「あ」

 今晩のご飯は何にしようかと考えながら、カゴ2つ分の食料品を冷蔵するものとそうでないものに分別していると、不意に隣から何やら大変なことを思い出したような声がした。深刻そうな声色に思わず考えるのをやめてそちらを見てみると、食料品を袋に詰める係だった泉さんが難しい顔をしていた。

「どうしたんですか?」
「最悪」

 泉さんの家はこの店から徒歩で約10分くらいのところにある。歩いて来れなくもないけどいつもは車で来る、とついさっき牛肉を品定めしながら教えてくれた泉さんは、今日が徒歩だということをすっかり忘れていたらしい。全てを泉さんに任せきりで、荷物を運ぶ時のことなんて何も考えていなかった自分をこれほどまで恨んだのは今日がはじめてだった。

 持ち運ぶには難しい量の食料品。外はいつの間にか気温上昇。それは、ものすごく辛い試練だった。


 先程のスーパーは品揃えの良さと食品の鮮度が高いことで有名だったらしく、泉さんのオススメでもあるらしい。だからこうしてひもじい思いをしている私を呼んだのだとか(別に私はそこまでひもじい思いをしているわけではないのだけど、泉さんは私の家で床下のカップラーメンを発見してしまって以来、なぜか私が常にお腹をすかせている可哀想なオバケみたいに見えてしまっているようだ)。
 とはいえ、この量の食料品を持たせて電車で帰らせるのは大変だ。だから買い物が終わったら一度泉さんの家に行き、泉さんの車で私の住むマンションまで私と食料品をまとめて送ってくれる予定だったらしい。スーパーでの買い物を終えて泉さんの家に向かう途中でそんなことを教えてくれた。

 もちろん私にとってすごくありがたいお話だったけれど、正直、両手に持っている袋が重すぎて自然にお礼を口に出せる状態ではなかった。なんなら、考えるよりも先に泣き言が口をついて出てしまう状況だ。
 「おもたい」「手が死んじゃう」なんて、そんなことを泣きそうになりながら言っていると、はじめこそバツの悪そうな顔をしていた泉さんもだんだんと鬼に変貌していく。

「ちょっとぉ、文句言わないでくれる? 言っておくけどさ、あんたの持ってる方、そこらの女の子なら余裕で持てる重さだからねぇ?」
「うう・・・どうせ私は女以下です・・・・・・」
「卑屈にならないでよ、別にそこまで言ってないでしょ。・・・・・・ほら、着いたよ」

 あまりの重たさに、かの流星隊・グリーンの魂が宿り始めた頃、塀で囲われている1軒のモデルハウスのような家についた。どうやらここが泉さんの家らしい。

「うわあ、おしゃれ・・・!」
「ほら、ぼけっと突っ立ってないで早く入って。誰かにこんなところ撮られて騒ぎになったらあんたに慰謝料請求するからねえ」

 ポストの中の郵便物を確認した泉さんは恐ろしいことを言いながら鞄から家の鍵を取り出した。慌てて泉さんのそばへ寄ったはいいけれど、てっきりそのまま車で移動になるとばかり思い込んでいたから、思わず首を傾げてしまう。

「なに?」
「帰るんじゃないんですか?」
「別に帰ったっていいけど・・・疲れたんじゃないの?」

 つまりそれは、重たい食料品を持ち続けて疲弊しきっている私を泉さんのこの家に上げてくれるということだ。予想外の優しさにどのような顔をしたらいいのか悩んでしまう。
 そこまでお世話になってもいいのだろうか。昨晩から泉さんに迷惑をかけ続けているせいで素直にその優しさに甘えることができず、しばらく靴の一足も並べられていない綺麗な玄関をただただ見つめていたのだけど、痺れを切らした手のひらによって背中を押されてしまった。よろけた私は玄関に足を踏み入れる。

 泉さんの家は、新築の匂いがした。


「お、お邪魔します」

 高い天井、埃一つないフローリング、夕陽が差し込む大きな窓、真っ白な壁。
 誰もが憧れてしまいそうな泉さんの家は、この地に誕生したその日から今日に至るまで質素な生活を送っている私の人生とは全く無縁なものだった。
 あまりに感動して声も出せずにしばらく玄関で立ち尽くしていたら、何してるの、と声をかけられた。背後には玄関のドアを閉めた泉さんが仁王立ちしていて、その目はあからさまに私を邪魔だと言っている。

「素敵なお家ですね」
「当たり前でしょ、俺の家なんだから。それより早く上がってくれない?」

 そうして私が靴を揃えるのを待っていてくれた泉さんは、冷蔵する必要があるものを詰めたレジの袋だけを手にしてリビングへと案内してくれた。
 案内された綺麗なリビングを見て思わず変な声を出してしまったけれど、よくよく見ると食器棚には必要最低限の食器しか並べられておらず、その上キッチンには普通は目に付くところに置いてあるだろう調味料などの数々が全くなかった。
 不思議に思いつつもその様子をしばらく観察していた私を見ていたのだろう、泉さんは冷蔵庫からペットボトルの水を取り出してコップに注いでくれた後、謎を解き明かしてくれた。

 どうやら泉さんにはもう1つ、いわば拠点にしているマンションの一室があるらしい。ここは将来のことを見据えて少し前に購入したもので、だから普段は家を空けていることが多い、と。
 凡人には理解できないことをさらりと言ってしまうあたり、一般人と人気芸能人の差が嫌でも顕著になる。

「なまえ? なぁに、そんな顔して」
「え・・・・・・? あ、いえ。なんだか泉さんが遠く見えちゃって」

 夢ノ咲学院にいた多くの生徒は、高校入学時から、むしろもっとずっと前から芸能界で輝くことを夢見て励んでいた。泉さんなんて、入学する以前から既に芸能界で活躍する人気モデルさんだ。そんな人と比べると、私なんて豆粒みたいにちっぽけな人間に思えてしまう。

 大人になってから改めて実感してしまった事実が胸を刺す。泉さんは、私みたいな人と関わって良いのだろうか。
 直接的な関わりがあったのはたったの1年間。数あるユニットの中では一番お世話になっていたけれど、泉さんとは、ただ私が片思いをしていただけで特別仲が良かったわけでもない。私と関わったところで、泉さんにとっては何の得にもならないと思うけれど。

 ふと、椅子を引く音がした。向かいに座っていた泉さんが立ち上がった音だった。

「甘いもの好きだったよねぇ? 特別に作ってあげる」
「いえ、でも、さすがに悪いです」
「俺が作りたいの」
「・・・・・・なら、私も手伝いたいです」
「あんたは一応客人なんだから座っててよ」
「でも」

 なにかをしていなければ、どうしようもないことを考え込んでしまいそうだから。
 なんて、こんなこと口には出せないから黙っていたのだけど、泉さんはそんな私の心情を感じ取ってくれたらしい。少しの間思案していた彼が思いつきで与えてくれた仕事は、洗濯物の回収だった。


“2階の奥、寝室を通った先にあるベランダに干してあるから。もう乾いてるはずだし、適当に入れて、ついでに畳んでおいてよ”

 泉さんからの頼まれごとは私でもそつなくこなせる簡単なもの。落ち着いた色で構成された部屋の奥、ベランダに干されていたタオルや洋服を取り入れるのに時間はかからなかった。

 それにしてもだ。私のような、泉さんにとって信用に値するかもわからない人間を安易にひとりにさせてもいいのだろうか。
 今畳んでいるこのシャツだって、きっと安くはないのだろう。おまけに泉さんが袖を通したものともなればファンが黙っていない。オークションにでも出品すればすごく稼げてしまいそう。さすがにそんなことをしようとは思わないけれど。

 タオルと洋服。きっちり分けて綺麗に畳み終えた私は気持ちの良い気分に任せて伸びをする。何気なく見上げた時計は洗濯物を取り入れはじめてからあまり動いていなかった。
 仕事が早いのは良いことだと思うし、このまま一階に降りて泉さんに褒めてもらうのもありだろう。昔のどんくさい私とは違うんですって、たかが洗濯物で胸を張るのもいいかもしれない。だけど問題はその後だ。
 お菓子作りは得意分野というほどではないし、先程の様子からして、手伝わせてくださいと意気込んだところで良いよと言ってくれる可能性は低い。リビングから追い出されたらそれこそ切ない。それなら泉さんの邪魔にならないように、しばらくここでぼうっとしてるのもありかもしれない。

 もう少しここで待機してよう。
 引き寄せられるように夕陽が当たる場所へ移動した私はそう決断し、光合成を行う植物の気持ちになりながら、重くなりつつあった瞼を閉じてしまったのだった。

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