──セッちゃん、今日はオフの日だよ

 タクシーが見えなくなったあと、何気なく空を見上げてみた。ザアザアと大粒の鋭い雨がひっきりなしに地面を叩いている。
 天気予報は大外れ、今日の雨は夕方には上がると聞いていたんだけど。喫茶店の傘立てから取り出した傘を少しばかり眺めて、それから凛月くんの言葉を思い返して息を吐く。

 霧がかかってしまっているけど、遠くない場所に高層ビルが建ち並んでいる。視界に映るビル街の先、たしか、泉さんの住んでいるマンションはあの周辺だったはずだ。
 おそらく凛月くんは、これから泉さんと会ったらどうかという意味で私に情報を教えてくれたのだろう。

「どうしようかな」

 凛月くんは私の背中を押すためにわざわざ教えてくれたのだろうし、教えてもらった以上、このまま帰るのも気が引けてしまう。もちろん、泉さんに会えるなら会いたいし。
 でも、会えたとしてもこの雨では外出させてしまうのは申し訳ない。泉さんの家はどうだろう。迷惑だろうか。そもそも予定が入っている可能性もあるけれど。

 屋根の下にいるはずなのに風のせいで雨に濡れる。そんなのもお構いなしに悩んだ数分間。お気に入りの傘に目を落として、コートのポケットからスマートフォンを取り出す。悩んでいても埒が明かない。
 もう懐かしさすら感じる春の暖かい日のこと。あの日からずっと大切にしている泉さんの連絡先、少しかじかむ指先でその電話番号を押した。繋がってほしいような、繋がってほしくないような。そんな矛盾した気持ちでコール音を聴いていると、やがて電話口が静かになる。
 長いようで短い時間だった。

『もしもし?』

 声を聞いた途端、心臓がぎゅっと締めつけられて息が詰まった。
 電話越しに話すのは初めてじゃない。なのに緊張してしまって、気づけば傘を強く握っていた。泉さんはというと、つんざくような雨音が聞こえたからか、私が黙っているからか、どこにいるのかと心配そうだ。

「泉さん、元気ですか」
『・・・・・・あのねぇ、俺は今どこにいるのかって聞いてるんだけど。ちゃんと質問に答えてくれる? 迷子にでもなっちゃったわけぇ?』
「すみません。喫茶店にいて、今は外にいます。凛月くんと会ってて」

 私の言葉にテレビの音すら聴こえない静かな向こう側から合点がいったかのような小さな呟きが聴こえてきた。それから、何故か鼻でちょっと笑われる。

『凛月くん、ねぇ? 俺の知らない間に随分と親しくなってるみたいじゃん』
「そ、それは」
『別にいいけどさ。それよりも、何の用件? まさか連絡不精のなまえが用もなく電話してくるわけがないよねぇ? まあ、どうせくまくんにそそのかされたんだろうけど』

 泉さんの予想は当たっているし、嫌味についてもおっしゃる通りなので反論できない。いつもに増して調子の良い嫌味に言葉を詰まらせてしまうと、泉さんは「ちょうど息抜きしてたところだから良いけどさ」と付け足した。言い過ぎたと思ったようだ。
 息抜きということは、なにか作業中だったのだろうか。そういえば泉さんは休日も自分磨きで忙しい人だったっけ。
 だとすると、私がこれから言おうとしていることは泉さんを困らせてしまうかもしれない。

「泉さん」
『・・・・・・、なぁに』

 察しの良い泉さんは私の呼び掛けに声色を変えた。私がこれから何を言おうとしているのか、きっと勘づいているのだろう。

「今、どこにいるんですか?」
『家。この雨じゃ出かけられないし』
「そうですよね。あ、あの。今、泉さんの家の近くにいるんです」
『そう。それで?』
「・・・・・・泉さんに会いたいです」

 沈黙が流れる。どういう意図の沈黙だろうか。悩んでいるのだろうか。断る理由を考えているのだろうか。不安に駆られながらも答えを待つ。

『いいよ、おいで』

  私がいよいよ冗談だと笑って誤魔化そうか悩みはじめたころ、泉さんは言った。普段は出さないような優しい声だった。

『迎えに行くよ。くまくんの知り合いがやってる店でしょ?』
「どうしてそれを」
『なんだっていいでしょ。そこで待ってて』
「だ、大丈夫です!電車で行きますから」
『この雨じゃ濡れちゃうでしょぉ?』
「今日はお気に入りの傘なので大丈夫です」
『意味わかんないんだけどぉ・・・? まあいいけど、なら近くに来たら教えて。うちの場所は覚えてる?』
「うーん、なんとなく」
『じゃあ、住所送っておくから。何かあったら電話寄越しなよねぇ?』
「はい。ありがとうございます」

 電話が切れたのを確認して、思わず大きく息を吐く。
 たったの3分くらいの通話だったのに心臓が騒がしい。スマートフォンを持つ手が震えていたのは寒さのせいだと思っていたけど、緊張のせいだったのかもしれない。

 泉さんの家にお邪魔するのは、例のいざこざがあった日以来だ。今日は良い雰囲気のまま帰れるように頑張らなきゃ。
 気持ちを切り替えるため深呼吸をして、強く握っていた傘を開いた。一歩足を踏み出すと、まるで待ってましたとばかりに強くけたたましい音で雨が傘に当たっては滴り落ちていく。
 着く頃には雨が弱くなっていればいいのだけど。そんなことを考えながら歩き出してすぐ、泉さんの厚意に甘えて迎えに来てもらわなかったことをひどく後悔することになる。

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