料理を注文してくれてからどれくらいたったのだろうか。会話をするどころか視線が絡むこともなく、近くの席に座っている人たちの声がやたらと騒がしく感じる。
 目が合わなかったのは私が泉さんを見ようとしなかっただけで、視線を感じた時はあった。それでも、泉さんは口を開かない。私も私で、謝らなきゃとは思っていても話しかける勇気もなく、結局、料理が運ばれてくるまで重たい沈黙は続く。


「お待たせいたしました」

 暗い雰囲気の中、店員さんは空気を読んだのか、妙に小さな声でオムライスとサラダを持ってきてくれた。
 蕩けてしまいそうなくらいに絶妙な半熟卵で覆われたそれが目の前に置かれて少し気が緩む。美味しそうなご飯を目の当たりにするとどうしても空腹を感じてしまうけれど、今日ばかりはすぐには食べることができなかった。
 泉さんが食べ始めたら食べようか。そう思って様子をうかがうと、泉さんはサラダを取り皿にわけているところだった。
 私だったら小皿にわけないでそのまま食べるだろう。細かい、というか、しっかりしているんだなあ。そんなことを思いながら眺めていたら、サラダを分け終えた泉さんがそのお皿をこちらへと差し出してきた。私は思わずその小分けされたサラダと泉さんを交互に見てしまう。

「食べろってこと。言われなきゃわからない?」
「だ、大丈夫ですよ。気持ちだけで十分です」

 泉さんはサラダしか頼んでいないのに、それを私にあげてしまったら食べるものがほとんどなくなってしまう。そもそもサラダだけで満腹になるはずがないのに。
 以前、私とは胃袋の作りが違うと言っていたことを思い出しながらも首を横に振ったけれど、泉さんが面倒臭そうな顔をしたので慌てて手を伸ばす。
 受け取った時、泉さんの手を見て少し前のあの出来事を思い出した。だからつい、今にもサラダを食べようとしていた泉さんへと声をかけてしまった。泉さんは無視をすることはなく、だけど黙ったまま、こちらを見た。

「あの。手、見せてください」

 あの日の夜、泉さんの手首に爪を立ててしまった。きっともう痕は残っていないだろう。それでも、どうしても確認したくなった。
 警戒しているのか、手を出してくれない泉さんに、もう一度同じことを口にする。
 どちらの手のどこを傷付けてしまったかはちゃんと覚えている。だから手を出してくれるだけでいいのに、泉さんは決してこちらへ見せようとはしない。
 私の不審な言動に警戒して見せてくれないのかとも思ったのだけど、泉さんはちゃんと気付いていたらしい。やめてよと、目を伏せて少し苦しそうな顔で言った。

「思い出したくない。傷なんてできてないから、もう忘れて」
「そんな簡単に忘れられません」
「酔うと人恋しくなる時ってあるでしょ? あれと同じで、俺もあの日はちょっと酔ってただけ。別にあの場にいたのがあんたじゃなくても、同じことをしてたから」

 手首に触れたまま、その手を眺めている姿に私は何と言おうか悩んでしまった。
 酔うと人が恋しくなるというのは私にも覚えがあるからわからなくもない。でも、きっとあの日あの場にいたのが私じゃなかったら、あんなことはしなかったと思う。そもそも泉さんは酔って自制できなくなるほどワインを飲んではいなかったはず。泉さんがお酒に弱くはないことは、同窓会の日を通してちゃんと知っている。
 だからこそ、私は謝らなきゃいけない。ーー本当は、好意を向けられていることに気付いていたのに、気付かないふりをしてしまったから。

「泉さん、ごめんなさい」

 できれば料理が運ばれる前に、それが駄目なら食べ終わったあとに言うべきだったのかもしれない。だけど、そういうことを考えるよりも早くに口をついて出てしまっていたからどうしようもない。それに、きっとこのタイミングしかなかったと思う。泉さんも思い出したくないと言っているし、ここで謝らなかったらもう二度と謝る機会をくれないような、そんな気がした。

 数分とも感じられる数秒の沈黙のあと、視線を落としていた泉さんがこちらへと目を向けた。
 油断したら吸い込まれてしまいそうな深い色をした瞳。私の好きな、だけど真正面から見られるとつい逸らしてしまいそうな、そんな瞳。それでも今日ばかりは絶対に逸らすわけにはいかない。そうしてじっと見返していれば、やがて泉さんの目がわずかに細くなって、表情が不服そうなものへと変わる。

「自分だけが悪いみたいな顔しちゃってさ、いい子ちゃんぶってるのかなぁ? あんた、昔からそうところあるよね。ムカつくんだけど」
「泉さんだっていつもそれじゃないですか。私が真面目な話をしようとする時、わざと話を逸らそうとする」
「何、後輩のくせに先輩に説教しようっての? ちょっと生意気過ぎなんじゃない?」
「だから・・・!」
「ああもう、ごちゃごちゃうるさいんだけどぉ! 別になまえが悪いわけじゃないし、俺は怒ってないって言ってるの!」

 泉さんが勢いのあまりテーブルを叩く。思わず体を強ばらせると、泉さんはハッとした顔をしたあと、気まずそうに一度視線をずらす。
 自分を落ち着かせようとしているのか、おもむろに手元にあった水を飲んで、それから深く息を吐いていた。その頃、私は泉さんの感情任せの言葉を頭の中で反芻して、やっと言っていた言葉を理解する。

「本当? ・・・泉さん、怒ってないんですか?」

 怒っていないと、そう耳に届いた。間違っていなければ泉さんは私を許してくれているということだけど、もしかしたら都合良く聞こえただけかもしれない。
 耳を疑わずにはいられなくて確認してみれば、既に落ち着きを取り戻していた泉さんは指についた水滴をナプキンで拭いていて、私を見て、わかりにくいくらい小さく微笑んでくれた。

「こんなことで嘘つくわけないでしょ。ていうかオムライス、早く食べなきゃ冷めちゃうんじゃない? 前みたいに美味しそうに食べて見せてよ」

 気持ちがホッとしたからか、嬉しいからか、つい涙が出てきそうになったけれど、私はそれを必死に抑え込んだ。
 泣いてしまったらきっと止まらないと思う。そうしたら、今日こそはと時間をかけてきた化粧が落ちてしまう。だから、泣かないようにしなきゃ。

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