電車に揺られること数分。駅からも歩いて数分程度──のはずが、道に迷ったせいで20分弱。泉さんの住むマンションに着く頃には雨でずぶ濡れになってしまっていた。

 高級感のある外観。設備も整っていて、セキュリティが高いことから有名人もそれなりに住んでいると泉さんが前に言っていた。そんな防犯面に隙のないマンションで、はたして私みたいなずぶ濡れの怪しい人間を通してくれるのだろうか。
 泉さんはコンシェルジュに声をかければ大丈夫と言っていたけど、入りにくいにもほどがある。緊張してお腹が痛くなりそうだ。

 最悪、不審者扱いされて通報されそうになっても身分証があれば身の潔白は証明できるだろうか。念のため、財布に入れている身分証の存在を確認したあと、心を決めて自動ドアの前に立つ。
 一度来たことがあるからコンシェルジュがいる場所は分かる。そのまま勢いで直行しようと意気込んでいた私の前に、ひとりの男性が立ち塞がった。というか、自動ドアの向こうから男性が出てきた。

「わっ」

 すんでのところで後ずさる。驚きのあまり心臓を押さえると、そんな私の様子に驚きつつも謝罪の言葉を口にする男性。
 聞き覚えのある声だった。直接聞いたのは久し振りだけど、時々テレビで聞いている。この声の主は、たしか。

「すみません」
「いや、見てなかったおれが悪いから!」

 大丈夫ですか、と心配してくれる。余所行きの態度は初めて見たかもしれない。
 夢ノ咲学院にいた頃、要領が悪く仕事が出来る方ではなかった私はいろいろな人に支えてもらっていた。そして、その中でもKnightsのメンバーには特別お世話になっていた。
 それでもこの先輩は何を考えているのか分からなくて、ちょっと怖くて、あまり喋ったことがなかった。苦手意識というほどではないけど、面と向かって喋るのには勇気がいる。
 ──私にとっての月永レオさんは、そんな人だった。

「大丈夫です。すみません」

 もしかして月永先輩もここに住んでいるのだろうか。それとも泉さんと会っていたのかな。分からないけど、月永先輩は私のことは覚えていなそうだった。
 もう10年近く関わりがない人だ。今年になって再会した人たちはみんな覚えていてくれていたから少しだけショックだけど、覚えてくれている方が奇跡みたいなものなのかも。ちょっとショックではあるけれど、そもそも学年も違うし、仕方のないことだ。

「失礼しました、どうぞ」
「ああ、ありがと」

 このまま知らない人の振りをしよう。そう決めて、横を通り過ぎた月永先輩には声をかけずにいた。なのに、「あ!」と、思い出したかのような大きな声が聞こえてきて、突然のことに肩が跳ねる。
 振り返ると先輩はこちらに体を向けていて瞳をきらきらとさせていた。雨に当たっているというのに、傘も差さずに。

「思い出したっ! セナのお気に入り! セナが持ってる写真に写ってた!」

 ずっと思い出せないで思い出そうとしていたのか、そう言い切った先輩は満足そうな表情だ。
 それより、泉さんとの写真なんて撮った記憶もないのだけど、集合写真かなにかだろうか。訊ねるべく口を開きかけた時、いつの間にか目の前まで戻ってきていた先輩が、突然私の手を取った。
 予想もしなかった出来事に、可愛さの欠片もない変な悲鳴をあげてしまう。

「な、なな、なんですか!」
「なにって、セナに会いに来たんだろ? 部屋の前まで連れてってやるよ」
「どうして知ってるんですか」

 手を引いても離してくれる様子はない。焦る私をよそに、先輩はちょっと考える素振りを見せたあと、何かを思い出したのか、雨雲を吹き飛ばしてしまいそうなくらい楽しげに笑う。

「セナ、おれが来た時にこの世の終わりみたいな顔してたから。早く帰れってうるさかったし」
「す、すみません、来るの知らなくて」
「んん、約束はしてないから平気!」
「そうですか・・・、あの、そろそろ手を・・・」
「ん? だっておまえ、手離したらそのまま逃げそうなんだもん! おれが怖いのか?」

 先輩の様子から、おそらく先輩にとっての私は泉さんの知り合いという認識で、夢ノ咲学院の後輩だとは気付いていない。だから途中で私のことを後輩だと思い出してしまうのではないかと思った。
 思い出してもらえるのはもちろん嬉しいのだけど、一方で皆と音信不通になったことに言及されてしまうのではないかと、少し怖く感じていた自分もいて。
 さすがに逃げ出すつもりはなかったけれど、抱いていた気持ちに間違いはなかった。だから言い当てられたことにギクリとして、表情を固くしてしまった。

 見ていないようで意外と見ている、月永先輩はこういう人だ。
 表情できっともう考えていることはバレてしまっただろうから今さら否定はしない。だからといって肯定もできず、黙ったまま目を逸らした。
 うるさい雨音の隙間で、息を吐くのが聞こえてくる。視界の端でやれやれと言わんばかりの仕草をしていたというのに、次に向けられた眼差しはどこか柔らかかった。


「セナ〜!」

 服はもちろん、髪までわりと濡れている私に不審な目を向けるコンシェルジュさんの視線に耐え抜いて、そして気まずい沈黙(先輩は鼻歌を歌っていたけど)の流れるエレベーターの時間を耐え切ったあと、泉さんの部屋の前まで来て、今。
 この静寂の中、何故か大きな声を出してドア越しに泉さんを呼んだ先輩のメンタルの強さに驚いていたら、すぐに目の前のドアが開いた。

「ちょっとれおくん、廊下で大きい声出すなって何度も・・・」

 薄いニットにパンツ。シンプルなのに不思議とオシャレに見える。顔がいいからなのかスタイルがいいからなのか、他にも何か秘密があるのだろうか。
 ドアを抑えている腕が、袖を捲っているせいで意外とがっしりと筋肉がついていることに気付いてしまう。もう何度も見たことがあるのに、どこか見てはいけないものを見てしまった気分になって慌てて視線を逸らす。
 そんな私とは対照的に、泉さんは月永先輩の隣にいた私の存在に気付いてちょっと引いた顔で見ていた。多分、あまりに濡れすぎてお化けみたいだったからだと思う。

「ちょっとぉ、れおくんの隣にいるのは?」
「ああ、外にいたから連れてきた! セナのおひめさまだろ?」

 冗談を言った先輩は掴んでいる私の左手を軽く上げる。それを見た泉さんは目を丸くしたけど、瞬きをした次の瞬間には難しそうな顔で眉を寄せていた。

「気安く触らないでよ」
「わはは! イライラしてるとハゲるぞ〜?」
「ああもう、うるさいなぁ。それよりなまえは何でそんなに濡れてるの。傘差して歩くの初めてだったわけぇ?」
「ちっ、違います。想像以上に風が強くて」
「だから迎えに行くって言ったんだけど? 風邪引いたらどうする気? あんた一人暮らしなんだよ、俺が言いたいことわかる?」
「はい、すみません」
「・・・・・・まあいい。それで、れおくんはどうするの。なまえを連れてきてくれたわけだし、珈琲くらいなら出してやってもいいけど?」

 テキパキと、私にしっかりとお説教をしたあと再び月永先輩に目を向けていた。そして先輩はというと、私を掴む手を離して、その手で私の背中を軽く押したのだった。
 押された弾みで、一歩、二歩と足が進んでしまう。ちょうど目の前には泉さんがいて、青い瞳と目が会った途端に顔が熱くなってしまって、慌てて視線を月永先輩へと向けた。

「今日は帰る。なんか名曲が書けそうな気がするから!」

 懐かしい台詞を聞く。月永先輩も、今も昔と変わっていないんだ。
 先輩は気分が良さそうな表情だけど、わざわざ部屋の前までついてきてくれたのに帰らせてしまうのは申し訳なくて、何か言わなくちゃと思ったものの、すかさず「賢明な判断だと思うよぉ」とすぐ後ろから声がした。泉さんだ。
 泉さんの発言に冷たいと口を尖らせたものの、先輩は特に気にしてなさそうだった。私ならちょっと傷付きそうだけど、きっとこういうことを気兼ねなく言えるくらいに今も仲がいいのだろう。

「それじゃっ」
「あ、月永せんぱ・・・、月永さん!」

 私にひらひらと手を振ったあと、ついさっき降りたばかりのエレベーターへ歩き出そうとした背中に慌てて声をかけると、先輩は足を止めた。数秒してから振り返った先輩は、どこか嬉しそうな顔をしていた。

「あの、ありがとうございました」
「うん。それと、先輩呼びのままでいいから」
「え?」
「あと、」

 言葉を止めて、懐かしそうに緑の瞳を細くする先輩。この表情は、知っている。同窓会の時も、泉さん、凛月くん、なるちゃんにも。みんなにこの表情をされたから。
 やっと気づいてしまう。月永先輩が、私に合わせて『知らない人のふりをしてくれていた』ことを。

「セナとリッツ以外のやつらにも連絡してやれば? まあ、おれが言えたことじゃないけど」

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