「なまえ、トリオン というものを知っているか」
「……食べ物?」
「………」

蒼也はとてもわかりやすくW馬鹿かWという顔をして見せた。知りません、と続けて言えば、俺の聞き方も悪かった、と今更のフォローを入れられた。も、というのはそれはやはりほぼわたしの無知が悪いのか。そんな一般常識には到底思えない単語なんだけど。まあ、ドリアン感を感じるなとは考えたけど。

「トリオン器官というのは、心臓の隣に誰しも必ず持っているものだ。ボーダーの武器であるトリガーは、そのエネルギーを消費して各々の力を発揮する」
「はあ……」
「そして近界民は、その器官、つまりトリオン能力が高い人間を狙う。おまえは近界民が表れた際によく狙われるとおまえの友人が言っていた。一度きちんと計測し、場合によっては保護を求めた方がいい」

彼にしては珍しく悠長に喋っているというのは分かったけど、内容はといえばさっぱりだ。完全に一般人な自分が、そのトリオン能力とやらが高いとでも言うのだろうか。関係ないんだろうけどわたしは学力も運動神経も平凡だ。ありえない。

「だからとりあえず今日、授業が終わったら行くぞ」
「……え、どこに?」
「ボーダー本部に決まっているだろう」

いや決まってないだろう。心の中で蒼也の言い回しを真似て反論してみるけどもう遅い。授業が終わるとすぐにわたしを迎えに来たこの小柄な男に逃げられないようがっちりと腕を掴まれ、それなりのスピードで歩くその隣に並ばざるをえなくなった。すぐにスピードを緩めてくれて手の力も緩んだけれど。

まあ、あれだ。さっきの小難しい話は、授業中にそこそこ整理して理解できた。ひっくるめると、このひとはわたしを心配してくれているんだろう。蒼也はツンデレだなあと我ながらニヤニヤとしまりのない笑顔で零せば、なんだそれはと真顔で首を傾げられた。話すと長くなるからまた今度教えてあげるねとはぐらかしておいた。






地下通路への入り口らしきところに到着すると、蒼也はトリガーを入り口のセンサーに翳した。トリガーというモノ自体は見せてもらったことがあるので知っている。けれど、どんなすごい力があるとか、そういうことは聞いたことはない。蒼也はあまりわたしにそういうことを教えたくないんだろうと思っていたし、実際今もそうなのかもしれない。

地下通路を歩いた先で、大きな扉の前に着いた。今度なセンサーではなく普通の自動ドアらしく、軽快ななんとも言えない音とともに開く。中には人が疎らにいて、ボーダーの制服のようなものなのか同じような服だったり、はたまた私服だったりと様々だ。

ラウンジみたいなところなのかなと控えめに観察していると、蒼也が誰かに話しかけている。そしてその話しかけられた内のひとり、長めの髪の男の子と、ぱっちりと目が合ってしまった。わたしをじっと見つめるその瞳は清々しいほどにW訝しげWであるという類い雰囲気を語っていた。

「菊地原、歌川。すまないが、すこしの間こいつを頼む」
「えー」
「あっ、はい」
「……え?」

わたしの目の前で、まったく真逆の反応をする二人の少年にそう言い捨てるこの男はびっくりするほどいつも通りで、わたしはなんだか混乱してしまった。一般人がこんなところにいるというだけでもそれはもう場違いであるはずなのに、その上この扱い。気のせいじゃなければさっきからチラチラジロジロ見られてるんだってことには、気付いて気にかけてはくれないのだろうか。

「俺はエンジニアに話をつけてくる。なまえ、うろうろするなよ」
「いやしないけど、え、このなんか明らかに浮いてる空間に普通置いてく?」
「一人になるのはやめておけ、面倒なヤツに捕まると厄介だ」
「いやそういうことじゃない、話聞いてください」

すぐに戻ってくるからとわたしを言いくるめ、さっさとどこかへ言ってしまう。あいつ馬鹿なのかな。久々に思った。こんな見知らぬ人しかいないところに仮にも彼女である人間を放っておくなんて。きくちはら、うたがわ、と言われたふたりのうち背の高い方の子は、「あ、どうぞ座ってください」と慌ててわたしの席を空けてくれ、そして少し気まずそうにちらちらとわたしを見ていた。分かるよ少年。わたしも今、きみに負けず劣らず気まずいから。

「ねえ。あんた、風間さんの彼女なの?」

かわいらしい顔をしながらにそこそこ鋭い目つきでわたしを見ていた髪の長い少年は、ジュースをストローで啜りながらわたしに問いかける。「あ、はい一応」と返事をすると、名前は? という更なる追求。でもその言葉が幾分柔らかい口調になったものだから、あれこの子案外かわいいかもしれないなと心が温かくなった。

「みょうじなまえと言います……。えーと、あの、きみたちは……?」
「あっ、すいません、風間さんの部下の歌川です」
「……菊地原でーす」
「なるほど、……え、部下?」

後輩じゃなくて?と首を傾げたところで、菊地原くんと歌川くんを呼ぶ女の子の声が聞こえた。彼らにつられて振り返ると、黒髪ボブのかわいらしい子がすぐ傍まで歩いて来ていた。うわあ可愛い。ボーダーの女の子は可愛い子がたくさんいるなあ。テレビにたまに出てるキトラちゃんって子やアヤツジちゃんって子も可愛いし。

「あれ、この方は……?」
「風間さんの彼女だってー」
「あ、えーと、はじめまして」
「……えっ、風間さんの彼女さん……!?」

シン、と一瞬このラウンジ的な空間が静まり返ったのをわたしが見逃すはずもない。すぐにざわつきこそ取り戻したものの、「風間さんの彼女……?」「風間さんって彼女いたのか……」と明らかにさっきまでと違う意味での騒がしさだ。蒼也、きみはもしかして割と有名人なの? あの身長だから目立つとかそういうこと?

ぐるぐると色んなことを一度に考えているせいかなんだか頭が痛くなってきた。すみません大声で、と申し訳なさそうにわたしに頭を下げる女の子はやっぱりかわいい。蒼也はいつもこんなかわいい女の子と一緒にいるんだなぁとすこしだけ思った。すこしだけね。

「全然気にしないでね。あいつが早く戻ってこないのが悪いし」
「いえ、本当にすみません……隊長は以前頼み込んでも写真のひとつも見せてくれなかったものですから、ちょっとびっくりしてしまって……」
「……たいちょう……」

たいちょうってあの隊長だろうか。誰が。蒼也が? そんな役職についてる人間だとはまるで知らなかった。会議がどうの、任務の日程がどうの、というややこしそうな話を電話で話していたりしている場面に遭遇したことはある。あるけど、もしかして結構地位が上の方だったりするのだろうか。なんだか気になってきた。でもきっと、蒼也本人に聞いてもはぐらかされるだろう。菊地原くんとなにやら喋っている女の子をちらりと見て、あの、と口を開いた。

「あいつ、えーと、風間は隊長……なの? 割と偉い地位の人間なのかな?」
「………」
「………」
「うわあ、彼女なのにそんなことも知らないの」
「こら、菊地原……!」


菊地原くんが苦い顔で吐き捨てた言葉を歌川くんが咎める。余計なお世話だろうけどこの歌川くんの方は何かと苦労してそうだな。女の子はというとその歌川くん顔を見合わせて、「風間さんはもしかしてなにも言ってないのかも」なんてことを話している。お察しの通り、わたしは彼がボーダーに所属しているということくらいしか知りません。

「えーっと、そうです、風間さんはわたしたちの隊の隊長です。ちなみにわたしたち風間隊はA級っていう一番上の階級の3位、つまりボーダー本部で上から3番目の部隊で、風間さんは更に戦闘における個人のアタッカーという区分のランキングでも2位というポジションです」
「……それは、えーと、だいぶ凄いやつですか?」
「だいぶ凄いやつです」

にこにこと説明をしてくれた女の子はどこか誇らしげだ。3番目に強い部隊、っていうのはつまり、たぶんあのテレビでよく見る嵐山隊とかと同じくらいだということだろうか。なるほど、それはすごい。「みんなは若いのにすごいね」と言うと、ボーダーにはこのくらいの年齢がゴロゴロいるのだという。何歳なのと聞いてみた。16歳だという返事が帰ってきた。驚きである。ぶっちゃけ今の話を聞いて、すごい実力者たちなんだということはわかったから、だいたい18歳そこらくらいなのかなと思っていた。甘かった。

「あいつ16歳の子とちゃんと話せてるんだね」
「そんなに話してないですよー。別にずっとだんまりってわけじゃないけどー」
「おい、菊地原……」
「あはは。あいつなんかとっつきにくいもんね。見た目ちっちゃいから遠目に見るとかわいい方だと思うけどさ」

わたしがそう言ったとたん、女の子がけらけらと笑い出した。歌川くんと菊地原くんはちょっとびっくりしている。「飲みに行ってもだいたい年齢確認されるよ」と更に言ってみると女の子はより笑い、困惑していた男の子ふたりもすこし笑顔を見せてくれた(歌川くんはすこし困ったような笑顔だった)。

すると菊地原くんがわたしの後ろへ目線を合わせて、おかえりなさぁいとゆったりとした口調で声をかけた。後ろを向くと蒼也が戻ってきていて、わたしたちのいるテーブルの近くに来るなり、首を傾げた。

「……なんだ、この短時間で打ち解けたのか?」
「まあね。蒼也と違ってとっつきにくくないですし?」
「……、三上の笑いが止まらないらしいのはお前が何か余計なことを言ったのが原因か?」
「えっ、あっ、いえすみません……なんでも……ふふ……っ」

本当になかなか止まらない笑いの理由はたぶんわたしの言ったどれかだろうと思ったが、まあとにかく可愛いので別にいい。何気に名前を聞いていなかったけどどうやら三上ちゃんというらしい。菊地原くん、歌川くん、三上ちゃん。覚えておこう。

まあいい行くぞと声をかけられ、色々と教えてくれた三人にお礼を言う。さっきより人がまばらになっているとはいえ、こちらをちらちらと見る目は変わらない。この子たちがいなければ一層いたたまれない気持ちで待ち時間を過ごしていただろう。本当に助かった。

そういえばカバンの中にお菓子が入っていたような気がしたので適当にまさぐると、某たけのこ型のチョコ菓子が出てきたので、テーブルに置いて再度お礼を言った。みんなで食べてねと言うと一斉にお礼を言われた。この中で一番気難しそうな菊地原くんがちょっと嬉しそうな顔をしたのが印象的だった。ボーダーの階級の上の方にいたって、やっぱり16歳なんだなあ。「またね」と手を振れば、それぞれ振り返してくれた。年下ってなんてかわいいんだろうか。






トリオン能力の測定とやらのために廊下を歩く。蒼也の横顔はどこかいつもと違うけれど、わたしに何か言ってくる気配はない。不機嫌というより、どこか拗ねている感じだろうか。

「蒼也の部下の子たち、かわいいね」
「……まあな」
「16歳かあ、若いなあ。高校一年生?すごいね」
「………」
「歌川くんと三上ちゃんは真っ直ぐな感じするけど、菊地原くんはなかなか変わってるね。あーでもツンデレっぽいところは蒼也と似てるのかも」
「……なまえ」
「ん?」

蒼也は足を止めた。わたしも歩くのをやめる。白ばかり続く廊下は広くも狭くもないけれど、ただただ長い。後にも先にも人の気配は無く、さっきまでいたあのラウンジらしき場所とは比べものにならないほど静かだ。

「妬けるな」
「………、え、なにが?」
「俺の部下と、ずいぶん仲が良くなったんだなと思っただけだ」

蒼也はとても自然な動作でわたしの手を攫った。ここに連れてくるときはただ掴んでいただけの手が、今度は指を絡ませぴたりとくっつけられた。これは蒼也にしてはレアな、恋人つなぎというやつだ。

わたしも彼も、関係を見せびらかせたいタイプじゃない。だから手を繋ぐなんてことはほとんどしてこなかった。まあ確かに今も他に人はいないけれど、仮にも此処はいわば蒼也の所属する会社の中であるというのに、これはどういう心境の変化だろうか。

「蒼也の話をしてたんだよ」と言うと、そうか、とそっけない言葉だけが寄越されたけれど、それはカドがとれたような丸い声だったから、きっとご機嫌を治すのには効果のある一言だったのだろう。案外分かりやすい面を持っている。

ああそういえば、これだけは聞いておかなければ。

「蒼也、隊長なんだよね。わたし全然知らなかったよ」
「言っていないからな」
「……なんで言ってくれなかったの? それくらい、別に教えてくれてもよかったんじゃないの」

蒼也はちらりとわたしを見る。そのくりくりと大きな紅い色の瞳は真っ直ぐにわたしを映していて、ああそういえば何年か前まではこの何もかもを解かれるようなこの目と視線を交えることがすこしだけ苦手だったなあと思った。そのまますこしだけ時間が流れて、それから蒼也はゆっくりと口を開いた。

「お前は付き合った当初から俺の事情は何も知らなかったが、それでも、俺に好きだと言っただろう」
「……ボーダーってことくらいは知ってたけど」
「それはそうだな。だがボーダーの隊員をかなり特別扱いする人間は多い。その中で昔からおまえはそうではなかったから一緒にいると落ち着いた。任務の後や遠征の後、詳しいことは何も知らなくとも俺を待っているおまえの部屋に行くのが、それなりに楽しみだ」
「……なんか話逸れてない?」
「何も知らなくていいから、ただ俺の側にいろという話だ」

第一研究室、と書かれた部屋についてからも、ゆるゆると口角が緩みそうになるのを堪えられない。そのくせ頬っぺたも首も耳も熱くて、きっと全然関係ないんだろうけど、測定とやらは今で大丈夫なのかなと、すこしばかり心配になった。すぐ横で何やら説明を受けている蒼也の、その横顔ばかり見つめていた。




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