「遅れてごめん。誕生日おめでと」


 今は誰もいない自分の家の玄関。来客のために開けたドアはそのままで、外気にはまだ蒸し暑さが残る。夕食には早く、夜というにはさらに早い、薄暗い夕方。突然訪ねてきた幼馴染のそいつが、中途半端な夕日を背に自分に放り投げた言葉をきちんと理解するのに、1分ほどかかった。戦闘での1分をそんな風にして過ごせば、出水には蜂の巣にされるだろうし、風間さんのスコーピオンなら二連撃では済まないだろうし、当真さんに狙撃なんかされれば、もはや何が起こったか分からないだろう。そう思うと、自分が日常と戦闘をどうやって区切っているかがなんとなく分かって安堵する。

 話が逸れた。なにせ、誕生日は一週間も前のことだ。確か誕生日当日もこいつとは普通に登校中に会って、普通におはようと言われた。しかし、何もなかった。しかも学校での移動授業のときにすれ違ったって、しかもそいつの耳にも入る大きさで「確か今日は三輪誕生日なんだよな? おめでとー」などと出水に言われたって、何もなかった。ついでにその時に思わずちらりとこいつの背中に目をやったが、やはり振り返ったりしない。家だって近い。連絡先も当然知っている。それでも、何もなかった。

 誕生日というのは、やたらめでたい日のようで、その実、自分から何かができる日ではない。性格によってはモノをねだるものなのかもしれないが、自分の性分では基本的にはただ、祝福を受け身で待つだけだ。おめでとうと言われたら、ありがとうと返す。ただそれが伝播することで、親しさのレベルを問わず、顔見知りの人間からは何かしらいつもとは違う特別な会話の切れ端を与えられたような感覚を味わう。そういう日だ。だから、顔見知りどころか毎日顔を合わせている『幼馴染』から、誕生日にその一言がなかったり、いつもは差し出してくる菓子のひとつがなかったり、連絡がこなかったりしたとしても、俺がたかだか『幼馴染』というだけの女に、何かを求められるわけじゃない。

 しかし、今。遅れたことを謝りながら、その言葉が鼓膜を触った。驚きを隠せず、しばらく言葉を忘れた。

「……ありがとう」

 どうして、今言うのか。どうして、当日には言わなかったのか。忘れていたのか。そして今、思い出したとでも言うのか。俺の誕生日に、俺以外の何か別なことで、頭をいっぱいにしていたのかもしれないと考えてしまえば、心臓がかたくなに冷えた。
 いつもと違うことが起こったせいで、この一週間、お前のことばかりを考えさせられていたことへの責任は、どう取ってくれるというのだろう。

「……ずいぶん、急だな」
「うん。今年は、勝負しようと思って」
「勝負?」
「うん」

 やたら清々しい顔で笑う目の前の幼馴染に対し、まったく疑問も焦燥も何もかもが晴れない自分は、つくづく対照的だ。そんなことはお構い無しとでも言うように紙袋が差し出され、普通ならばすぐに手を伸ばすのが正しい選択だろうと思うのに、何故か重力に従って下がったままの腕は、幼馴染の言葉を待たなければいけない気がしていた。

「秀次が好き」

 その言葉を理解するのに、今度は何分何秒かかったのか分からなかった。戦闘でこんなことをすれば、太刀川さんの旋空で胴が離れるだろうし、加古さんの弾にまみれているだろうし、忌々しい迅にすらなぎ倒され見下ろされるだろう。最後のなんか特に、考えただけでいらつくが、しかし時間という同じはずの概念が、目の前の何の戦闘能力も持たない幼馴染によって歪んでいることは確かだった。

「秀次の誕生日に、秀次に告白するって言ってた子が、クラスに居たから」

 少し寂しそうに、それでいて笑顔は保たれたまま、彼女はそう続けた。誰のことを指しているかまでは分からないが、そう言えば当日、一人の女子に呼び出され、おめでとうと言われ、好きだと言われた。そのときに脳裏に滲んだのは、いくつかの言葉をくれたその女子ではなく、何も言わなかった幼馴染のこの女だったのだから、さすがの俺も申し訳ない気持ちというものを感じたほどだ。その女子の顔と名前は忘れたが、そのときの罪悪感だけは一応覚えている。

「いつも朝一番にお祝いしてたわたしが、誕生日なのに何も言わなかったら、秀次がわたしのことだけ考えてくれないかなって思った」

 サイドエフェクトでもあるのではと思うほど、彼女の言葉は心臓にひたりと触れた。悪いか。その通りだ。
 どうしてこんなにも考えてしまうのかが分からずに混乱こそしたけれど、もしもそれが彼女のささやかな思惑だったというなら。ストン、と言葉が喉の淵から心臓の真下まで落ちる感覚とともに、息を吐く。

 正体不明の現象に、ようやく名前がついた。乗ってやらないこともない。

「これ、ケーキなんだけど。わたしのこと、そういう風に見れなかったら、捨ててもいいから」
「わかった」
「じゃあね、」
「そういう風に見れた場合はどうする」
「え?」

 背を向けかけた彼女の腕を掴む。思いの外細く、それでいて柔らかいことに、少し驚く。この幼馴染は間違いなく女になっているのだし、そうすれば自分も男と思われていることも分かる気がした。俺が告白されるのを嫌がる類の発言もあったけれど、逆なら確かに、俺も嫌だと感じていたかもしれない。もしも相手が迅や太刀川さんのようなあまりにも好きになれない部類の人間なら、斬り伏せたいと思ってしまう可能性だってある。
 ただ、そんなことを思うだけでは、こいつを手に入れることはおろか、誰かのものになることも防げない。

「秀次、どういう意味で、言ってんの……?」
「そのままだろ」
「……分かんない」
「……………」
「言ってよ」

 陽介なんかが言いそうな表現を借りれば、ぐっときた。そんならしくない形容をしたくなる感覚を、人生で初めて味わった。活字にしてしまえばいっそ命令形のように聞こえるのに、どこか放っておけない、懇願のような言葉。

「……分かった」

 ケーキが入っているらしい紙袋は足元へ置いた。華奢な肩に手を置いて、顎を上向けて、顔を寄せて、そのすべてがスローモーションに感じるのに、今度は一秒も数えない。唇が合わさって、驚いて一瞬引いた細い腰を抱き寄せた。一度その柔らかさに触れてしまえば、夢中になって貪った。角度を変えて何度か味わう内に、ここが自分の部屋でなくてよかったと思った。唇を舌でなぞったときの彼女の声なんかは、閉ざされた空間で聴いてはならないもののように思う。

「……言ってって、言っただけなんだけど」
「伝える手段が違っただけだ。どっちにしてももう必要ないだろ」

 赤い目元、赤い耳。それが自分の所為なのかと思えば、心臓が急いた。自分の中にも、同じように熱く赤い部分がどこかにあるのかと思うと、それだけで神経が振れた。何かが崩れ落ちる音と、何かが始まる音を同時に聞いた。死刑宣告と産声が重なったらしい。幼馴染の終わりと、恋人の始まりということなのだろうか。悪くはないので、まずは、親が帰ってこないうちに、こいつを家に上げて、ケーキを食べたいと思う。奈良坂ほど甘いものは得意じゃないが、こいつがいればきっと美味い。




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