秀次、なんていう呼び方を、簡単にはできなくなった。四年前のあの雨の日は、わたしから、秀次から、色んな物を奪っていって、いろんなものを遺していった。それはいつだって何回だって夢に出てきたし、そんな夜には段々慣れて、だけどそのたびにわたしを弱くした。


高校で出会った米屋陽介という男の子は、良いやつだった。成績はお世辞にもよろしくなかったけど、友達思いで優しいし、一緒にいて楽しかった。出会って一週間くらい経ったときに、「俺のことは陽介でいーよ」と言われた。

わたしは男の子の名前を呼ぶのが、昔に三輪のことを「秀次」と呼んだ以来のことだったから、すこし戸惑った。悩んだ末に、やっぱり「米屋」と呼ぶことにした。それに対して、米屋は大して気に留めなかったみたいだった。まあまたそのうちな、と言って笑った。






この日は、一日雨だった。お天気お姉さんが言っていた。一日中雨が降り続きます、本日は傘を持ってお出かけください。わたしのオレンジを基調とした明るい色合いの傘は水を確かに弾いているはずなのに、やけに重たく感じてしまって気分がより沈む。

わたしは、母と弟が死んだ場所に来ていた。別に理由なんかなかった。しいて言うなら今日が、今は亡き母と、わたしを男手一つで育ててくれている父の結婚記念日で、明日が今はいない弟の誕生日だったからかもしれない。ここは警戒区域だ。正しくは、数年前のあの日から、そう呼ばれるようになった場所。

水溜りをぼんやりと見ていた。すると、鼓膜をびりびりと割って裂くような、大きな大きな警報があった。お天気お姉さんの声なんかとは比べ物にならない抑揚のない声が、淡々と言う。警戒区域にてゲートが発生しました、近隣の皆様はご注意ください。わたしの今いる場所はと、そう思う前に、バチバチと黒い穴が空にひとつ。

ネイバー。そのわたしの間抜けな声は雨に消えた。一見するとこの世のものとは思えない巨大な怪物が、わたしに向かって大口を開ける。迫るそれに、わたしは傘をさしたまま動けない。

ふと、なんとなく三輪のことを思い出して、慌てて思考を遮った。違う。三輪じゃない。そう言い聞かせて、振り払うようにしてクラスメイトの米屋陽介の顔を必死に思い浮かべた。そしてスローモーションにも見える怪物の歯やノドが近付くのを見て、そっと目を閉じた。

アキちゃんとクレープを食べに行く約束をしてたのに、できなかったな。昨日、お父さんにもっと手の込んだ晩御飯を作ればよかった。陽介でいい、って米屋が言ってくれたあの日、そう呼んでみればよかったかもしれない。

ああでも、どうせ最期に呼ぶなら、やっぱり。

「……秀次、」

自分が呟いた声は確かに耳の中で、そして脳で響いた。けれど、痛みが来ない。何の衝撃も、いやそれどころか、ほんのりと温かい気さえする。背中や肩を包まれて、ただ代わりに、傘で遮っていた雨はわたしをぬらしているようだったけれど。

「馬鹿が、死にたいのか……!」

瞼を持ち上げた。視界に映ったのは、三輪だった。わたしを射抜く瞳の強さは、あのころと変わってしまったことのひとつだ。だけど、わたしを叱りわたしに怒っているはずのその表情は少し泣きそうにも見えて、それはあの頃のままな気がして、我ながらなんてポジティブな頭なんだと思った。

「秀次、まあ落ち着けって。こいつ俺らだけでやれっから、みょうじについててやれよ」

割に聞き慣れた気がする声が聞こえてふと目線だけ動かすと、いつもと同じ髪型をした米屋がいた。それからはほんの一瞬だった。三輪がわたしを抱きかかえたまま、すこしネイバーと距離を取って、そして次の瞬間には、口のような目のようなところをどこかから飛んできた光が貫いて、米屋の持つ槍みたいなものがその巨体を斬っていた。






「あそこは警戒区域だと知っているだろう」
「……うん、ごめん」
「……何故逃げなかった。俺たち到着があと数秒遅ければ、おまえは死んでいたかもしれない」
「うん。ごめんね」

わたしの返事に、わずかに深まる眉間の皺。どうやら、彼のお気に召さなかったようだ。ボーダーの服に身を包んだ三輪はいつもと違って見えて、わたしの理解は届かない気がした。だから三輪も、わたしの理解に届かなくても不思議じゃない。なんて、そんなことを言えばまた怒らせてしまいそうで、言えやしないけれど。

「おまえまで、いなくなるのか」
「……え……?」
「…………雨の日は嫌いだ」

脈絡がないとも取れる言葉をつなげたその声は、雨のカーテンでわたしだけに聞こえて消えた。そうして、三輪はわたしを抱きしめた。今の彼は、生身の、ふつうの身体ではないのに、触れられているところから、雨で冷えたところもじんわりと温かくなっていくみたいに感じる。


表情は見えない。どんな顔でそんなことを言ったのか、頭のよくないわたしには分からない。だけどなんとなく三輪が寂しがっているように見えて、すこしだけ腕を伸ばして、身体を包み込んだ。

「そばにいろ」
「………」
「俺がおまえを守ってやる」
「……み、わ」
「違う」

『三輪』じゃない。さっき呼んでいた方で呼べ。

独り言のようなあれを聞かれているとは思わなくて、わたしはしばし考えてしまった。きっとそれが気に入らなかったんだろう、三輪はすこし腕の力を緩めると、わたしの顔を覗き込んだ。

陰で「格好いい」とひそかにささやかれているらしい三輪のきれいな顔が、すぐ目の前にある。わたしはその距離にすこし驚いて、眉をひそめたままのその表情に、「秀次」と呟いていた。

「秀次ー。ラブラブなとこ悪いんだけど、次の敵でちまったからもうそろそろ行かなきゃだぞー」
「うるさい、そんなことしていない」
「はいはい。……あ、みょうじ、大丈夫か?怖かったろ」

米屋がわたしの頭を撫でた。その手と反対の手には、わたしがいつの間にかどこかへ放ってしまっていた傘があって、わたしと雨とを遮ってくれていた。

大丈夫、ありがとう。そう伝えたいのに、さっきの恐怖がすこし残っていたのか、思ったより声にならなかったそれが、雨の音に負ける。その瞬間に、わたしの濡れた髪を梳いていたその手がぺちりと払いのけられた。わたしは、ぽかんとそれを見ていた。

「秀次クン、いきなり独占欲強すぎじゃねえ?」
「知らん。無駄に触るな」
「あ、みょうじ、俺のこともいつでも『陽介』って呼んでいいからなー」
「……なまえ、耳を貸すな」
「はは、ひっでー」

軽快なやり取りの中で彼の口から自然と自分のW名前Wがでてきたので、わたしは訳がわからなくなってしまう。いや、昔は呼ばれてたけど、最近はそもそも会話をする機会すらなくて。どんな距離でどんなことを話していたか、それすら思い出せないくらいなのに、この人はいたってフツウだ。

わたしがなんとなく感じていたわたしたちの間にあったものは、軽く踏み越えられる程度の溝だったのだろうか。雨の日に活躍する、道路脇の溝みたいな、そういったものだったのだろうか。

三輪は左耳に手を添えて「古寺」と呟いた。続いた言葉はすこしわかりにくかった。『俺が抜けると連携のバランスが保ちづらい、悪いがこいつを家まで送ってやってくれ』。わたしが傘をさしてただ突っ立っていると、すぐストンと男の子が降りてきた。マントのようなもの以外は、三輪と同じ服。

「すまない、こいつを頼む」
「はい、了解しました」
「なまえ。……これを貸してやる」

キィン、という高い耳鳴りのような音とともに、飛んでいた意識をふと戻すと、三輪は学ランに身を包んだ姿になっていた。ああ、いつもの、わたしの幼馴染の、三輪秀次だ。当たり前のことを考えていると、三輪がいつも身につけている白いマフラーのようなそれが、わたしの首にぐるりと巻きつけられた。

「え、でも、」
「既にずぶ濡れなおまえにはあまり意味はないと思うがな。フラフラ寄り道をしないで、真っ直ぐ帰れ。風邪をひくなよ」

つめたい身体にはマフラーは確かにあたたかく、わたしも三輪も、確かに生きているのだと教えてくれた。コデラくんと呼ばれていた男の子が、では行きましょう、とりあえず警戒区域から出なくちゃ、とわたしを導く。

心臓もじわじわと暖かい。不思議だ。雨の日は嫌い。だけど、今日はあの夢を見ずにぐっすり眠れそうだと思った。ほどなくして、ザアザアと音を立てて傘に降りかかる雨は、いつの間にか止んでいた。




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