chapter.4


 泉さんに連絡ができないまま夏が終わってしまった。季節は秋、10月も半ばに差し掛かっている。
 真夏の夜、泉さんへの贈り物を一緒に探してくれたあの日を境にドラマ撮影の仕事で多忙だった凛月くんは、やっと仕事が一段落したらしい。だから今日はお疲れさまの会としてカフェでランチをして、それから、ついに泉さんと会うことになっていた。
 誘われたものだから、すっかり安心しきっていた。それが間違いだったと気付いたのは当日のお昼前のこと。


「えっ、来れない?」

 思わず素っ頓狂な声を漏らすと街を歩く数人がこちらへ目を向けたので、私は慌てて場所を移動した。わざわざ移動するほど恥ずかしかったわけではなくて、昨日の夜から必死に落ち着かせようとしていた気持ちが凛月くんのドタキャンによって崩れてしまったからだ。
 まさか今日に限って寝坊されてしまうなんて。しかも凛月くんはまだ眠り足りないと言っている。眠すぎて瞼が重いと、ふにゃふにゃした声と一緒に布が擦れる音が聞こえてくるから多分嘘ではない。

「でも、泉さんと会う約束は」
『なまえなら、ひとりでも大丈夫』

 何を根拠にそんなことを言っているのだろう。私のことは私が一番わかっている。今の状態で既に心臓が嫌な音を立てているのだから、これでは泉さんと2人きりだなんて無理に決まっている。
 もし、私を見た泉さんが嫌な顔をしたら、謝っても許してくれなかったら。そうしたら私はどんな顔をすればいい。きっと泣いてしまいそうになる。だからと言って逃げるわけにもいかないし。
 高校の時も、あの日の夜も、私は2度も泉さんから逃げてしまった。だからもう逃げられない。逃げてはいけないのだ。ーーでも。

「・・・・・・うまくいくとは思えないけど・・・」

 冷たい風が肌を刺す。今日は天気が良かったから薄着で来てしまったけれど、失敗したと思った。
 凛月くんが来ないなら一度家に帰ってカーディガンでも取ってこようかな。でも、そうまでするのは面倒くさいし、だからといって近くの店で買うのももったいないし、いっそ私も帰って寝てしまいたい。
 我ながら子どものようだと思いながらもそんな考えから抜け出せなくなっていると、今まで静かだった電話の向こうの凛月くんが少し笑ったのが聞こえてきた。
 そこまで言うなら同席してあげると、わがままに折れてくれた凛月くんに罪悪感を抱きつつも、ほっと胸を撫で下ろした。甘えだというのは自覚しているけれど、こればっかりは頼らずにはいれない。

「いつ来れる?」
『んん、今から準備するから待って、先に行って席取っておいてくれない・・・?』

 約束していたカフェは今いるところから歩いて数十秒ほどのところにある。ひとりでは少し入りにくい雰囲気の店だった。
 立っている場所からそのカフェを少し目を細めて見てみた。店の奥までは見えないけれど、外から見える席は比較的空いている。平日の午前中だからかな。その中にひとりで来ているお客さんを見つけた私はちょっとだけ安心して、凛月くんにわかったと返事をしたのだった。


 凛月くんが来るまで特にやることもなく、だけど先に食事をするのも忍びなく、ただひたすら紅茶を頼んでぼんやりと考えごとをしていた。
 どうやって謝ろうだとか、許してくれるだろうかとか、次々に頭に浮かんでくるのはすべて泉さん関連のことだった。そのすべてがどんなに考えても埒が明かないものなのだけど、それでも考えずにはいられない。

 ひとりだからこんなに悶々と考えてしまうのだろう。
 早く凛月くんが来てくれれば、私の話を聞き流してくれさえすれば、それだけで救われるのに。そう思いながらティーカップを手にして、カップに残ったぬるい紅茶を一気に飲み干した。
 それからカップをテーブルに置いた、ちょうどその時だった。私は、ふと名前を呼ばれた気がして横を見てしまう。

「泉、さん」

 青い瞳と目が合った瞬間、向こうが眉を寄せたのを私は見逃さなかった。
 黒のパンツに黒のタートルネック。スタイルのいい泉さんはバッチリと着こなして、おまけにネックレスをワンポイントに持ってきている。
 私はそのゴールドのネックレスに目を向けたまま「お久し振りです」と言った。さすがにあの表情を見たあとで目を見ることは出来なかった。

「・・・・・・くまくんに、なまえと会う前に話したいことがあるって言われたから来たんだけど」

 そんなこと言われたって困る。私だって凛月くんと食事する予定だったのに、そう言いかけてふと気付いたのは、これが凛月くんの作戦だということ。
 凛月くんならありえそう。こんな早い時間に待ち合わせをしたのも、もしかしたら元から来る予定がなかったからなのではないだろうか。

「あのさぁ、」

 泉さんは、まるで刺し殺しそうなほどの視線をこちらへ送ったまま腕を動かした。その瞬間、考えたくもない状況が頭をよぎって大袈裟に肩を揺らしてしまう。
 ただ少し動いただけなのに。何かされてしまう、なんて、泉さんはそんなことしないとわかっているのに、今は少し怖い。

「す、すみません・・・わたし」

 自分でもおかしいと思う。それくらい動揺している。泉さんとは長いこと会っていなかったけれど、テレビではたまに見かけていたし、凛月くんと出かけた時に声も聞いた。だから心のどこかでは大丈夫だと思っていたのに。
 せめてはじめに眉を寄せられたのに気がつかなければ、そんなことを考えても仕方がないのだけど。

 やっぱり帰ろう。こんな状況じゃとてもじゃないけれど話せそうにない。もう逃げないと、そんなことを心に決めたばかりだったけれど。
 自分の意思の弱さを感じながらもそっと鞄に手を触れた時、立っていた泉さんが向かいの席に座ったのが視界の端に映った。
 顔を上げると、泉さんはこちらを見るわけでもなく、メニューを手にして眺めている。

「ここのオムライス、美味しいって噂」

 ぽつりと呟かれた言葉は、間違いでなければ私に向けられたものだろう。こちらを一切見ないで言ったことは引っかかるところではあるけれど、私は少し悩んで、鞄から手を離して「食べたいです」と言った。泉さんはそれに対して何を言うわけでもなく、近くにいた店員さんを呼んだ。
 あんなに嫌そうな顔をして、きっと帰りたいと思っているだろうに、それなら帰ってくれたっていいのに。それでも泉さんは私とは違って、逃げるなんてことは少しも考えていないようだった。

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