ざあざあと、雨が降っている。わたしの右手には、指定の学生カバン。防水効果はゼロではないけど、たぶんそんなに水に強いわけじゃない。それから、左手には傘。が、あればよかったのに、なにもなかった。朝のお天気お姉さんの予想では、降水確率50%。わたしは見事に敗れたわけだ。

 どうやって帰ろうかな、この雨じゃ制服もカバンも中の教科書も全滅だろうな。ここは本部基地で、今は非常に中途半端な時間帯に当たる。誰もこの出口にいないのがその証拠だ。午前の任務の人たちはとっくに帰っているし、対戦したい人たちは今ごろようやく身体があったまってきたくらいだろうし、午後の任務の人は準備の真っ最中だろう。午前の任務が終わってから、作戦室でなんとなく一人で残って、ランク戦のログなんかを見るんじゃなかった。

 後悔しても雨はやまないわけで、どうしようもないわたしは、とりあえず走ろうか、いや、でもやっぱり、と葛藤するついでにカバンを肩にかけ直したところで、後ろから問いかけるように名前を呼ばれた。


「あ、やっぱりみょうじだ。なにしてんの?」
「……犬飼、先輩」
「はは、警戒しすぎ」

 緊張しすぎ、ではなく警戒しすぎ、とあっさり言うところが、この人の本質を表していると思う。出会ったときから、ずっとそうだ。この人の軽くて妙に鋭い言葉に、心臓がじくじくと火傷を負う、そんな感覚を植え付けられている。

「あ、もしかして傘ないの?」
「……あります、大丈夫です」
「ハイ、嘘」

 それなりに雨が降り続いていて、声は普段よりすこし聞き取りづらいはず。それでもその、簡単に発せられた『嘘』という言葉は、こうも簡単に、わたしの耳に届く。

「ないんでしょ。入れてあげようか」
「い、いえ。遠慮します、大丈夫ですから…」
「ふぅん?でもこの雨、夜まで止まないっぽいけど。走って帰っても絶対全身濡れると思うし、下手したらノートも、やられるかもねー。てことはきみ、朝まで此処にいるわけだ」

 ノート、をわざわざ言葉にしてにやにやと笑うこの人は、本当に性格がよろしくて笑えない。
 今日は、任務の前に、辻くんに世界史のノートを借りたのだ。この間の特別早退の日に、ノート提出が成績に大きく響く世界史があって、その範囲の内容を写させてもらうために、辻くんに声をかけた。そのときに犬飼先輩もいたから、きっと、分かってて言ってるんだろう。わたしもこのノートがなければ、制服やカバンや教科書なんか放っておいて、雨の中を走っている。それを躊躇するのは、彼に借りたノートを濡らしてしまいたくないからだ。

「じゃあねー。頑張って」
「っ、犬飼先輩、待って、ください」
「んー?」
「か、傘、入れて、ください……」
「ははっ。最初からそう言いなよ」

 犬飼先輩は実に楽しそうに、紺色を基調としたなんとなく高級そうな傘を広げた。犬飼先輩は、基本的にはおしゃれな人だ。たぶん本人は、それほど興味はないんだろうけど。


「相合傘だねえ」
「……………」
「そんな硬くなんないでよ。何もしないって。たぶん」

 何分くらい歩いただろう。周りの景色を見るに、10分くらいだろうか。警戒区域に近かったさっきまでの道に比べて、このあたりは普通に、通学路と言えなくもないルートだ。この大雨でひとまずは人がいないとはいえ、わざわざ今、そういった言葉を投げかけるのは、何の意図があるんだろうか。学校の友達に見られたら根掘り葉掘り聞かれることになりそうで面倒くさいな、なんて場違いなことを考えて、隣にいる人物のすべてをやり過ごしたいことこの上ない。返答すべきかどうか迷ったままに、なんとなく横顔をちらりと盗み見ようとすると、ぱちり、視線が交わってしまった。

「きみさあ、」
「……い、ぬかい、せんぱい……?」
「今ここにいるのが俺じゃなくて、」

 俺じゃなくて、辻ちゃんだったら、嬉しかった?

 ざあざあと雨が降っていた。それでも、犬飼先輩の声を拾うのはあまりにたやすくて、だけどわたしの喉から出た言葉は、え、という無意味な母音だけだった。
 知っていた。この人がわたしの辻くんへの気持ちを知っていることを、わたしは知っていた。この人が度々それを妨げようとしていたことにも、気づいていた。きっと、自分の後輩に近付こうとする女を興味本位で邪魔をしてやりたい、そんな風なことだと思っていた。この人はモテるのだ。本来なら、わたしなんかと関わらなくたって、綺麗でかわいい彼女を見つけることはきっとたやすい。

 だから、こんな顔は知らない。いつも意地悪く細められている目は今日はどこか苦しげに陰っていて、挑発的な表情を形作る眉はすこし下がっていて。追い詰めるような言葉しかわたしに吐く気はないと思わせるほど饒舌なくちびるは、どこかぎこちなくわたしに問いかける。知らない。どうして。なんでそんなカオをするんだろう。

 傘が傾いた。それを持っていない方の手で、わたしの制服のリボンが引っ張られた。湿気でムースもアイロンも効果のなくなっているわたしの髪が、風もないのに揺れた。
そして、目を閉じた犬飼先輩と、くちびるが重なった。


「……ごめん。しちゃった」

 口調は綿あめみたいに軽いのに、言葉尻も綿あめみたいに甘いのに。その表情のせいで何を考えているのかがまったく分からなくて、今度は無意味な母音すら吐けない。犬飼先輩は傾けた傘をまた真っ直ぐに持ち直して、わたしが自然と歩き出せる速さでまた足を前に運んだ。そのときに先輩の左肩やその肩にかけたこれまたなんとなく高級そうなスクールバッグが、元の色がわからないくらいに思い切り濡れていて、わたしはまた分からなくなる。ファーストキスなのにとか、何もしないって言ったじゃないですかとか、きっと色々言えることはあったはずなのに、先輩の遠くを見る横顔がわたしのそれを脳の奥底に沈めたので、なんとなく肩を狭めて、音も無いまま歩き出した。

 わたしの右肩や抱えたスクールバッグは、すこしも濡れていなかった。




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