ほとんど毎日毎日、陽介はわたしの部屋に来ては自分の部屋かのようにくつろいで帰る。そのときによく、トレードマークのカチューシャも外さないままに大の字になって床に寝転んでぐうぐうと眠る陽介を見て、かわいいおでこだなあと思った。それは毎回飽きずに感じたことで、そしてある日、そのおでこにそっとくちびるを寄せるようになった。

きっと陽介がこんなことを知ったら、わたしを遠ざけるだろう。いや、彼は優しいから、表面上は取り繕ってくれるかもしれない。でもきっと、深い深い奥底の部分は、きれいさっぱり修復不可能。幼馴染という10年近くをかけて積み上げてきた距離をガラガラと壊すのは、とても簡単そうに見えて嫌になる。


親が共働きの我が家は、いつも大抵、夜までわたしひとりだ。多少の寂しさはあるとはいえ、優しい父と母はわたしに惜しみなく愛情を注いでくれているのだから、悲しくはない。
ただ、両親たちはそう思っていないのだろう。家族ぐるみで仲の良かった米屋家の、わたしと同い年の男の子に、我が家の合鍵を渡しているのだ。

何かあったら困るからと、“米屋家”に預けたつもりなのかもしれない。でも実際にそれを持っているのも使っているのも、陽介ただひとり。彼の所有するものになっていると考えて、ほとんど間違いないと思う。


「んぁ……、いま、何時?」
「え、ああ、6時半だよ」
「まじか、完全に寝てたわー」

何回聞いたかわからないそのお決まりのセリフとともに、陽介は立ち上がる。ああ今日は、おでこに触れられなかった。

 ウチで晩メシ食べるだろ?というこれまたテンプレート化された言葉に、わたしもつられて立ち上がる。今日は水曜日。毎週水曜日は、米屋家にお邪魔して晩ごはんをご馳走になる日だ。特に本当の娘のようにわたしを可愛がってくれる陽介のお母さんは、わたしの来る日はとても張り切って料理を作ってくれているらしい。そんな陽介ママのご飯はいつもすごく美味しい。

でも、隣に座る陽介のせいで、すこし胸が苦しい。








「陽介、もうわたしの家、上がんないで」

ああついに言ってしまった、と思った。学校帰りの道で一緒になって、なんとなく家まで隣を歩いた。勉強教えて、と誰もいないわたしの家までついてきた陽介に、言ってしまったのだ。

「は…?なんだよ、急に」
「急、じゃない。ずっと、思ってたの」

 ずっと思ってた。これは本当だった。陽介が近くにいるから苦しいんだ。わたしのパーソナルスペースに、いとも簡単に入り込んで来られるから、それをわたしが許しているから、こんなに苦しいんだ。

「……なんで、んなこと言うわけ」
「…………か、れし、できたの。だから、いくら幼馴染、でも、こういうの、駄目だと思うから」

 じゃあね。

 わたしの言葉はそれで終わりで、この会話も、そして距離も、終わったはずだった。腕を掴まれて、わたしの家のドアが開けられて、ガチャリと閉まる。背中が硬いカベに押し付けられて、掬い上げられるようにくちびるを塞がれるまでが、本当に一瞬だった。
開けたら軽快なメロディーが鳴る仕組みを取り付けたドアの、その呑気な音楽が、鼓膜の寸前で置き去りだ。

 すこし離れては、またくっつく。陽介がわたしを引っ張りこんだここは我が家の玄関で、わたしの背中にあるのは閉められたばかりのドア。そこまではなんとか分かったものの、呼吸の逃げ道を陽介がコントロールしているから、わたしは何もできない。だんだんと頭が真っ白に近づいていく。私達は、何をしてるんだろう。

ドアに抑えつけられたままの両腕にはだんだんと力が入らなくなって、今なにを映していてそれが何色なのか分からないくらい滲んだ視界は、いっそのこと、とぎゅっと目を閉じた。頬っぺたを何かが滑ったから、ああわたしは泣いているんだなんて情けないことを思ってしまった。

「なあ、彼氏いるとかさ、嘘だろ。……嘘って言ってくんね?…………頼むから」

縋るように、とはまさにこのことなんだろうなと思った。わたしの目からはぼろぼろとみっともなく涙が溢れて、それが陽介への失望なのか、恋心への冒涜みたいに感じているのか、そんなことはあまり分からなかった。その間も涙は止まらないし、喉はしゃくりあげる。陽介の言葉にすばやく言葉で返せない自分が、とても嫌だった。

「……んな嫌だったか。ごめんな」

 陽介はわたしの頭をそっと撫でて、ドアノブに手を掛ける。わたしは、反射的に、陽介のシャツの裾を掴んだ。陽介の視線が刺さるのを感じるけれど、言葉は出ない。伝えたいことはある。多くはないけど、大切なことが、あるから。

 掴んでいた裾を離して、その代わりにシャツの襟元を掴んでおもいっきり引っ張る。そして、いつもそっと口付けていた、陽介のおでこにキスをした。










「なあ、ずっと聞きたかったんだけどさ。おまえって、おでこフェチな何かなわけ?」

いつもと同じように図々しくわたしの部屋に上がり込んだ陽介は、わたしが出した麦茶を飲みながらそう言った。一瞬動きを止めたわたしにたたみかけるように、「いつもしてくれてたじゃん?」と意地悪な顔で言う。全部気づかれていたのだ、と知った瞬間に恥ずかしさでしにそうになった。

「おまえって、男の俺を簡単に部屋に上げるから、全然脈ねーやって思ってて。でもなんかいきなり、オレのでこにやわらけー感触あった日あってさ。いやー、あん時はまじおまえのこと襲うかと思った」
「……お、おそ……っ」
「そんな警戒すんなって。冗談……、じゃねーけど、今はしねーよ。まあ、いずれ、な」

お返しとばかりにわたしのおでこにちゅっとキスをした陽介の顔は意外にも赤くて、嬉しそうで、わたしはどうしようもなく、しあわせな気持ちになったのだ。




list

TOP