これは個人的な意見だけど、少女漫画は色んな人間を毒してると思う。わたしは、あんな恋を美化しただけの幻想には騙されない。


「おい、寝グセ直ってねえぞ」
「……そもそも直す時間なかったの」
「じゃあ寝坊か。相変わらず朝弱ぇな」

 清々しいはずの朝も、跳ねた髪の毛ひとつで台無しになる。家を出て3歩、一つ目の曲がり角。わたしとではなく、わたしの母とこの男とで取りまとめられた、毎日の待ち合わせ場所。共働きの両親は朝が早いため、わたしが遅刻をしないようにと、進学校に通う幼馴染と途中まで一緒に登校することが、いつの間にか決定していた。それを律儀にこなす真面目なこの男こそ、毎朝そして毎日、わたしの心のため息を生む、荒船哲次だ。
 わたしのこれまでを人生ゲームに例えると、失恋のマスがものの3マス目くらいに置いてあると思う。好きになったのは幼稚園のときかもしれないし、小学校のときかもしれないし、中学のときだったかもしれない。そのあたりは定かではないけれど、とにかく、高校で初めて学校が分かれたとき、これからは哲次のいない環境で勉強して、友人を作って、遊んで、哲次のいない学校生活を送るのかと思うと、心臓のどこかがぽっかりと空いたような気持ちになった。そこで馬鹿なわたしはようやく、一番実らない恋をしてしまったと気付いたわけだ。

「そっちはテストはいつからだ?」
「あー……、いつだっけ」
「オイコラ、勉強してんだろーな。前みたいな点数取らねーようにしろよ? 」
「わ、わかってるってば」

 昔みたいに何気ない会話がさして弾まなくなったのはいつからか、なんてことも、もう覚えていない。隣を歩いたとき、その頭が高くなった頃か。声が低くなった頃か。がっしりとした肩幅や厚みに違いを感じた頃か。きっとどれも本当で正解で、だけどどれも違うのだ。哲次は何も変わっていない。わたしの哲次を見る目が、変わってしまっただけ。

 互いの学校の話題は、それぞれの居場所が違うことを痛感するから、あまりしたくない。テスト期間の違いや範囲の違い、行事や球技大会の日にちのズレ。そもそも違う学校なのだから仕方ないけれど、やっぱり自分の知らない哲次の顔があると思うと、なんとなく気分が沈むからだめだ。
 そういう意味では、ボーダーの話題なんてもってのほかだ。ボーダー隊員に話を聞きたがる子は友達にもクラスメイトにもたくさんいるけど、わたしはすこしも聞きたくない。聞いたところでどうせ分からないし、その話が分かるように同じ場所へ身を置くこともできない。結局、虚しいだけだ。もちろん、当真や村上くんといったボーダー隊員の友達もいるし、その人達の話を聞くのは、別にどうということはないけれど。

 そんな風に話題を選ぶうちに、何を話せばいいのか分からなくなることが多くなった。すぐ隣を歩いているのに、おかしな話だ。昔は、てっちゃんのお嫁さんになる、みたいなことを平然と言っていたらしい。わたしは覚えていないけど、わたしの母も哲次のお母さんも言っていたから、きっとそうなんだろう。子どもって凄い。今はこんなに、何にも言えなくなってしまったのに。
 これが女の子とならきっと、所謂恋バナなんかが始まるんだろう。だけど逆にそんな話題は、哲次とは一生避けて通りたいほどの、わたしにとって最大のタブーだ。

「哲次」
「なんだよ」
「……んーん。やっぱなんでもない」

 なんだそれ、と呆れたように笑うその柔らかく細められた目元が好きだ。ときどき頭を撫でる手のひらが大きくなったって、ボーダーとして戦うわたしの知らない表情があったって。幼馴染なんていう括りではもう満足できないほど、心臓が熱く痛くむず痒くなる感情を、見て見ぬフリなんてできないのだ。だけど同時に、言ってしまうと崩れ落ちる関係の重さが、今現在わたしの心の中にあるものを超える限り、やっぱり言うわけにはいかなかった。

 言おうかなと思ったことがないと言ったら嘘になる。むしろ、何度も考えた。ときどき、わたしの中の何かが言うのだ。もういっそ、言ってしまえばいい。そうすれば、隣にいるのに遠く感じるような虚無感とも、自分のものではないのに湧き上がる独占欲とも離れられる。彼が誰かのものになることに怯えて俯く日々とも、すぐにさよならできる。
 わたしはそれを他人事のような気持ちで聞くたびに、情けないことを思う。色んなことを考えたところで、哲次のいない日常を過ごす自信なんかないんだから、今ある虚無感だの独占欲だのというものを我慢することは、その日常を手放すことに比べれば十分に許容範囲なのだ。そうやってまた怖気づいて、自分自身すらはぐらかす。

 たとえば哲次に彼女ができたら、やがて忘れるのだろうか。哲次がわたしを忘れたとして、その逆は。もし仮に忘れられたとしても、わたしは哲次以外を好きになることが、この先あるのだろうか。



 今日は、朝から雨が降っていた。ここのところずっと天気が良かったのに、暗い雲がずっとまとわりついてくるような天気。気付けば本降りだ。当然、傘をさして登校したけれど、過去にコンビニで300円ほどで買ったありふれたビニール傘だったからか、誰かに持って帰られたらしい。間違えられたか故意かは分からないけれど、朝立てたはずの場所に、わたしの分の傘はない。他の人の傘がまだ何本かあるけど、きっと部活を頑張る子たちのものだ。勝手に拝借するのは気が引けた。
 空を見上げてみても、雨がそこそこ降っているという変えようのない事実しか分からない。濡れながら走るにはすこし勇気がいる距離。しかし見つめていても待っていても、雨は止みそうにない。タオルを頭から被って走ろう、と手探りで鞄の中を引っ掻き回していると、後ろから声がした。

「あれ。もしかして傘、ないのか?」
「あ、……村上くん。あー、ビニール傘だったし、誰かが持ってっちゃったっぽい」
「なるほど」

 村上くんは苦笑して、ばさりと傘を開く。紺色にグレーのストライプが薄っすらと入った、大きめな傘だ。なんとなく、男の子なんだなあと感じる。もちろん普段から思ってるけど、こういうときは余計に。

「? 入らないのか? 」
「……え、入れてくれるの……? 」
「ははは」

 このまま放っておくほど薄情じゃない、とさらに笑って、村上くんはわたしを手招きした。ありがとう、と言えばまたすこし高い位置から返事が下りてくる、その感覚が、哲次と話すときと似ている。

「村上くんは優しいなあ」
「そうか? 」
「そうだよ」
「まあ、特にお前はオレの『師匠』の幼馴染だしな」
「師匠? 」
「荒船のこと」
「え、ああ、そうなんだ」

 改めて思う。わたしは哲次のことを、何も知らない。たぶん弟子とか師匠とか、普通の生活では使わないから、ボーダー関連のことだろう。弟子を取れるということは、哲次は強いのだろうか。哲次のボーダーでのことなんて、本当に何も知らない。知りたくもない。でも、何も知らない自分も、それはそれで好きになれそうにない。

「そういえば、幼馴染ってことは、家は荒船の家の近く? 」
「………うん、そう」

 村上くんはたぶん、わたしの方に傘を傾けてくれて、わたしの歩く速度に合わせてくれている。そして歩みに迷いがない。きっと、哲次の家を知っているんだろう。わたしの家は哲次の家と同じ通りにあるから、わざわざ数字で表すなら、徒歩20秒だ。近すぎたのだ、色々と。そして、今更だ。哲次とわたしは、ただの「幼馴染」なのだから。

「村上くんは、哲次の弟子ってことになるの? 」
「そうだよ」
「そっか。……いいなあ」

 家なんか近くなければよかった。幼馴染なんかじゃなければよかった。そうしたらもっとまっすぐに、好きだと言えたんじゃないだろうか。
 もちろん、赤の他人として出会ったところで、大して可愛さも賢さもないわたしを哲次が好きになる確率なんて、ごく僅かだろう。でも、それは今でも同じだ。同じなら、普通に恋ができる女の子になりたかった。ボーダーなんかで出会っていたら、何か違っただろうか。


「あ。荒船」

 村上くんの言葉に弾かれるように目線を上げると、傘を差した哲次が目を見開いてこちらを見つめていた。ブレザーではなく、部屋着とよそ行きの間くらいの服。
 どうやら、わたしが考え事をしている間にも、足は進むべき方へ進んでいたらしい。雨はまだ降り続いていて、わたしの左肩はすこし冷えるけれど、きっと村上くんの右肩の方がより冷たいだろう。

 哲次は「こう」と呟いた。なるほど村上くんの名前のことだ、と気付いたときには、もうわたしは腕を引かれて、一瞬雨にさらされていた。そうしてまた雨は遮られて、視界は、黒だ。哲次のTシャツと、同じ。雨のにおいと、シャンプーの香り。
 2年前くらいに、わたしの親がどちらも出張で居ない日、荒船家にお世話になったことがある。そのときのシャンプーと同じ。哲次はあまりそういうことに関心がなく、ただ置いてあるものを使っていると、哲次のお母さんが言っていた気がする。そういう懐かしい思い出に浸るたび、その距離がいやになるのだ。隣にいるのに遠いみたいな距離が、心底嫌になる、はずだったのに。

 今は、これは、この格好はなんだろう。この状況はどうなっているのだろう。自分より高い位置から声が降ってくるのは普段からよくあることだけど、その声が自分の耳にかかるような感覚。ぞわりとする背中から肩にかけて、ぎゅっと捕まえられている自分の身体。そのすべてを受け止めているのが哲次であるということ、抱きしめられているということを理解するのに、いったい何分かかったか。

「はは。大胆だな、荒船」
「うるせえ」
「じゃあ、俺は帰るよ。風邪引くなよ」

 村上くんに送ってくれてありがとうと言わなければ。そうは思ったけれど、わたしは今やっと息の仕方を思い出したくらいだったので、それは難しかった。そして、気付く。わたしは哲次と彼の傘によってすっぽりと空を遮断され、雨を遮られていたけれど、代わりに哲次は、あまり傘の恩恵を受けておらず、雨にうたれていた。土砂降りとまではいかないけれど、傘をささないという選択肢は選べないような降り方なのだ。すこし濡れた、程度では済まない。

 わたしはようやく腕を突っ張って、体を離したけれど、声を発することは叶わなかった。なんでここにいるのとか、風邪をひくから早く家に入ろうとか、どうして、わたしを抱きしめたのか、とか。言いたいことは山ほどあって、だけど、その前に何かにくちびるを塞がれた。あったかいような、冷たいような何か。ふと離れたとき、哲次のそれだったことを知る。おかげでまた、言いたいことが増えてしまった。

「……なんで鋼と帰ってんだ。朝、傘さしてただろ」
「え、あの」
「俺がいるだろ、連絡すれば迎えに行ってやるのに、なんで」
「哲次、」
「おまえ、鋼と、付き合ってんのかよ」

「……は……? 」
「……………あー、くそ」

 来い、という言葉とともに掴まれた腕が熱い。わたしに傘を押し付けて、哲次は自分の家に向かって歩いた。ここから徒歩40秒といったところだろうか。逞しくなった後ろ姿は、じりじりと胸を焼く。

 濡れて張り付いたシャツ。肩幅が広くなって、なのに、どこか寂しそうだ。
 シャワーを浴びた後みたいに束になっている髪。早く乾かさないと風邪をひいてしまう。
 それから、髪から覗く赤い耳。見間違いかと思ったけれど、どうやら違うみたいだ。なんだかこっちまで脳が痺れてくる。

 腕を引かれるままに歩いて着いた哲次の家の中で、罰の悪そうな表情でぽつりと「勝手なことして悪かったな」と呟かれた。その横顔が真っ赤で、心臓がぎゅうっと狭くなった気がした。その謝罪がキスのことを言っているのだということに気付くまでに、また少し時間がかかった。
 言葉に詰まる一方で、言いたいことは山ほどある。だけどどれも声にはなってくれなくて、そう、たとえば代わりに、わたしが哲次のくちびるに自分のそれをくっつけてみたなら、どんな顔をするだろう。ずぶ濡れで服が貼り付いてしまっている、逞しくも寂しい背中に、おでこをくっつけた。冷えた皮膚の下に、哲次の耳を、そして頬を赤くした、熱い血が流れていることなんて、きっと知らないままでいいと思っていたのに、知ってしまった今では、こんなにもいとおしい。

「……で。付き合ってんのか」
「なんで。ていうか、なんで、……」
「あ? 」
「……なんでも、ない」

 たとえば哲次に渦巻くものは、幼馴染を取られたくない独占欲なのかもしれないけれど、わたしに渦巻くものは、紛れもなく、どろどろもきらきらも混ざった、恋心なのだ。やっぱり恋愛は、綺麗なだけのものじゃない。あんな、美化されてばかりのシナリオは信じない。

「昔、言ってたこと忘れんなよ」
「え………? 」
「……俺の、もんに、なるんだろ」

 大人になったら、俺のお嫁さんになるっつってただろーが。

 取り敢えず明日学校へ行ったら、村上くんには、お礼を言うことを決意した。そんな冷静なことを思うほど、あまりに驚きすぎて固まるわたしに、更に顔を赤くした哲次が拗ねてご機嫌を損ねてしまうことを、今のわたしが知るはずもない。どうやら現実は、少女漫画には並ばないけれど、わたしが思うより、綺麗なものらしい。




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