あいつが出て行った後の部屋は、何もなくて呼吸がしやすい。追いかけなければと思う反面、このまま手放してしまえばあいつはそのまま幸せになれるのではないかと考える自分もいる。いつから、こんなに面倒臭い人間になったのだろうか。丁度、それこそあいつと出会ったときあたりかもしれない。

遠征は、その行き先によって、期間は様々だ。早ければ3日ほどで戻ってくるが、長ければ1週間以上向こうの世界にいる場合もある。そして、こちらの世界での戦闘とは違い、少なくとも身の危険は確実に伴う。

だから、ボーダーに入って遠征部隊を目指してきた時からずっと、大切なものや執着するものを、必要以上に持たないことに決めた。いつか失ったときのためにということもあるが、それが無くては生きていけないような存在を作ってしまえば、長いような短いようなその遠征で、要らぬ苦痛や我慢を強いられることになる。それが嫌だったし、少し怖かった。

そんな風に格好をつけたことを思っていたのに、あいつを好きになってしまってからは散々だ。表情ひとつが気にかかるし、遠征の日程を伝えれば震えるそのまつげがやたらといじらしく、脳裏にこびりつく。今回は長くなりそうだと言葉を添えれば、心配そうに自分を見上げるその瞳に、いつかの自分が重なるようだった。

「風間さんのばか……っ」

あいつが俺に放った一言が鼓膜で何度か響いた。それは、明け方近くにこちらに無事に帰ってきたときに起こった。俺の部屋で待っていたらしいそいつの安堵の笑顔を見て、そしてその口から零れた「おかえりなさい」を聞いた瞬間、抑えられなくなったのだ。

何も言わずに身体を求めた俺に、驚き半分、怯え半分だったのだろう。か細い腕で精一杯俺を突き飛ばして、酷いことを強いた俺にかける罵倒にしては随分ぬるい言葉を吐いて、ばたばたと慌ただしく部屋を出て行った。そこでようやく頭が冷えるとは、我ながら確かに「馬鹿」そのものだ。




そのまま急いで出て行ったあいつはこの時期にしては薄着だったから、早く追いかけて上着を着せてやって、「ただいま」を言ってから、謝らなければ。そう思うのに動かない体は、思いの外、あいつに拒否されたことが堪えているのかもしれない。恋人であろうとなんだろうと、結局は他人だ。特に表情の変化が乏しい自分などは、言葉にしなければ伝わらないことが殆どの筈で、だからこそそれを疎かにする自分は、とても情けない。

しばらくそうして、馬鹿なことばかりで思考を埋め尽くしていると、スマートフォンが震える。ホットカーペットに放り出していたそれはすこし熱くなっていて、それなりに温かい部屋にいるというのに自分の手が冷え切っていることが、なんとなく可笑しかった。

液晶に指を滑らせれば、珍しく迅からの連絡だった。

『かわいい女の子を保護したよ?』

普段の喋り口調をそのままにしたような軽い文面に、思わず立ち上がって机に足をぶつけるほど動揺している自分が嫌になる。しかし悪いのは自分で、むしろあいつを見つけたのが迅で良かったと思うべきかもしれない。けれども、あいつの瞳をもってすれば視えるものはああなのだから、もしかしたら自分が居ない間に自分の彼女とそれとなく会って、話して、そのときにこの未来を視ていたのかもしれない。むしゃくしゃした。

言われた公園へ行ってみれば、すこし泣いたらしい赤い目元がこちらを向いた。ひとりきりのその肩には迅のものらしいジャケットがかけられており、それだけで、皮肉を言われているような気分になった。

「悪かった」
「かざま、さん」
「だいぶ頭が冷えたが、さっきは、……顔を、見た瞬間、おまえが欲しくてたまらなかった」
「……っ……」
「怖がらせたな」

迅のジャケットは見ないフリをして、「おまえの家まで送る」と言ってその手を引けば、頬も耳も赤くして俯いたそいつは、言葉を添えて、小さく息を吐きだした。「風間さんの、家がいいです」。───目の前の男に、俺に、さっき間違いなく襲われかけたのに、何を馬鹿なことを言っているのだろうか。ふと視線が絡まって、冷たく肌を掠める空気をより感じる。

「びっくりした、だけで、……いやだったわけじゃ、ないです、から」

窒素や酸素に紛れて溶けてしまいそうなか細い声は、そっと俺の心臓を撫で上げた。敵わない。横顔にかかる髪を耳にかけてやれば、赤いそれはやけに美味そうに見える。この寒空の下の、この半径1メートル。ここでこの空気をゆっくりと吸い込んで吐き出しているのは、おれとこいつの、馬鹿なふたりだけだ。




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