わずかに離れた唇から漏れた熱い吐息に目を開けると、泉さんが目を細めて優しく微笑んでいた。
 甘ったるい匂いとお酒の匂いが部屋を汚す。ぽたり、ぽたりと泉さんの汗が流れ落ちてきて、それが胸の膨らみをなぞるように滴ってシーツを濡らす。
 やがて大きな手が私の手を捕まえて、指を絡めてベッドに縫いつけた。ぎしりと音が響く。身体が揺れるたびに響くベットのスプリングがうるさいけれど、今はそれを気にしている余裕はない。

「いず、み、さっ」
「ふふ、なぁに・・・?」
「ど、して」
「どうして? こんなことするのかって?」

 頬を火照らせて、眉を寄せて、ひどく苦しそうな顔をしているのに口は平然を取り繕っている。泉さんは、私が身体を大きく震わせても動くのをやめなかった。
 眉を寄せるのはそのままで、口元に弧を描いた泉さんが私の目尻に浮かぶ涙をすくいとる。そのすぐ後、冷たい指先に腰を掴まれて思わずびくりと跳ねる。

「そんなの決まってるでしょ。 ーーーー、」


 身体が揺れる感覚に襲われる。
 ふと目を開けると、視界いっぱいに白い天井が映った。しっとりと汗ばんでいるシャツが肌に張りつく感覚に気持ち悪さを感じながらも、瞬きを繰り返して、やがてここがベッドの上だと気付いた。
 どこかで嗅いだことのある香り。でも、どこで嗅いだのか思い出せない。記憶を手繰り寄せて思い出そうとしながら起き上がったところで、やっと右隣に人がいたことにも気付く。私は右を見て絶句した。

 立っていたのは夢に見た人物ーー夢では白いシャツを羽織っていたけれど、今は黒いシャツに袖を通す泉さんだった。
 泉さんは仁王立ちしたまま私をじっと凝視していて、そのあまりの眼力に、私はベッドの端に逃げようと手を動かす。だけど思っていたよりも限界は近かったらしい。
 マットレスも何もないところに手を置こうとした私は、50音の最初に君臨する「あ」を耳にした後、華麗にベッドから落ちてしまう。容赦なくフローリングに落ちた私を咄嗟に包み込んでくれたのは、ふわふわな掛け布団だった。

「ちょ、ちょっと、なにしてんの!?」
「あ、ご、ごめんなさい」
「まったく・・・怪我は? 痛いところない?」
「はい。どこもいたくないで、す」

 慌てた様子で私のそばへ寄ってきてくれた泉さんを見たら、ふと既に忘れ始めていた夢の出来事を思い出してしまって、つい、善意をないがしろにして目を逸らしてしまった。
 不自然に逸らされた目。泉さんは、多分、怪しいと思っている。普段は畳み掛けるように口数を多くするのに、この時ばかりは口を噤んでいた。

「変な夢でも見たのぉ?」
「い、いえ」

 夢の中で、泉さんが何かを口にしたのはわかった。だけど、何を言っているのかまではわからなかった。ただ鮮明に残っているのは、少し潤んでいた青い瞳と、鎖骨に残る薄く小さな赤い痕。あれは絶対、紛れもなく情事の夢だった。
 夢は夢だから、たまにはああいった夢だって見てしまうだろう。思い当たる節さえなければ、しばらく泉さんを意識してしまうくらいで大した問題もないような些細な夢だ。だけど、あれはどこか現実味を帯びていた。
 夢に見た家具の配置が、今、私の住んでいるところと全く同じだった。それに、お酒の匂いも。私と泉さんは昨日一緒にお酒を飲んでいたから、匂いがしてもおかしくはない。それから、ベッドにはドレスが脱ぎ捨てられていた。あれは私が同窓会に着ていったもので。

「あんたが床で寝てたからベットに寝かせたの。よくもまあこんな硬いフローリングで眠れるよねぇ・・・」

 私の態度が今この状況を飲み込めていないからだと判断したのか、泉さんは簡潔に、ベッドにいたことの経緯を教えてくれた。
 多分、普段の私なら男性のベッドで寝ていた、なんてことがあったら絶対に取り乱している。だけど今はそんなことどうでもよくて、それよりも夢の中での出来事がもしかしたら本当なんじゃないかという考えで頭がいっぱいだった。

 もし、もしも、あの夢の出来事が本当だとしたら、きっと今も泉さんの鎖骨の左側に赤い痕があるのだろう。

「なまえ?」

 柔らかい布団を握るのをやめて、床に膝をつけて心配そうに私を覗き込む泉さんの黒い服の襟にそっと手を伸ばす。

 それで、もし赤い痕があったら、私はどうすればいいのだろう。泉さんになんと言えばいいのだろう。
 ぼんやりとそんなことを考えながら伸ばした指先で襟に触れる前に泉さんがその手を掴み取ったのと、閉じかかっていた寝室のドアの方から呑気な声がしたのは同時のことだった。

「セッちゃん、おてんば娘起きた〜?」

 眠そうに吐息を混じえて喋る色っぽい声、『セッちゃん』という独特な呼び方、『おてんば娘』という人を馬鹿にしたあだ名。思い出は美化されるものだけど、今になってもこの人との思い出は美化されない。
 表情を変えた私に、泉さんは呆れたように溜息をついて寝室のドアに目を向ける。ドアからは見えない位置、私の手を掴んでいた泉さんの手は、一度力を強めて私の手を握ってから静かに離れていった。
 少し寂しいと感じてしまった自分がいた反面、もう反面の意識は既に私の苦手な人ナンバーワンの吸血鬼もどき、もとい朔間凛月に向いていた。

「おてんば娘は寝相も悪いの? ほんと、どこまでもダメな子・・・ふふ」
「違いますこれは・・・・・・っそれよりどうして凛月さんがここにいるんですか。知ってたら来なかったのに」
「え〜、俺のこと嫌いなの? 傷つくんだけど。でも、俺はあんたのこと気に入ってるよぉ。一緒にいると優越感に浸れるからねぇ」
「吸血鬼に気に入られても全然嬉しくないです。中二病!」
「ちょっとぉ、くまくんもなまえも無意味に煽るのやめなよねぇ! まったく、みっともない」

 言い争いは恒例行事だ。
 夢ノ咲学院では凛月さんと同じクラスで、凛月さんはユニットで一番お世話になっていたKnightsの一員でもあったけれど、私と彼はものすごく仲が悪くて、ことある毎に言い合いになっては誰かしらが仲裁に入っていた。
 普段は喧嘩をふっかける側にいる泉さんもしかり。むしろユニット練習の時に言い争いが始まると、ある時期まではなるちゃんが止めてくれていたけれど、私と凛月さんの喧嘩があまりに頻繁に起こるものだから面倒だと仕事を放棄して、それからは泉さんの仕事になっていた。それは今日も変わらず。

 もちろん感謝していることもあるけれど、凛月さんは他の人には言わないくせに、私にだけは、私の気にしていることをズケズケと煽るように言ってくるから嫌いだ。相変わらず、嫌な性格!
 泉さんは今にもヒートアップしてしまいそうな私の様子を見て、ガキっぽいとでも思っているのだろうか。できれば、なるべく大人になった私を見せたかったけれど。

「泉さんが呼ばれたんですか」
「呼んだっていうか、仕事の件で連絡した時にあんたの話をしただけ。俺も2人が揃うと面倒だってことは身に染みてるからねぇ」
「・・・・・・あの、私帰ります」
「何言ってんの、あんたの分の夕飯も作っちゃったんだけど。それに、どうせこの時間に帰ってもろくな料理作らないでしょ」
「それは、」
「落ち込んでたなまえのためにカップケーキも作ってあげたんだから、帰るならちゃんと食べて俺に感想伝えてからにしてよね」

 にっこりと笑った泉さんに、それなら、とお礼を言う。
 夕飯という発言でやっと気付いたことだけど、私は随分眠りこけてしまっていたらしい。カーテンの隙間から外を覗いてみると、寝落ちする前は赤みがかかっていた空が今では真っ暗になっていた。
 泉さんの役に立ちたくて洗濯物を取り込んだというのに、これでは逆効果だ。昨日から世話を焼いてもらってばかりで、いい加減自分が恥ずかしくなってくる。

「夕飯は俺も手伝ったから絶対おいしいよ」

 寝室の壁にもたれかかっていた凛月さんは黒い髪を揺らして微笑む。
 赤い目を細める吸血鬼の言うことは信用ならない。確かに、凛月さんの手料理は泉さんに負けないくらいすごくおいしい。料理の腕は信用しているし、むしろ楽しみなくらいだけど、でも、こっそり七味とうがらしだとかを丸ごと入れられていたらどうしよう。
 これ以上、泉さんに迷惑をかけるようなことはしたくないのだけど。

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