影浦は、朝からスマートフォンをズボンのポケットに入れ続け、しかし何度も震えるそれを無視し続けた。未読のままではなく、きちんと読んだ上でのことだ。返事を寄越さずにいるのに、さらに飛んでくる相手からのメッセージ。メールよりも身近で手軽なLINEというツールは影浦に、風邪っぴきの年上の恋人からの一言二言を、律儀に届ける。

 さてその内容はといえば。「ひまー」「しんどいーあいたいー」「おみまいきてー」「まさとくーん」といった、これといって特筆すべきことは何もない内容のものだった。時折「寝とけ」とそっけなく返すも、「カゲがへんじくれたー」「あれ?」「やっぱり放置ぷれい」「カゲ〜」などと、一回の台詞に関して、生産性の薄い返答がいくつも跳ね返ってくるものだから、もう4限が終わる頃には、彼女からのメッセージで画面のすべてが埋まっていた。変換が面倒なのか、変換するのも億劫になるくらい体調が悪いのか。前者であればやはり無視一択で、後者であっても、こちらが返事を返せばますますメッセージを送ってくるだろうから彼女は休めない、と影浦は考え、同じ一択を頭に並べた。


 今日は影浦隊は特別早退ののち、二宮隊との合同任務だ。早ければ2時間ほどで終わって夕方には帰れる予定だと影浦は仁礼から通信を介して情報を得たが、実際は1時間もかからず、影浦をはじめその隊員たちは拍子抜けしたと同時に、早く帰れることにはやはり喜びを露わにした。ファミレスに寄るだのコンビニに寄るだの、北添と仁礼を中心に学生らしい話題で盛り上がっていたら、影浦は前方から二宮が歩いてきたことに気づいた。

「影浦」
「……んだよ」
「あいつが何度も、おまえがLINEを無視する、見舞いに来てくれない、という類いの連絡を寄越してきて鬱陶しい」
「ハァ?なんであいつがてめーに連絡してんだ」
「知るか。本人に聞け」

 二宮はそれだけ言うと、踵を返して去っていった。北添と仁礼、それから中学生の絵馬にまで、無視は良くない、見舞いに行け、と半ば責め立てられるような言葉を投げられたが、このとき影浦はただただ、自分の恋人が二宮に連絡をしたことにイラついていた。そもそも影浦自身が彼女からの連絡を無視をし続けたことが原因なのだが、そんな考えは頭の隅にも生み出せないでいる。W自分にW構え構えと甘えてくる恋人がかわいいのであって、断じて他の男にそんな姿や様子は知られたくなかったし見せたくなかった。よりにもよってそれが、自分の隊と長年争ってきた隊のいけ好かない隊長だなんてことは、到底認められるはずもなかったのだった。

 影浦は、とても恋人を大切に思っていた。だからこそ今回は放っておくことにしたのだ。それは、彼の持つ感情受信体質に大きく関係してのことであって、他人には理解の難しいことであったので、あえて言い訳をしなかった。自分が彼女に対して散々に脳内のキャパシティを明け渡していることもまた、影浦自身だけが知っている。





 おそらく安くも高価でもないマンションの3階へ、階段を上がってたどり着く。彼女が「カゲと違って運動不足だからこれくらい歩かなきゃなの」と言って自分も道連れにされるせいでついた癖だ。

 見慣れたドアの前に立ってインターホンを押せば、ドア越しに近づく足音。ほんのすこしの間のあとドアが開いて、鼻の頭が見える程度にずり下げたマスクをしていてもわかるくらい驚いた顔で、彼女は影浦の前に現れた。たぶん覗き穴で外の様子を伺っていただろうから、ドアを開けて更に驚く要素なんかないだろうにと、影浦はそっと思った。

「カゲ、来てくれたの?」
「てめーが何回もLINEしてうぜえからな」
「……ふ、へへ、そっかあ」

 びっくりした、嬉しい、ありがとう。影浦は自身の肌にちくちくと刺さるそのむず痒さに、脳の端のあたりでため息を吐いた。
 彼は彼女の、自分に向ける素直な好意と愛情とを、常日頃から感じ取っている。そういう体質は一般論で言うともちろん特殊なのだから、彼以外は知る由もない。もちろん彼女も、一応彼のそういった力に関して理解はしているが体感したためしがないので、まさか自分の感情がどんな形で彼に届いているかなど、分かるはずもない。

「熱は」
「だいぶ下がったよー。お風呂入れるくらいまでは回復したし」
「ならもう寝ろよ」
「えー、カゲも一緒に寝よ。今日泊まってくよね?」

 影浦は今度は包み隠さず、全力でため息を吐いた。ほんのりと赤い頬は風呂上がりのせいか下がりきっていない熱のせいかは知らないが、数%増しで色っぽい。とにかく、風邪をひいていつもよりおとなしい彼女に、安心しきった顔で「一緒に寝よう」「泊まっていくよね?」などと誘われては、その信頼を裏切ってしまいたくなるのが男のサガだ。少なくとも、いま彼女の部屋にいるひとりの男は、そう思った。

「今日は帰る」
「え?なんで?」
「……、移るだろーが」
「……そっか。それはそうだよね」

 一瞬の動揺ののち取り繕った影浦の言い訳は結果的に、風邪で少ししおらしい彼女を納得させる程度の説得力はあった。彼女はごそごそとベッドに入り、「お見舞いありがとね、電気だけ消してくれると嬉しいなー」と笑顔を影浦に向けた。電気だけ消して、のあとの、鍵をかけて(その鍵をポストに入れて)帰ってくれという部分は、付き合いの長い間柄故にどうやら割愛されたようだ。

 実際のところ、見舞いをねだりつつも、彼に風邪を移したくはないと、彼女も薄々思っていた。その上で自身の心細さが勝り、LINEによるメッセージや先ほどの言葉になったのだったが、影浦は影浦で彼女の風邪を早く治すための最善を考えた結果、もし万が一自分が我慢できなくなったらと考えていたのだった。
分かりやすく言えば、影浦雅人は既にムラムラしていた。それだけの話だった。そして、今彼女とベッドに入るのはそんな影浦にとって得策ではなかった。本当にそれだけの単純な話だったのだが、彼女は少し寂しさを感じてしまった。それはサイドエフェクトにより、言葉足らずな影浦にしっかりと届けられた。

「………詰めろ」
「え?」
「帰んのが面倒になっただけだからな」

 影浦は彼女の布団にごそごそと割り込んで、狭いベッドの中でスペースを確保するため、彼女を軽く抱き込んだ。平熱が低めな自分の体に、高い体温が分け合われる感覚が、心地よくももどかしくも感じた。

「……んふふ」
「……何笑ってやがんだ、寝ろ」
「へへ、だってさあ、連絡しておいてあれだけど、まさと忙しいし、来てくれないとおもってたんだよ。なのにさ、こうして来てくれて、一緒にねてくれて、ぎゅってしてくれて、うれしい」

 自分の胸に擦り寄る彼女に影浦は確かにきゅんとしてしまった。その時点でもう負けである。いつも甘えたがりな年上らしからぬ恋人ではあるが、今日はいつも以上にいじらしく、愛らしいと思った。いつもはアダ名で呼ぶくせに、無意識だとは思うがわざわざ名前で呼んだあたりで、影浦のHPはノックアウト寸前の減りだ。そういえば二宮に連絡を入れた件について釘を刺すのを忘れていたから、明日起きたら言ってやらなければ。

 好き、大好き、というふわふわとした感覚と、自分に全てを委ねるようにしてすぐに眠りについた彼女とを脳内で並べて、影浦も目を閉じた。彼女の瞼にくちびるで触れるとよりいとおしくなったので、影浦は自身が心配していたほどの我慢大会にはならずに済むのだが、まだ眠気がやってこない今の彼は、そんなことを知るはずもない。




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