真っ暗だ。なんにもない。自分の手のひらすらもぼやけて見える真っ黒い闇にぽつんとたっている夢をよく見るようになったのはいつだっけ。そして、そんな何も面白くない夢のなかで、わたしを拾ってくれたあの人のことを思い出すようになったのは、いつのことだっけ。

夢の中にいるのにW思い出すWなんていうのは、すこしおかしいのかもしれない。後から考えればどう足掻いても夢でしかないものだって、見ている最中はそう感じない。少なくともわたしはそういう種類の人間だった。孤独で、誰もいなくて、それはいつだって、その顔に大きな傷を負った、常に厳しい表情でボーダーを取りまとめるその人に、捨てられる夢。

わたしが今ボーダーにいるのは、城戸司令のおかげ。18年間の人生の中で、一体何年お世話になっているかは自分でも覚えていないけれども、とにかく命の恩人であり、自分の命より大事なものであり、あの人のためなら死だって怖くないと本気で思っている。そして、あの人にとって要らない存在になったらわたしは生きていけないんだ、とも。だから、もっと。もっと強くなって、もっと任務をこなして、もっとたくさんの近界民を排除しなければ。





おでこにひやりとした何かが触れる。冷たくて気持ちいい。まだ今よりずいぶん幼かったころに、あのひとがやってくれていた。まだ夢の中なのだろうか。目を開けたら覚めてしまうのだろうか。そもそも、いつ眠ったんだろう?記憶を引っ張り出すにはそのおでこの感触はやさしくて、名残惜しくも瞼を持ち上げる。その瞬間に離れた手は、わたしの思い描いていたひとのものではなかった。

「起きたか」

雰囲気と抑揚の少ない言葉の音はすこしあの人に似ていて、でも姿かたちはお世辞にも重ならない。A級3位部隊隊長、あの人が最も信頼を寄せる部下のひとり。私服姿ということは、今日の任務は終わられたんだろう。
風間さん、と思わず零れた自分の小さな声は、震えてはいなかっただろうか。紅い瞳と視線が交わる。呼吸が浅くなる。この風間蒼也というひとは、わたしの自意識過剰であればそれまでだけれどももしそうでなければ、やけに自分を見て、そしてやたらと気にかけてくださっているような気がするのだ。

その瞳が、自分をまっすぐに写す瞳が、苦手で仕方なかった。なにか失態をすればあの人に伝わるのではないかと、そうすればあの人はわたしを必要としてくれないんじゃないかと、そう思うだけでその自分と変わらないほどに小柄なからだが時々おそろしくさえ思えた。まさに、今みたいに。

「おまえはもう少し、自分を大切にしたらどうだ」

風間さんが話す。その表情は変わらない。風間さんの言葉の意味を咀嚼して飲み込むのがとても大変な作業に思える。ようやく理解したころには、続く言葉が投げかけられていた。

「任務中、トリオンが足りなくなり強制的に換装が解けるまで、ベイルアウトせず前線に残ったらしいな」

ああそうか、だからわたしはこんなところで悠長に寝転がってしまっているのか。分かってしまうと途端に目が冴えて、腕とお腹に力を入れて起き上がろうとするそれを、すぐ側で椅子に腰掛けたままの風間さんの腕が制した。肩に添えられたその手は、なんとなくあの人に似ているかもしれない。

「まだ寝ていろ」
「いえ、大丈夫です、」
「城戸司令に寝かせておけと言われている」

城戸司令、という言葉が風間さんの喉からわたしの鼓膜へ届いたときには、反射的に身体の力を抜いていた。すみませんと零して再び枕に頭を預けたとき、一瞬だけ風間さんの眉間に皺が寄ったような気がしたのは気のせいだろうか。何故ベイルアウトしなかった、と思いのほか柔らかく声をかけられたことで、それは頭から離れてしまって、真偽は分からない。

「わたしは城戸司令のものであってひとつの駒ですから、ボーダーの戦力としての自分を容易く投げ出すつもりはないんですが」
「………」
「時々、自分の命なんかどうでもよくなることがあります。それがたまたま、任務中に頭をよぎってしまいました」

 ご迷惑をおかけしてすみません。以後気をつけます。謝罪と反省の言葉で締めたわたしの台詞を黙って聞いていた風間さんは、何も言わない。身体の力を抜いてだらりと寝転んでいる今、仰ぎ見る無機質な白い天井には圧迫感も何もない。だけど胸が苦しいのは、そんなどうでもいいことで他の部隊の方々の手を煩わせたらしいことが情けなかったからだ。なんだかこの虚無感は、よく見るあの夢に似ている。空間が黒か白か、それだけの話。

「回復するまで寝ておきますから、風間さんは任務に戻ってください。ありがとうございました」

 布団を鎖骨のあたりまで覆うように手繰り寄せる。冷たくて柔らかい感触にぞくりとした。血液のめぐりが悪いみたいな感覚がある。きっと疲れているんだ。眠れば、またいつも通り、あの人のために戦える。

「そう急くな。本題をまだ話していない」

 風間さんの手がわたしの布団からすこしはみ出した指先を掠めて、そのまま頬にそっと触れた。優しい仕草だ。体中の血がぶわりと駆け回るのを感じる。昔あの人が稀にしてくれたときも、そんな風にはならなかったのに。
 何度か呼吸してみても、空間を埋める静寂は変わらない。きっと普通に立っている状況なら、二、三歩は後ずさっていた。だけど今は大して身体に力が入らず、ただただ目で訴えることしかできない。紅い瞳につられたのかもしれない。顔が、なんだかすごくあついのだ。

「おまえの生きる理由には、どうすればなれるんだ」
「……はい……?」
「だから、俺はおまえの言う、W生きる目的Wとやらになりたい」

 分からないか?城戸司令のために命を捨てるより、俺のために生きてほしいと言っているんだが。
 分からないかと言われ、それを察されてきっと細かく噛み砕いて説明されたんだろうけれども、だけどそれでもわからない。枕から洗いたての匂いがすることにぼんやりと気付いて、やっと呼吸がまともにできたと思った。風間さんが立ち上がる。珍しくブラックジーンズを履いておられることも、今頃知った。

「城戸司令はおまえのことはそんな風に、つまりW組織のために死ねWなどと思っていない。駒が減ることだといえばそれは確かにそうかもしれないが、それ以上に、娘のように思っていることだろう」

 じわり、さっきとは違う意味で、今度はこめかみが熱い。あの人の口から聞いている訳ではないのに、喉が震える。風間さんの言葉はじくじくとわたしの脳髄を犯すから、思考の糸が絡まってしまう。
 手のひらで目元を覆われると当たり前のように景色も何もなく真っ暗になって、だけどあの夢みたいに寂しくない。おそろしかった筈の声が、やわらかく鼓膜に染み込んで溶ける。氷の中に閉じ込められていたみたいな感覚から一転、羊水に包まれているような錯覚に陥るわたしの、なんて単純なことか。

「だから俺に日頃から、おまえの様子を伺っておいてほしいなどとわざわざ仰った。直接言えないあたり、思春期の娘に距離を図りかねている父親とはこういうものなのだろうなと無礼を承知で思ったが…、司令がそこで更に図り損ねたのは、俺の人間性か」

 監視などではなかったというのだろうか。城戸司令は風間さんに、わたしを見守らせていただけだというのだろうか。風間さんはこんなことで嘘をつくような人ではないからきっと本当で、わたしはまったく馬鹿なやつだ。
 すらすらと話す風間さんからは普段の口数の少なさやそれゆえの威圧感はあまり感じられない。だからつい尋ねてしまった。「人間性とはどういう意味なのですか」と。根っこが優しい人で、隊員たちにも慕われていることは知っていたから、それ以外の何かがその小柄な体躯にあるならば知りたかった。

「……それも、わからないか」

 自嘲のような、かと思えば慈しむような、馬鹿なわたしにはなかなかに理解できない表情とともに、ゆるりと細められた瞳がすこし近付く。今間違いなくわたしの身体を構成するすべての細胞が、目の前のこのひとを視ている。あの人ではなく、風間さんを視ている。

「好きな女とベッドのある部屋でふたりきりになることは、男にとってはそれなりに意味があるということだ」

 風間さんが自身の体重をかけた腕がシーツに皺を増やしたことでキシリと軽くてにぶい音が部屋に響いても、ゆっくりと顔が近付いてきても。此処がその風間さんの言うWベッドWであることがいまいち分からないわたしは、呼吸をそっと妨げるためだけのように塞がれたくちびるの温度を感じて、ようやくその存外たくましい胸を押し返すことをはじめた。

「……反応が鈍いな。いつも戦闘で発揮されるあの俊敏さはどうした?」
「……な、なにを、して」
「キスだが」
「……っ、そういうことじゃ……」

 そうだけどそうじゃない。わたしが聞きたいのはそんなことじゃないのに、風間さんは薄く笑うばかりだ。そして再びくちびるをくっつけてわたしの言葉が声になる前に吸い込まれて消える。起き上がることはきっと、できないこともない。頭がくらくらするのはうまく息ができない所為だけど、抵抗するしないは別のところにある。

「……ところで、ここまでされてもまだ寝転がったままなのは、まさか“城戸司令の命令だから”か?」
「……それ、以外に、何があるんですか……っ」
「…………やれやれ」

 「おまえは本当に男というものが分かっていない」という風間さんの独り言のような言葉を脳が理解するころには、わたしの視界には天井と、そしてそれを背にする風間さんの顔があった。自分の身体に跨られているということを理解はするけれども、何故そうなったのかということはまったくわからない。

「大抵の男は、好いている女に他の男のことを考えられていると妬けるものだ」
「は……?」
「これは理解できたか? つまりこの場合、城戸司令であってもだ」


 距離を詰められたその三度目に触れ合ったのは、くちびるではなくおでこだった。こつん、とごく軽くくっついたそこは間違いなくいつの間にか耳元に添えられた大きな手の温度と同じもので、心臓がばくばくと煩い。今は何時なんだろう、と明るさの十分でない半閉鎖空間のことを思う。そうでもしないと、心臓がばかになって死んでしまいそうだ。

「今は、俺のことだけを考えろ」
「……かざま、さ、」
「俺はおまえを見捨てないし独りにもしない。まあそれは、あの人もそうだと思うがな」

 どうしたらいいのか分からない。わたしは一体何をどうすべきなんだろうか。風間さんのパーカーの襟元が近付く。割と体温の低いわたしの身体に熱を感染させたおでこは知らぬ間に離れていたようでほっとしていると、同じ場所に柔らかい感触。順序は色々と違うけれど、まさに怒涛のような振る舞い。唖然とするわたしをよそに、「邪魔をした。ゆっくり休め」なんて素知らぬカオで言って頭を撫でて出て行く風間蒼也というひとは、本当にずるい人だ。

 結局寝付くのに大分かかった。そしていつもの夢も見なかった上に、よくは思い出せないけれどあの小さなファーストキス泥棒が出てきたような気がするので、本当にしたたかな人だ。城戸司令以外の人のために死のうとは思えない。でも、風間さんと一緒に生きてみたいと、確かに一瞬そう思ったわたしは、やっぱり疲れているみたいだ。




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