花屋に駆け込んだのははじめての経験だった。
 店員さんは優しくて、無理を承知でラッピングを頼んだら快く承諾してくれた。かわいらしくお化粧されたガーベラを見つめて思わず頬が緩んでしまう。
 時計を確認したり、スマートフォンの画面を見たり。落ち着かない様子に気付いていたらしい。物腰の柔らかそうな店員さんは「頑張ってね」と微笑んで背中を押してくれた。私はそれに応えるように、彼の元へと駆け出した。

 卒業式は終わっていた。
 息を切らしながら見知った卒業生やその家族をかき分けるようにしてただひとりを探す。探して、探し続けて、やっと見つけたのは彼が校門をくぐり、夢ノ咲学院の卒業生として、社会人として、新しい一歩を踏み出したときだった。
 彼のそばには一組の夫婦がいた。おそらくは彼のお父さんとお母さんだろう。ひるんだ私は足を止めかけたけれど、すぐに持ち直す。きっともう会うことはないだろうから、せめて最後のお別れはしたい。
 半ば諦めのような感情を抱いていたからこそ、すでに限界寸前の身体に鞭を打つことができて、さらには今まで触れたことすらなかった彼の身体に触れることができたのかもしれない。

「泉さん、ご卒業おめでとうございます」

 一輪の花を差し出した。ずっと握っていたから形が崩れてしまったかもしれないと思っていたけれど、その心配はなかった。花屋の優しい店員さんの魔法だ。きっと、このガーベラも綺麗なかたちで渡されることを喜んでいることだろう。うん、きっと気に入ってくれる。
 私が急に腕を引っ張ったから驚いていた泉さんは、大きくした目をどこか眩しそうに細めて、しばらく私の手にしているその花を見つめたあと、手を伸ばした。
 私の手から彼の手へ花が渡る。ガーベラが小さく揺れた。

「ありがと」

 もしかしたらもらってくれないのでは。そんなことも考えていた。だからお礼を言われるだなんて思っていなかったし、ましてや笑ってくれるだなんて考えもしなかった。
 泉さんの珍しい微笑みを見て胸がきゅっと締めつけられて苦しくなる。心に押し込めていた気持ちが溢れ出てきて想いを伝えたくなる。でも、隠しておくって決めたんだ。

「あんたもついに三年生だけど、進路は考えてるの?」
「いえ、まだ……」
「ふぅん。一年なんてあっという間なんだから、今のうちにちゃんと考えておきなよぉ?」
「はい」
「身をもって実感してるだろうけどさ、あんたはプロデューサーには向いてないし、何か別の仕事を選んだ方がいいかもねぇ」

 そう、そうなのだ。私は普通科からプロデュース科へと転部させられた、いわゆるテストケースの一人なのだけど、プロデューサーとしての才能はまったくと言っていいほどなかった。できたことといえば相談に乗ることくらいだろうか。結局、泉さんには最後までプロデューサーとして認めてもらえなかった。
 向いている職業を考えてくれているのか、腰に手をあてて唸りながら悩み始めた泉さんに「大丈夫です」と返す。作り笑いを添えたその言葉には説得力の欠片もないけれど、それ以上は何かを言われることもなく、代わりに肩を上下させていた。

「来年度からは正式にプロデュース科ができるからね。新しく入学してくるやつの全員が良いやつとは限らないし、どんくさいのを理由にいじめられないように気をつけな」
「はい。……泉さんも、頑張ってください」
「言われなくてもって感じ」

 これで最後だと思ったら悲しいけれど、それが卒業だから。アイドルのみんなは本格的に芸能界へと進んでいく。プロデューサーとは言っても上辺だけでしかない私では、到底同じ土俵に立つことはできない。だから泉さんとこうして面と向かって話すことができるのは今日で最後。きっと、もう二度とない。

「今までお世話になりました」

せめてもの意地で、泉さんに叩き込まれた、そして何回したかも分からない綺麗なお辞儀をしてみせた。泉さんは何も言わなかったけれど、満足そうに口元を綻ばせていた。

「ねぇ、なまえ」
「? はい」
「鞄に刺さってるその花はなんなの?」

 泉さんのご両親も待っていることだし、いい加減話を終わらせなくては。そう思ったから締めくくるように頭を下げたというのに。動揺しながらも泉さんが視線を送る花を手にした。こっちもラッピングはしてあるけれど、無理に鞄に差し込んでいたからリボンがよれてしまっていた。

「誰かにあげるのぉ?」
「いえ、これは自分用です」
「ふぅん。自分用なのにラッピングまでしてどうすんの。あんたも卒業するつもり?」
「まさか! ただかわいかったから部屋に飾りたいなって思っただけです」

 泉さんに贈ったのは白のガーベラ。青も似合いそうだと思ったけれど、何にも染まらない白が泉さんに一番似合うと思ったのだ。そして、私の手元にあるのは桃色のガーベラ。特に意味はない、女の子らしくて可愛かったから。ついなけなしのお金で購入してしまったのだ。

「それ、お金払うからちょうだい」

 予想外の発言に、一瞬理解が遅れてしまった。数秒遅れて思わず笑ってしまえば、泉さんはわずかに眉を寄せた。

「なに笑ってんの」
「だって、泉さんガーベラ好きなんですか? なんかかわいいですね」
「うるさいなぁ、死にたいの?」

 今日の泉さん、どうしたのだろう。普段は全然笑わないのに笑ってくれたり、頬を赤らめたり。どうせなら在学中にその百面相を見せてくれていたらなあ。

「どうぞ。お金はいりません」

 白のガーベラのときと同じように、桃色のそれを差し出す。今度は絶対受け取ってくれるとわかっていたから不安はなかった。泉さんは瞬きをして「いいのぉ?」と首を傾げたけれど、泉さんが欲しいと言ったものをあげないだなんて、お金を取るだなんて、そんなことするわけがない。
 春を告げるあたたかい風が髪を揺らした。泉さんはボタンのないブレザーをなびかせたまま、視線を落として目を閉じていた。目を閉じて、何を考えていたのだろう。その答えを知る日はきっとこない。

「……それじゃ」
「はい。一年間、ありがとうございました」

 青く透き通る瞳はもう私を見てはいない。ばいばい、と二輪の花を揺らした泉さんは、ついに踵を返した。その背中を決して忘れないように、見えなくなるまで見送ってから、私も別れの一歩を踏み出した。
 さようなら、私の好きだった人。 

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