あのさ、なまえ」
「大丈夫。しばらくは3食卵かけご飯になりそうだけど生きられるよ」
「そうじゃなくて」

 あくまで食い下がる様子に疑問を感じながらも支払いを済ませてしまえば、さすがの凛月くんもそれ以上何かを言うことはなかった。
 いつもは落ち着いているか気怠げにしている凛月くんがこんなにも焦るのは珍しい気がする。なにか理由があるのかな。
 そんな私の推測は正しく、腕時計を購入した直後から黙り込んでしまった凛月くんと一緒に店を出たあと、その理由は明らかになった。


「本当は、俺のせいなんだよ」

 そろそろ帰ろう。そんな話を振って数分、届いた言葉に私は思わず振り返る。
 星空の下、少しぬるめの風を肌に受けながら目を合わせようとしない凛月くんをただただ見つめていた。何のことかさっぱりわからなかったけれど、どうやら泉さんと私のことらしかった。私はそこでふと、先程の電話で凛月くんが口にしていた『俺にも責任がある』という言葉を思い出した。

「なまえを酔わせてセッちゃんの家に連れてかれるように仕向けたのは俺だよ」

 沈んだ声が夜の静かな街に小さく響く。
 今でも鮮明に思い出すことのできる2日間の出来事。しゃぶしゃぶを食べて、酔い潰れて、次の日、私は泉さんの部屋のソファでぐっすり眠っていた。覚えていないから本当に吐きそうになっていたのかどうか、故意的に連れて行かれていたのかどうかは定かではないけれど、凛月くんがそう言うのならそうなのだろう。
 泉さんはそれを知ってて私を家に運んだのだろうか。聞こうかとも思ったけれど、何となく答えはわかる。私は訊ねるのを止めて、呼吸を整えてから笑って見せた。

「あんな場所で酔い潰れて・・・みっともなかったでしょ。ごめんね。でも、次は凛月くんに煽られても動じない強靭な女になるから」
「・・・・・・、ふぅん? また会ってくれるんだ」

 わざわざ時間を作って会ってくれて、それだけでなくいろいろな話を聞かせてくれた凛月さんに対して、もう会わないなんてそんなこと言えるわけがない。
 肩を落としていた凛月くんは私の言葉に困ったような顔で笑う。セッちゃんがいなければ、好きになってたのにと、小さく呟かれた言葉は聞こえないふりをした。

 やっぱり、こんなことになるなら卒業後も連絡を取り続けるべきだった。後悔しても仕方ないけれど、一度考えてしまったら、どうしようもないとわかっていたって悲しくなる。
 彼らはアイドルで、私は一般人だから。そんな思いに駆られて連絡を絶ってしまった。そのおかげで私は苦しい思いから逃げられたけれど、その間凛月くんや泉さんはどうだったのかな。寂しいとか、思ってくれてたのかもしれない。
 みんなには、悪いことをしてしまった。だけどそんな罪悪感を抱くのと同時に、少し、少しだけ、ほっとしている自分がいた。私はみんなとは住む世界が違うから、だから深く関わってはいけない気がしていたけれど、そんな気持ちが今になって小さくなっていることを感じていた。

「凛月くん。今度会うときは、凛月くんの話も聞かせてほしいな」

 高校を卒業してから今までのこと、どんなことでもいいから知りたい。なんて、そんなことを言った途端なんだかものすごく恥ずかしくなって、私は意味もなく時計の入っている紙袋を右手から左手に持ち替えて、笑っている凛月くんに耐え切れず踵を返して夜道を歩き出した。

「なまえの話も。たくさん聞かせて」

 背後から柔らかい声が風に乗って届いてきて、ちょっと泣きそうになった。少しの間をあけてから「いいよ」と小さく返事をしたけれど、凛月くんには届いただろうか。

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