澄み切った青空を見上げた。
気温は朝から低かったけれど、食事が終わった今はさらに低くなっているように感じる。時折吹きつける冷たい風に震えながら、体の中に溜まっていたもやもやしたものをなくすように息を吐いた。
もう少しうまく喋れていたら、前のような関係に戻れていたかもしれない。重苦しい沈黙を思い出しながらそんなことをぼんやりと考えていたけれど、ほどなくして綺麗な鈴の音が響いた。店から出てきた泉さんに視線を移す。
「いつもすみません」
「謝るなって言ってるでしょ。なまえが出世したら思う存分ご馳走してもらう予定だし」
「出世払いですね」
「そうそう、出世払い。期待してるよ」
私はごく自然の流れで「頑張ります」と言いかけたけれど、どうしてかその言葉を口にできなかった。
いつも眉を上げていて、どこか近寄り難い雰囲気の泉さんがこうして私に微笑んでくれるのは本当に嬉しいことなのに、普段の私なら嬉しく思うはずなのに、今日の泉さんを見ているとどうしようもなく悲しくなって、不安を駆り立てられる。
以前にもどこかで似たようなことがあった気がする。いつだっただろうか。ずっと前のことのようなーー
「じゃあね、なまえ。時々生存報告くらいはしてよねぇ」
風で銀色の髪が揺れる。ゆるく手を振る泉さんが昔の姿と重なった。
そうだ、あの日。卒業式の日。卒業式が終わったあとの、あの時と同じだ。
思い出した頃には泉さんは背中を向けて歩き出してしまっていた。私はだんだんと遠くなる背中から目を逸らせなかった。
返事すら待たないで帰ってしまうなんて、それほど私のことが嫌いなのだろうか。だったらわざわざ一緒に食事をしてくれなくたっていいのに、ご馳走なんてしてくれなくたっていいのに。いやな人だ、顔が良いからってカッコつけちゃってーーなんて。そんなふうに怒って帰れたらどんなに楽だっただろうか。
追いかけなかったらきっと一生会えないと思った。
9年前のあの日、あの時は私から連絡を絶ってしまった。でも今日は違う。たとえ私が電話をかけても、メールをしても、きっともう泉さんは返事をくれないだろう。そう思えるほどに泉さんは酷く優しい表情をしていた。
もう会うつもりがないから最後に微笑んでくれたのだろうか。私にはそこまではわからないけれど、でも、止めなきゃいけないということだけはわかった。ここで別れたら、私は死ぬまで後悔する。
「待って、泉さん!」
足は遅い方。でも、泉さんは走ってないし、むしろいつもよりもゆっくり歩いている気がする。だからすぐに追いつけた。
追いついて、腕を掴んで、それから思わず息を飲んでしまった。泉さんの目が潤んでいるように見えたから。
足を止めた泉さんは息を吐いて私に向き直った。
「なまえは甘ったれな子だったけどさ、人の気持ちを考えて行動できる子だったはずだよ」
「でも」
「別にもう二度と会わないとは言ってないでしょ? 気が向いたら相手してあげるから、ほら、早く離して」
「・・・・・・」
「よしよし、いいこだねぇ」
風で乱れた髪を梳かすように撫でる手を、私はじっと受け入れた。時折泉さんの指に髪が引っかかっていたけれど、泉さんは何も言わない。普段だったら呆れながら一言二言小言を口にするはずなのに、今日の泉さんは何も言ってくれない。
本当は手を離したくなんてなかった。だけど、会わないとは言ってない、なんて言われたら離すしかない。泉さんはずるい人だ。そう言っておいて、本当は会う気がないことなんてわかりきっている。
私ももっと気持ちを上手に伝えられたらいいのだけど、どうしてか、泉さんの前では思っている気持ちをうまく口にすることができない。だからと言ってこのまま黙って帰らせてしまうわけにもいかなくて。
髪を撫でていた指が離れたタイミングで、私はバッグの持ち手を強く握った。
「泉さん」
「はいはい、なぁに?」
「渡したいものがあるんです」
こんな状況で渡すつもりではなかったのだけど、ここで渡すしかない。意を決して紙袋を取り出すと、黙ったままこちらを見ていた青い目が丸くなった。
「受け取ってください」
紙袋の中には凛月くんと選んだ腕時計が入っている。これを渡すことでどうなるかなんてわからない。ましてやこれで関係が元通りになるとは思えない。だけど、何もしないで泉さんが去っていく様子をただひたすら眺めるよりは断然良い。口下手な私にはこれに頼るしかない。
それでも、もしも泉さんが受け取ってくれなかったら。
息を殺してしまうくらいに張り詰めた空気の中では、服が擦れる音すらやけに大きく聞こえる。
寒さにはそれなりに強い、泉さんはずっと前にそう教えてくれたけれど、きっとこの寒さは堪えるのだろう。ゆっくりと腕をさすってこちらを見ている。見ているのに、何も言ってくれない。受け取ろうとはしてくれない。
どうしようもなくもどかしい時間が続いたあと、泉さんは腕をさするのをやめた。
「いらないって言ったらどうするつもり」
「そんなこと考えてないです」
「考えてよ。どうするの」
「・・・・・・誰かに、あげる・・・と、思います」
でも、泉さんに贈りたくて買ったものだから他の人にあげようと思えるかどうか。それに私の性格だと誰かにあげるのも惜しくて引出しの奥にしまい込んでしまいそうな気もするけれど。
俯いて考えていると、ふと視界に映っていた足が動いたのに気付く。
距離を縮めてきた泉さんは、顔の横に垂れていた私の髪を指に絡めた。絡め取られた髪を軽く引っ張られて、思わず顔を上げる。眉を寄せて、少し苦しそうな表情をしていた。
「どこの馬の骨かもわからない男がそれを受け取るかもしれないってわけぇ? ・・・想像しただけで気分が悪くなる」
「そんなふうに言うなら受け取ってください。私は泉さんにもらってほしいんです」
「簡単に言わないでよ。気軽に受け取れるようなものじゃないでしょ、これは」
目を伏せた泉さんはしばらく私の髪を触り続けていたけれど、もう1度こちらに目を向けたあと、強めに髪を引いてそっと手を離した。
痛くないと言ったら嘘になる。むしろ痛かった。だけど私は口を閉じたまま泉さんを見ていた。先程とはどこか目の色が違っているように見えたのだ。
「どうしても受け取れって言うなら、今から言うことをちゃんと聞いて。それでも良いと思えるなら、もう1度渡してみせてよ」
いつになく真剣な眼差しに、なんとなく、これからどんなことを言われるのかわかってしまった気がした。少し怖くなって目を逸らしたけれど、すかさず「目を逸らすな」と怒られる。
こんなつもりじゃなかった。もっと軽い感じで渡せたらいいなと思っていたのだけど、今さらそんなことを思ってもどうしようもない。ここまで来て逃げるなんて許されないし、もう逃げないと決めたから。
やがて私は小さく息を吐いて泉さんに目を向けた。そうすると泉さんは優しい表情をしてくれたけれど、それはほんの一瞬の出来事で、すぐに真剣な表情に戻ってしまった。
「俺はまだ、なまえが世話の焼ける後輩のうちの一人だってことを忘れないでいられてる。でも、そろそろ耐えられそうにないの。なまえもわかってるでしょ、あの夜のこと。ほんの少し飲んだだけなのに抑えられなくなって・・・・・・ただの男になりかけたの、俺は」
忘れるはずもない、こんなことになってしまった元凶の日。
思わずあの日掴まれた腕をさすってしまったけれど、泉さんはほんの一瞬視線を向けただけで、再び私を見た。どうやっても話は逸らさせないみたいだ。
「俺はもう“後輩思いの先輩”を演じる気はない。ただのひとりの男として、なまえをひとりの女の子として見るよ。我慢してたこともこれからは遠慮しないし、もしまた逃げようとしたら今度は地の果てまで追いかける。・・・なまえはそれでもいいって言えるわけ?」
最後の最後で眉を寄せて苦しそうな顔をしたのは、私が無理だと言うのを予想しているからだろうか。
たしかに、今までの私ならこんなことを聞かされれば冷静でいられるはずがないし、きっと無理だと言って逃げ出していたと思う。いや、本当は今だって逃げてしまいたい気持ちは少しだけあるけれど。
胸に抱いていた紙袋に目を落とす。これは泉さんに買ったものだ。だから、泉さんが受け取ってくれなきゃ意味がない。
無駄に力を込めてしまっていたせいで少しよれてしまった紙袋、私はそれを抱くのをやめて、黙ったままの泉さんへと差し出した。
「もらってください。泉さん」
卒業式の日、あの後も変わらずに連絡を取り続けていれば、私は泉さんとーー泉さんやみんなと、もっといろいろな思い出を作れていたのかもしれない。後悔はこの先もずっとずっとついて回るだろう。
でも、思い出はこれからも作れるから。泉さんが許してくれる限り、私は泉さんとの思い出を作っていきたいと思う。
私が差し出した紙袋を見て、泉さんは小さく息を飲んだ。青い瞳が輝いて、瞬きをするたびに長いまつ毛が濡れていく。
静かに涙を流した泉さんは、私の手元にあったそれを手にした。受け取って、それからその紙袋を見て、微笑んでいた。
今までに見たことのない泉さんの表情をはじめて目の当たりにした私は、これ以上ないくらいに高鳴っている胸に手をあてて、そっと息を吐く。
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