“起きたら連絡して”
罫線のない白いメモ帳にまるで線が引いてあるかのように一直線上に並ぶそんなメッセージと、11文字の数字とアルファベットを穴が開く程見つめてからスマートフォンを取り出す。既に暗記済みの数字を思い出しながらポチポチと打ち込んで耳に当ててみた。数回のコールを待った後、女性の機械的な声がする。『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
連絡してとは言わたけれど、一体なんの用だろう。確かに昨日は約10年振りの再会で、高校時代の話や卒業してからの生活のことで盛り上がって、でもそのわりには味気ない別れ方(というよりも別れた記憶すらない)だったけれど、泉さんが私を気にかけてくれる程、私に対して何かしらの感情を抱いているとは思えない。
でも、お世話になったのは確かだ。
昨日の記憶がバーの途中で途切れているということは、おそらくそこでの勘定は泉さんが済ませてくれたのだろう。こうしてベッドで目覚めることができたということは、泥酔する私を泉さんが送ってくれたのだろう。さらには作った記憶もないのに、お母さんの作る料理のような、栄養バランスの良さそうな朝ごはんがテーブルに並べられているのも泉さんの仕業だろう。
どちらにせよお礼は言わなくちゃ。美味しそうなカニさんウインナーを食べながら今度はメールで連絡をしようと試みる。1度目はアルファベットを打ち間違えてすぐにどこかからエラーメールが返ってきて、少し悔しくなって紙に並べられたローマ字と睨めっこしながらもう1度送ってみると、今度はいくら待っても何も起こらず、それでも待っていたらふと寒さを感じて出たくしゃみで我に返って慌てて浴槽に逃げ込んだ。
「は・・・・・・くしゅ!」
シャワーを浴びながら鼻をすする。目が覚めた時、私は部屋着の薄いワンピースを身に纏っていただけだった。辛うじて毛布にくるまっていたから良かったものの、キャミソールを着ていなければショーツさえも履いておらず、まるで風邪を引かせてくれと身体に訴えかけているような有様だった。
つまり、相当酔っていたらしい。酔うと洋服を脱いでしまうだなんて自分でも知らなかったし、このことはさすがに笑い話にもしたくない。自分のことは何でも知っているふうでも、やっぱり知らないことはたくさんあるのだと、身震いしながら未知なる自分の一面を少し恐ろしく感じた。せめて泉さんの前で脱いだのではないことを祈るばかりだ。
♢
「遅い。待ちくたびれて死ぬかと思った」
スプリングコートのポケットに手を突っ込んで立ち尽くしていた泉さんの姿はさながらモデルさんのようだった。
彼が本物のモデルだということも忘れるくらい急いでいた私は駅から飛び出してそのままの勢いで泉さんの元へ駆け寄って、しばらく浅い呼吸を繰り返す。
やっと息が整い始めた頃、ふと泉さんはポケットから手を出して私の前髪に軽く触れた。
乱れた髪を優しく直す指先は紛れもなく泉さんのものだ。高校生の時は日常茶飯事だったから今日もついそれを受けいれてしまいそうになったけれど、そこではたと自分の歳を思い出す。
20の半ばを過ぎた歳にもなると異性との距離感についてもいろいろと考えてしまう。泉さんと私の関係とか、世間体とか、いろいろを気にして私はその手をさりげなく払う。
払ってから頭に過ぎったことは同窓会での羽風さんとのやりとりだった。
昨日、彼にも同じようなことをされた。同じことをされたのに、私の中の私は羽風さんはイイのに泉さんはダメだという。どうしてだろう。
泉さんも泉さんで無意識の行動だったらしく、直後に少し驚いたように目を丸くして、それから気を取り直すように息を吐いていた。それを真似するように私も小さく息を吐く。
「遅れてすみません」
「まあ俺も突然呼び出しちゃったし、10分の遅刻くらい目を瞑ってあげる。でも次の時は化粧くらいちゃんとしてきてよぉ?」
「う、はい・・・あ、それよりお仕事の方は大丈夫なんですか?」
「今日は午前だけ。本当は午後にジムにでも行こうと思ってたんだけど・・・・・・あんたの家の冷蔵庫見て食生活が不安になったからねぇ」
冷蔵庫なんていつ見たんだろう、そう考えてすぐに今朝のごはんを作ってくれたのが泉さんだったことを思い出す。
普段、私は必要最低限の食料しか置いておかないから、今朝の豪華な食事のおかげですっからかんになった冷蔵庫を見て腰を抜かしそうになった(もちろん美味しいご飯を作ってくれた泉さんには感謝しているけれど)。多分、これからすることは食料調達だろう。
「突っ立ってたら迷子になるよ」
いつの間にか先を歩き出していた泉さんの背中を追いつつも、慣れない街の景色を楽しみながら忙しなく顔を動かす。しばらくそうしていると、ふと肩を誰かにぶつけてしまった。相手は泉さんだった。全然気づかなかった。
「ここ、泉さんの最寄りですか?」
「んん・・・間違いではない」
「綺麗な街ですね」
映画で見たことのあるような落ち着いた街並みに実は子どものようにわくわくしていた。駅を降りた時は賑やかな街だと思っていたけれど、車の通りは少ないし、よく見ると街を歩いている人たちはみんな優しそうな雰囲気だ。
反対側の歩道では、女性がベビーカーを押して歩いていた。おしゃぶりで遊ぶ小さな赤ちゃんが乗せられていて、それを見ていたおばあちゃんが微笑んで何かを話しかけている。赤ちゃんのお母さんは嬉しそうにして、それからそのおばあちゃんと立ち話を始めた。そんな様子を見て目が熱くなる。
「泉さん、泉さん」
「なあに」
「泣きそう」
「情緒不安定なの?」
幸せな光景を見ているとつい感動してしまう。決して情緒不安定なんかじゃなくて、感受性豊かなのだと認識してもらいたいところ。
ここは街も人も綺麗だと思った。静かに流れる風景に気を取られていて無意識に泉さんのコートを掴んでいたくらいには街に夢中で、やっと自分の行為に気づいた私は泉さんから横1人分距離をとる。青い目はちらりとこちらを見たけれど、再び前を見る。
「雰囲気もいいけどさ、都心にも近いから便利なところなの。こっちの方に用事がある時は泊まらせてあげてもいいけどぉ?」
「はい、むしろ住まわせてほしいくらいです」
「いいよぉ」
「えっ!そ、そんなっ、や、冗談ですよ!」
「ちょっとぉ、冗談を冗談で返しただけなんだけど」
かくして私は顔を赤くさせたまま、そこから10分程歩いたところにあったスーパーに立ち寄った。
♢
店内は涼しくて、むしろ少し肌寒いくらい。スプリングコートを着こなして歩く傍ら、薄めのシャツを羽織っているだけのペアは誰が見ても微妙に季節感が違っているだろう。
ともあれ、寒いと文句を垂れたところでお店が暖かくなるわけもなく、私はさっさと買い物を終わらせてしまおうとカゴを手にした。
迷うことなくグロッサリーへ向かおうとしたけれど、すかさず後ろから襟首を掴まれた。思わず立ち止まって後ろを見れば泉さんは眉を上げて怒っている。理由がわからずそのまま見つめ合っていると、やがて泉さんは横の棚に並べられていた豆腐だとか納豆を手にしてそれを私のカゴの中に好き放題入れ始めた。
「泉さん、私納豆はあんまり」
「アレルギー?」
「そうじゃないんですが」
「あんた歳いくつ?」
「に、26・・・・・・」
「そう。じゃあいい加減カップラーメンから自炊生活にシフトチェンジしなきゃねぇ」
泉さんは冷蔵庫だけじゃなくて床下にある秘密の扉を開いてしまったらしい。選りすぐりのカップラーメンを見られていただなんて。もはや泉さんの瞳は私を女として捉えてはいない。胸が痛くてそんな冷たい瞳から目を逸らしている間にも手元はどんどん重くなる。
油揚げやらこんにゃくやらを放り込んだ泉さんが次に足を向ける先は青果部門。にんじんをじっと品定めする様子はアイドルを超えた主夫以外のなんでもない。きっとこれはカゴ2つは容易だろう。一度カートを取りに戻ったほうがいいかもしれない。
「泉さん、泉さん」
「話しかけないで!今真剣なの」
「重要です。聞いてください」
「なんなの?うるさいんだけど。にんじんも嫌いなの?緑黄色野菜は栄養価が高いの知らないの?てかそもそも緑黄色野菜が何を指してるか分かってる?」
「さすがにそれはわかってます!ピーマンとかほうれん草でしょ、馬鹿にしないでください。それからにんじんはどちらかというと好きな方です。けんちん汁とか美味しいですよね。・・・・・・それよりもあの、カート取ってきてもいいですか?」
続けざまに入れられるにんじん1本1本に込められた農家の方々の愛情から成る質量を感じながらも必死に訴えた結果、私の切なる思いは届いた。
そうして一度入口まで戻って再びカートを引き連れて戻ってくる頃には泉さんに託していたカゴは野菜でいっぱいで、そこで私はもう1度入口に引き返す。
青果部門の端にカゴが重なって置いてあることを知らなかった私が新しいカゴを手にして戻った時には既に泉さんに託したカートの下に新しいカゴが装備されていて、そこでようやく私は何もしないで泉さんの近くをふらついていればいいのだと悟る。
無駄に歩いたからいつの間にか肌寒さは消えていたけれど、代わりに少しばかりの虚しさを覚えた昼下がりのことだった。
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