公平。あいつがそう呼んだ声が聞こえると、すぐそばにいた出水は声のした方へ振り向き、なまえさん、と顔を綻ばせた。耳を塞いで立ち去ってしまえれば楽なのに、あいつは一通り出水と離したあと、近くに俺がいれば必ず声をかけてくるものだから、それもできない。

「蒼ちゃんもお疲れ」
「……風間と呼べと言ったはずだが」
「えー」

何度目かの遠征、何度目かのやり取り。それなりに慣れた遠征、すこしも慣れてくれないやり取り。順応性とかそういうものが昔から足りない性分だったが、幸い感情が表にでない性分でもあった。

だからだろう。回を重ねるごとに苦しくなっている気がする。中身だけが腐っていく林檎のようだと思った。馬鹿らしい恋を熟させたつもりになって、まだまだ内側で燻っている。もう無駄だと分かっていても、地面に堕ちるまでどうにもならない。滑稽にもほどがある。

「ていうかまた公平が資料貰ってんの?太刀川さんは?」
「太刀川さんはレポート地獄で足掻いてるんで、俺が風間さんに説明とかも聞いてて」
「なるほどねー」

目の前の出水という人間は、見た目や戦闘スタイルの割に真面目で、そして頭がいい。大雑把なところもあるが状況を弁えていて、話し合いでも要領を得るのが上手いと単純に思う。太刀川が(いつも通り)レポートに追われても、代わりに会議に出席し要項を隊に伝える程度のことは十分にできるくらいには。

「風間さん、ありがとうございました。隊長にも資料渡して説明しときますんで」
「ああ、よろしく頼む」

年上にも礼儀正しい。愛想もよく、実力も申し分ない。自分の説明を聞く中で資料にこまめにメモを書き足していた光景を思い出し、薄っすらとため息が漏れた。菊地原がいたら振り返られそうなそれも、目の前の二人は気づかない。

「てかなまえさん、昼飯食った?」
「食べてないよ、だから公平誘いに来たんだって」
「おっ、奢り?」
「そんな訳ないじゃん、勿論割り勘」
「えー」

比較的きちんと敬語を使う出水が唯一言葉を崩すのは、きっと自分の隊の人間の前と、なまえといる時くらいなものだろう。食堂と反対側にある司令室へと一歩踏み出したところで、「蒼ちゃん」と呼び止められて、また性懲りも無くため息が漏れる。

さっきよりすこしわざとらしかったかもしれないそれも、やはり誰の耳に入ることもなく消える。

「お昼食べた?一緒に食べようよ」
「この後は城戸司令に呼ばれている。それに、」
「ん?」
「俺はそこまで野暮じゃない。出水と食ってこい」

それから俺のことは“風間”と呼べ。何度目になるか分からないその言葉を最後に添え、今度こそ歩きだす。「じゃあ行ってきます。無理しちゃ駄目だよ、W蒼ちゃんW」。またこちらも何度目か解らない台詞を付き返され、心臓に鉛が落ちる。もう腐り切って食べられやしないのに、あいつは懲りずに水をやる。甘い水かそうでないのかすら、もうどうだっていいのに。

頼むからもう突き離して、忘れさせてはくれないだろうか。




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