「ちょっとぉ」
「ひっ」

 月永先輩が覚えてくれていた。それとも途中で思い出していたのだろうか。
 先輩の姿が見えなくなった直後、右耳に突然熱いものが当たった。変な声を漏らしながらも耳を押さえて後ろを見る。寒さで感覚すらなくなってしまっていたそこを触ったのは泉さんの指先だった。

「いつまで見送ってるわけ? 今は俺といるんだから、俺のことだけ考えてくれない?」

 自分でも気付かないうちに随分と冷えていたようで、泉さんの指が熱く感じる。熱のおかげでじわじわと感覚が戻っていくのを感じながらも、その手が私の頬に触れたので、慌てて制止させた。
 手首を掴まれた泉さんは「冷たいんだけど」と私の冷えた手に対して声を上げた。私の反応を楽しみたかっただけのようで、口元は笑っている。

「寒かったんだねぇ。暖房つけてあるから早く上がりな。お湯も張ってあるからお風呂も入って」
「いいんですか?」
「当たり前でしょ」
「ありがとうございます」

 お礼を言って家の中に入ると、まず心地の良い香りが鼻腔をくすぐった。控えめなフレグランスは前にお邪魔した時には無かったものだ。家に上がらせてもらったのは初めてではないのに、この新鮮な香りのせいか、ちょっと落ち着かない。

♢

「そういえば、SNSにアップされてた腕時計の写真、見ましたよ」
「ああ、今さら?」
「凛月くんに教えてもらって知ったので・・・」

 湯船にお湯まで張ってくれていた泉さんの気づかいのおかげで体の芯まで温まった。泉さんは、私の服が乾くまでの間にと貸してくれたスウェット(良い匂いがする)の長い袖を折りながら、なるほどねと呟いた。
 袖を綺麗に2回折ってくれたところで泉さんは私の手に触れた。思わず手を引っ込めそうになったけれど、家に着いた時の私があんまり冷えていたから、ちゃんと温まっているのかの確認をしたかっただけのようで、すぐに手は離れていった。

「寒くなったら言って」
「大丈夫です、ありがとうございます」
「はい、どういたしまして。・・・それで、話は戻るけどなまえもあのSNSやってるのぉ?」
「一応、アカウントはありますよ。もう何年も投稿はしてないですけど」
「そう」

 もう泉さんの性格はだいたいわかる。素っ気ない口調のわりに視線を送り続けて話題も変えないのは見せろということなのだろう。
 あまり見せたくなくて、視線を無視して用意してくれた紅茶を飲んではみたけれど、気まずさは変わらない。観念してスマートフォンを開く。アプリにログインして泉さんに渡すと慣れた手つきで画像を眺めだした。

「へぇ、昔の写真もあるじゃん」
「あんまりじっくり見ないでくださいよ」
「良いでしょ、減るもんじゃないし」
「それはそうですけど」

 たしか食べ物の写真ばかり上げていた気もするけど、へんな写真とか載せていなかったかな。少し不安になりつつも画像に目を向ける泉さんを眺める。相変わらず楽しそうにしていたけれど、なにか気になるものを見つけたのか、不意に画面をスクロールする指が止まった。
 なんの写真だろう。おそるおそる泉さんのそばに寄ってスマートフォンをのぞき込む。なんの変哲もない、振袖姿の自分が映っていた。

「成人式?」
「はい。20歳のときのです」
「そう」
「・・・・・・ええっと、」
「・・・・・・この頃、お祝いがてらになまえに連絡したことがあったんだよねぇ」
「え」

 口を開かずに眺め続ける泉さんが何かを考えているのは気づいていたけれど、何を考えているのかまではわからなくて。聞いてもいいのか悩んでいたら、泉さんの方から教えてくれた。
  今度は私が固まる番だ。まさか連絡をくれていたなんて。たしか当時はもう、電話番号もメールアドレスも変更していた。連絡をくれても、繋がらなかったはず。

 いつの間にか、泉さんから楽しそうな表情は消えていた。代わりに自嘲気味の笑いを浮かべている。私はそれに謝ることしか出来なかった。

「ごめんなさい」
「昔のことだし、もう気にしてない。いろいろ抱えてたんでしょ? そういう子だってのは知ってたし、くまくんからも聞いてた」
「・・・・・・その、アイドルのみんなと自分を比べちゃって、ちょっと辛かったりして・・・」
「仕事出来なかったもんねぇ」
「その節はたくさんご迷惑をおかけしました」

 毎日のように泣いていた頃を思い出す。今思うと、アイドルのみんなと肩を並べようと考えていたこと自体、間違っていた気もする。
 凛月くんには泣き顔ばかり見せていた。泉さんの前では泣いたことはあったっけ。それでも仕事でミスを連発していたので迷惑をかけていたのは間違いない。

 泉さんは私のスマートフォンを横に置いた。それから何を思ったのか、私の両頬に泉さんの手が添えられる。今日の泉さんはやたらと触りたがる日なのだろうか。心臓がいくつあっても足りそうにない。

「勝手に比較して落ち込んで、いなくならないでくれる? 少なくとも俺の周りでは、誰もなまえのことを笑ってるヤツなんていなかったけど」
「・・・・・・そうだったんですね」
「そう。だからもう絶対にいなくならないで、俺のそばから離れないで」
「わかりました」
「・・・・・・本当にわかってるのぉ?」
「わかりましたって。でも、泉さん、どうしてそこまで私に優しくしてくれるんですか」

 前にも聞いたけれど、そのときは答えをもらえなかった。以前と同じ問いかけを今度ははぐらかされないように訊ねる。目じりにたまる涙を親指で拭ってくれていた泉さんは私の問いかけに対して呆れた顔で肩を上下させていた。

「そんなのいちいち言わせないでくれる?」

 その言葉のすぐあとに、泉さんがこちらへ傾いてきた。直後、これからされることがわかった気がして思わず手首を掴んでみたけれど、どうしてか抵抗することはできなくて。
 至近距離で泉さんの綺麗な青い瞳が細くなったのを見て慌てて目を閉じる。聞こえてきた雨音に混じって、私のじゃない呼吸音が聞こえた気がした。

「なまえが好きだからに決まってるでしょ」

 唇に柔らかいものが触れた。好きだと、言われた。ただそれだけのことなのに、涙が溢れて止まらない。

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