奈良坂先輩はすごい人だ。

 狙撃手として憧れずにはいられないような、そんな人だ。とてつもない命中精度、冷静な判断力、個人としてもすごければチームとしてだってもちろんすごい。わたしの馬鹿な脳みそでは奈良坂先輩を表現できるまともな言葉は他に思いつかないけれど、ただただひたすらに強く気高い、尊敬してやまない人だった。

 当真先輩もものすごいけど、わたしはとにかく奈良坂先輩の狙撃に目を奪われた。

 だからはじめましてのご挨拶のときに、弟子にしてくださいと頭を下げてお願いした。最初から分かっていたけれどやっぱり、あっさりと断られた。一度断られ二度断られ、三度目の正直でもやっぱりあっけなく断られ、しつこいとすこし怒られた四度目に軽い溜息のあと「わかった」と奈良坂先輩が頷いてくれたのは、きっとしつこすぎるわたしに対する呆れと同情がほとんどだったと思うけれども、わたしはそれでもかまわなかった。

 奈良坂先輩のようになりたい。本当に純粋にそう思っていて、わたしは恐れ多くも、すこしでも奈良坂透という素晴らしい狙撃手に近づきたかった。




 そんなわたしに、困ったことが起きた。いや、現在進行形でそれは起きている。

「おまえはいつも、肩に力が入りすぎだ。引き金をひく指先以外はもうすこし力を抜け」
「は、はい」
「それから銃口を下げるな。癖になる」
「すみません……」

 狙撃の構えを教わっているだけなのに、先輩の声を間近で聞くたび、イーグレットを持つ手に触れられるたび、どきどきと心臓がうるさくなって狙いがうまく定められない。とはいえ日頃の訓練の賜物か、そこまで壊滅的な結果にはならなかったけれど、きっと集中力が足りないと思われているだろうなとは思った。先輩の弟子なのに、こんなんじゃ駄目だ。

 先輩に教えてもらって確かに前より格段に上達しているのに、それは我ながら確かなのに、奈良坂先輩の前でそれを見ていただくことができない。由々しき事態だと、その時はただ思った。だけど訓練を続けるにつれてどんどん痛く煩くなる心臓。

 わたしは、ただ狙撃手として憧れていただけだったのに。純粋に狙撃を教えてもらうだけの気持ちだったはずなのに。さすがに自分の身体のその反応の意味を理解できないほど鈍感でもなかったので、答えにはあっさりとたどり着いた。認めたくなかった。先輩にバレたらきっと、もう狙撃なんて教えてもらえなくなる。

 狙撃手というポジションにとても誇りを持っている人だから、そんな不純な動機で近づいたのだと思われたら、きっともう今みたいに訓練に付き合ってくださったり時折ココアをおごってくださったり、そういうことは金輪際していただけなくなるだろう。

「……もっと、頑張らなきゃ」

 つい声に出てしまった言葉は、ただむなしく響くだけだった。だけど、せめて弟子として愛想を尽かされないように、もっともっとうまくならなければ。それしか出来ることはないと思った。





 そうして奈良坂先輩に声をかけることなくこそこそと訓練場へ行くようになって、一週間が経った。前はなるべく練習時間を相談して一緒に訓練をさせてもらえるようお願いをしていたけれど、ここ最近ではいよいよ先輩を見ると顔が熱くなるというオプショントリガーまで備えてしまったらしいわたしは、奈良坂先輩に会うのをなんとなく避けるようになった。

 大丈夫。今だけだ。きっと時間が経てば、今まで通り普通に話せる。




「よお。奈良坂の弟子じゃねーか」

 貸し切り状態の訓練場に響いた、自分の中ではそれほど聞きなれない声。慌てて振り返るとそこにいたのは、ボーダーで知らない人はいないNo.1狙撃手の当真先輩がいた。「一人で練習してんの珍しいな」と続いた言葉には他意もなにもなく、ただ純粋にそう思っているだけのようだったけれど、それはもう思いっきりイーグレットの銃口を動かしてしまったので動揺はきっとばればれだ。そして何よりわたしは、ポーカーフェイスというものが苦手だった。

 的から大きく外れたわたしの狙撃を見て「ふーん」とどこか意味ありげに呟いた当真さんは、「俺が教えてやろーか」と変わらぬトーンで言った。

「え……?」
「んなびっくりすることか?お前はスジが悪いわけじゃねーんだし、アドバイスくれーはしてやるよ」
「でも、ご迷惑では……」
「気にすんな。飽きたらテキトーに帰るしな」

 当真さんのその言葉はそれこそ適当といえばそれまでだったけれど、「気を遣うな」と言われているみたいに聞こえてわたしにはとてもありがたかった。じゃあお言葉に甘えて、と言って構えたわたしにの脳裏に、奈良坂先輩の声がよみがえる。

 力を抜いて、銃口は下げずに、落ち着いてしっかりと狙う。引き金を引いたその一発目、ドンッという音とともに打ち抜かれたのは、狙っていた的のど真ん中だった。

「お? なんだ、やりゃあできんじゃねーか」

 びっくりしたわたしに当真先輩は大きな手でわたしの頭を撫でてから、構えて打つまでの時間は、的がより小さくなった場合は、と的確なアドバイスをしてくれた。それを聞いていると、ああこの人はNo.1で奈良坂先輩と同じ場所にいる人なんだ、と改めて思った。そんな人に褒められたのが純粋に嬉しかったし、奈良坂先輩に教えてもらったことをちゃんと力にできているということは、ほんの少し自信になった。

 だから、気づかなかった。練習場の入り口に自分と当真先輩以外の誰かがいたことと、そのひとが何も言わず、黙ってその場を後にしたことを。









「おい」
「あ、……奈良坂、先輩」

 ある日、防衛任務が終わってそのまま家に帰ろうとしたときだった。目の前に現れたのは奈良坂先輩で、まるでわたしがこの時間にここを通るのを知って待っていたかのようだった。いつもなら嬉しいはずなのに、わたしは心臓がじくじくと痛みながら縮こまるのを感じた。奈良坂先輩の表情が、纏う雰囲気が、いつもと違ったからだ。

「当真さんの方がいいなら、はじめからそう言えばいい」
「え……?」

 奈良坂先輩の言葉の意味がすぐには分からなかった。わたしの間抜けさを気体にしたみたいな空気が、同じく間抜けな声になって漏れた。すこしだけいつもより冷たい瞳、苛立ったような声。ああ感じた雰囲気は気のせいではなかったのだと、ようやくそう思ったころに言葉は続いた。

「お前に教えるのはやめる。おまえは今日から、俺の弟子でもなんでもない」

 ひゅっと喉が狭くなって、足が地面に縫い付けられたみたいに動かなくなった。何も言えない馬鹿なわたしを置いて、奈良坂先輩はくるりと背を向けた。冷たいような温かいようなものが頬っぺたを伝ったけれど、奥歯を痛いくらいに噛み締めて、どうにかして声は押し殺した。

 わたしが悪いのだ。だってそうじゃなきゃ、奈良坂先輩はあんなことを言うはずがない。




 練習をしなくちゃ。しばらく地面に凍りついていた爪先をなんとか動かして、本部へと歩を進めた。先輩も本部へと向かっていたからきっと今日は午後の防衛任務なんだろう。わたしという煩わしい存在を切るためだけにこの時間に此処へ来ていたんだと思うとなかなか涙は止まってくれなかったけれど、この時間帯は人が少ないから、きっとこの酷い顔で練習をしても大丈夫だ。

 そう思いながら練習場へ行くと、確かに人は少なかったけれど入隊時からお世話になっている荒船先輩がいて、しかもわたしを見てすこし目を丸くしたので、わたしは鏡を見ずに此処へ来たことを早速後悔した。

「……一日貸してやる」

 荒船先輩のトレードマークである帽子が、わたしの頭に被せられた。先輩はほかに何も言わなかっかけれど、そんなにひどい顔してますか、というわたしの言葉には「まあな」と短く即答されたから、きっと赤くなっているであろう目元を見て色々と思うところがあったんだろうと思う。

 それでもただ何も聞かず、頭を数回撫でて練習場を後にした荒船先輩は、きっとすごく優しい。ありがとうございますと言えば、背中を向けたまま片手をあげて応えてくれた。

 一番奥のブースで練習を始める。呼吸を一瞬止めて撃つ、その動作を繰り返していたら、なんとなく気分が落ち着いたような気がした。ひたすらに淡々と撃ち続けていたら一端の狙撃手にでもなったような気分になる。思い上がりだ。すこし奈良坂先輩の顔を思い浮かべただけで、弾丸はすぐに狙いから外れてしまう。

 コツ、と音がした。一瞬目線だけを入り口に寄越せばそこにいたのは防衛任務に出ているはずの奈良坂先輩で、わたしは驚きのあまり明後日の方向へ銃口が向いたまま引き金を引きかけたけれど、なんとか踏みとどまった。視界に入ったその瞬間に再びイーグレットを構えるフリをしたから、きっとばれていないはず。荒船さんが貸してくれた帽子を深く被りなおして、そう祈るよりほかになかった。

 それにしてもなんで、どうして、三輪隊は今はまだ防衛任務のはずでは。そんなことばかりが頭をめぐるわたしをよそに、先輩は反対側の端のブースに入った。わたしのブースと距離があることが、唯一の救いだった。

 こんなことなら、入り口に一番近いブースを使っていればよかった。そうすればきっと、こっそり出て行ってもばれやしないのに。自分の失敗を心の内で嘆いたけれど、それも一瞬だった。ドン、という音がいくつも続き、つながって、だけどそれらはすべての的のど真ん中を貫いていく。久しぶりに見るその美しい構えから、真剣な横顔から、目が離せない。

 先輩が集中している今のこの間に出ていかなければならないのに、目が離せない。それはその狙撃云々もあるけれど、近くて遠いこの距離があまりにも寂しかったからかもしれない。

「───……、なまえ……?」

 先輩がこっちをちらりと見た。そのときに慌てて顔をそらしたけれどうやら間に合わなかったらしい。その声で名前を呼ばれるのはあまりにも久しぶりで、わたしはどうにかなってしまうんじゃないかと思うくらい心臓が痛くなったし、せっかくマシになっていたかもしれない目元が、またふやけるのを感じて思わず出口へ向かって駆け出した。

「……っ、待て……!」

 奈良坂先輩が声を荒げたのを初めて聞いたかもしれない。喉の奥が熱くて鼻がつんとした。ぐにゃぐにゃになった視界の中で、わたしの腕は奈良坂先輩の手に捕まえられていた。逃げようと走り出していた足は簡単にその場に留まることになる。

 とてつもなく昔に感じるほど久しぶりな、グローブ越しの体温。換装体に体温なんかある訳がないけどわたしはいつもなんとなくそれを感じていた。少しずつ頭に酸素が巡って落ち着いてきて、そして冷静になってみると途端に申し訳ない気持ちになり、何に対してかは分からないけれど「ごめんなさい」と何度か呟いた。それでもこの手は離れない。

「さっきの」
「え、」
「あれだけ見られていると、さすがに気づく」
「ご、めんなさい……」
「……当真さんに弟子にしてもらったんじゃなかったのか」

 奈良坂先輩の声はとても優しかった。最後にわたしの頭に残っていたのは「おまえはもう弟子じゃない」というあの温度の無い声だけだったから、狙撃を教えてくれたときのものに近いそれはわたしの逃げようという気持ちを簡単にどこかへやってしまった。

 わたしの憧れは、奈良坂先輩だけです。気付いたら使い物にならないくらいにしゃくりあげた喉でそう言えば、奈良坂先輩は暫しの沈黙のあとわたしの帽子に触れたので、わたしはあわてて帽子を抑えた。首を数回振ると、奈良坂先輩はわたしの顎を掬い上げたので、視線はばっちり合ってしまった。ついでに、ひどくぐずぐずな目元ともご対面させられてしまう。

「……この帽子は、荒船さんのものだろう」
「そ、そう、ですけど、一日貸してやるって、言ってくださって、」
「俺が泣かせた所為とはいえ、他の男のものを身につけられるのは、さすがに妬ける」

 あっけなく帽子は取り払われ視界が広くなる。わたしはいつまでもみっともない顔をしていたくなかったけれど、顎に添えられていた奈良坂先輩のゆびがわたしの目元をなぞって、そのおかげで涙腺は余計に言うことをきかないので、もうどうしようもない。

 ついでに奈良坂先輩の言葉の意味は分からないし、どうしてこんなにも距離が近いのかも分からないしで散々だ。今のわたしに出来ることといえば、せいぜい無理やりにでも顔を俯かせて隠して、そして心臓の煩さに耐えることくらいだ。

「顔をあげろ」
「い、いや、です」
「何故だ」
「今、いつもより更にぶさいく、なので」
「………」

 目尻に触れていた手が、今度は頬に添えられた。そうしてわたしの前髪をかきあげて、おでこに音もなくくちびるがくっついた。何が起こったのか分からない。いやさっきから全然追いついていなかったけれど、あれだけ煩かった心臓が一瞬ぴたりと止まったんじゃないかと、そう思うくらいにはびっくりして。そして一拍置いてからありとあらゆる細胞がぶわりと熱くなった。

「おまえはかわいい」

 息をするのを忘れたままのわたしに奈良坂先輩がそんなことを言うので、わたしは慌てて再び抵抗を始めた。だって死んでしまう。心臓は痛いし息はしづらいし、顔は熱くて火が出そうだ。このままじゃ本当にどうにかなってしまうんじゃないかと本気で思う。それくらい、今のわたしは先輩の全てにぐるぐると乱されている。

「な、奈良坂先輩、離して、ください……!」
「断る」
「〜〜〜っ、し、心臓はやすぎて、このままじゃしにます……っ」
「人はそう簡単に死なない」

 わたしの言葉をちゃんと聞いていたはずの奈良坂先輩は冷静な言葉を返して、わたしの腰に回した腕を緩めることはなかったけれど、代わりに頬に触れていた手をそっと外した。気休め程度にましになった鼓動を置いてけぼりにしたまま、奈良坂先輩はどこか独り言のようにわたしに話した。

「……おまえはもう俺の弟子じゃないし、俺はお前の師匠じゃない」
「っ、分かって、ます」

 もう少しなんでもない声で返事ができればいいのに、わたしは取り繕うのがてんで下手くそだ。そして奈良坂先輩はというと何の脈絡もなく、だけど優しい声で「換装を解け」と言う。その声も何もかもがとてもずるいと思った。そんなことを先輩に言われて、わたしが断れるはずなんかないのに。

 キィン、というすっかり耳になじんだ高い音が耳鳴りのように体の周りを覆う。わたしが生身に戻ったのとほぼ同時くらいに奈良坂先輩も私服に戻っていて、さっきまで触れていたグローブはすらりと細く長いゆびになっていた。

「俺はおまえの師匠じゃなく、恋人になりたい」
「……は、」
「駄目か?」

 もうすこしゆっくりと、馬鹿なわたしにもわかるように喋ってほしい。そもそも、自分の鼓動がうるさくて聞こえないのだ。周りが静かなことも先輩がなにか言っていることもちゃんと分かるのに、聞き取りにくくて仕方がない。

 そして脳みそが考えるのを放棄したかのように思考が回転不足なので、わたしは奈良坂先輩に言われるがまま頷いた。だめじゃないです。わたしのそんな幼稚な響きは、練習場の空気に霧となって消えた。

「色々棚上げした上で言うが、当真さんにも荒船さんにも、教わるな。俺が全部教えてやる」
「……は、い」

 わたしがなんとか返事をすれば、奈良坂先輩は「それでいい」と呟いて、そして距離が近づいたかと思うと、くちびるにやわらかい感触があった。

 なにがなんだか分からず、わたしは目を開けたまま固まってしまう。それはそうだろう。奈良坂先輩の綺麗なお顔がこんなにも近くにあるというだけで肺も心臓も驚くほどに小さくなってしまった心地がするんだから、今はそれらはもう無くなってしまったかもしれない。

 胸がからっぽになってなんだか自分の吐く息が熱い気がして、だけど目の前の奈良坂先輩の表情はあまり変わりがない。なんだ夢かとすら思っていたら、先輩はにやりと笑って囁いた。

「W全部W教えてやる、と言ったからな」

 そんな意地悪な笑顔、わたしは知らない。どこかへ行ってしまっていた鼓動がまた暴れ始めたから、わたしはマグマが皮膚の下を流れているんじゃないかと思うくらいに熱くなった頬っぺたから早く手を離してほしいと、そう願うことしかできないでいる。

「……あの、ところで三輪隊はまだ、防衛任務では……」
「ああ……、狙撃の調子が悪かったので外された」
「え、奈良坂先輩が……!?」
「おまえの所為だ。……まあ、責任は取ってくれるんだろ」

 先輩はそう言って愛おしそうな目でわたしを見た。一生のうちに使える鼓動は決まっているというのに、わたしはこのまま此処で死んでしまうのではないだろうか。




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