飲み会っていうものは、仲の良いメンバーばかりで構成されていない限り、その言葉の響きとは裏腹に、案外憂鬱だ。お酒は嗜好品としてのその許容範囲内であればきっと楽しめるけれど、それを超えればただの毒だと思う。それでも、男の同僚なんかと比べればまだ無理に飲まされるようなことにはならないけれど、上司や先輩に気を使うためなのか。気心の知れた仲間と飲むのとはまた違った回りをみせるアルコールを、自分の意思よりハイペースで飲むのは、それなりに気力と体力が必要だった。
 22歳というのはなかなか微妙な年齢だなあと、つくづく思う。

 エレベーターが部屋のある階に到着して鍵を取り出そうとしたところで、部屋が明るいことに気付く。泥棒さんだったらシャレにならないけれど、考えてみれば今日は金曜日だ。鍵は使うことなくカバンにしまって、今度はスマホを取り出した。LINEが一件。わたしにはそれで十分だった。

「ただいま」

 ドアノブは鍵を使わなくてもしっかりと回り、お決まりの言葉を空っぽに見える空間に投げればかすかに聞こえた物音は、自然と頬っぺたを緩ませた。飲み会で笑顔をあんまりに貼り付け続けたものだから、頬の筋肉を使い果たしたせいでもう今日は笑えないんじゃないかと思ったほどだったけれど、そんな心配はすこしも要らなかった。玄関へ小走りで駆けてくる足音は、わたしがいつもスリッパを履いて歩くようなそれではなく、靴下がぺたぺたとフローリングを滑るような音だ。

「おかえり、なまえさん。連絡くれれば、駅まで迎えに行ったのに」

 わたしの部屋に置きっぱなしにしてある部屋着を着た公平の右手には、黒のカバーのスマートフォンがある。きっとLINEをこまめにチェックしてくれていたんだろう。既読もつけていないのに、そのことについて公平が咎めたことはない。「ちょっと心配はするけど、無事に家ついてくれんならなんでもいいし」とこぼすこの男の子は、高校二年生にしてはなかなかにできた人間だと思う。
 やっぱりそれは、ボーダーという組織に属しているからかだろうか。そんなことを、最近よく考える。ボーダーには年下や同い年や年上や、もっともっと大人な上司たちもいると聞いた。それから、男の子のほうが多いけれど、女の子もそれなりにいる、とも。

「風呂入りますよね?一応沸かしてます。俺が先にシャワー借りたけど」
「……公平、ごめんねー……」
「……っうわ、なに、酔っ払ってんの?」

 体重の8割方を預けるようにして抱きつくと、すこしよろめいたもののしっかり抱きとめてくれた公平は、細身だけれどもオトコノコだ。酔っ払ってんの、という質問には答えられなかった。確かに結構飲んだけれど、意識も足取りもしっかりしている。以前地面や床が踏みしめるたびふにゃふにゃしたことがあってあれは我ながらまずかったけれど、今回はそうでもない。
 いっそ、酔っ払ってしまいたかった。そうして、そのまま眠りこけてしまえれば、公平は呆れてくれるかもしれなかったのに。

「……なまえさんが甘えんの、珍しい」

 すこし嬉しそうな声が耳元をくすぐる。かわいいなあ。自分がこの子を独り占めしているという幸福感と優越感と、反対に5つの年の差があるという劣等感。天秤にかければ案外ゆらゆらと揺れてしまうそれは、とても分が悪い。キレイな顔立ちだし性格だってなんだかんだ優しいし面倒見もいいし、その上ボーダーのA級隊員だからきっとそれなりにモテるはずのこの出水公平というオトコノコの彼女が、わたしなんかでいいのか。そっちがいつも勝ってしまって、それは段々と積もり積もっていく。

「ねえ、公平」
「ん?」
「………別れよっか」

 いざ声に出そうとすると、音のつま先が突っかかった気がした。喉の奥から言葉を乗せた空気を押し出す行為というのは、とても難しい行為だ。
 公平はびくりと肩を揺らして、そしてわたしの身体をゆっくりと離した。「酔っ払ってんの」。その問いかけにはあっさりと、「酔っ払ってないよ」と答えることができる。

「……なんで。俺みたいなガキ、嫌になった?他に、好きな男でもできた?」
「嫌になってない、他の男にも興味なんかない」

 わたしの言葉に、公平がすこしほっとしたのが分かった。素直。意地悪なときもあるけど、わたしの前ではいつだって素直だ。

「じゃあ、なんで、んなこと言うんですか」
「……公平はさ、かっこいいよね」
「は?」

 公平の首に腕を回すと、スーツの肩が突っ張ったけれど、あまり気にならなかった。そっとうなじをなでれば、ほんのり赤くなった目元がぴくりと動いた。わたしがキスをねだるときにするその仕草に、眉間にすこし切なげな皺を作りながらも、優しい公平はそっと唇を重ねる。
 くちびるの柔らかさを確かめるようについばむキスが角度を何度か改めて繰り返されて、だけども随分遠慮がちなそのキスに焦れてしまったわたしは、舌でぺろりと煽った。そうしてようやくおずおずと舌を絡められ、だけどそこからは欲情したのか、わたしのことなんかお構いなしで、公平のペースでキスが深まっていく。

「……なまえさん、まじで俺と、別れたいの」

 雄の表情をしているくせに切なそうに顔のパーツを歪めた公平にいつの間にか壁に押し付けられていて、息を整えるのに忙しいわたしは、心の中でしか返事ができない。別れたいわけじゃない。本当は、別れたくなんかない。でも公平は一体いつまで、わたしを一番にしていてくれるんだろうか。そんなこと、いくら考えてみたところでわからない。
 これから公平はどんどん格好良くなっていくのに、わたしは年齢だけ5つ前を歩いて、だけどその他は何も成長しないままなんじゃないか。いつか置いていかれるなら、捨てられるなら、今がいい。いつかじゃ遅い。公平にとってもきっと、それじゃ遅いから。

「公平はかっこいいから、他にもいっぱいかわいい女の子がいるよ」
「………」
「わたしにだって、いつか飽きちゃうよ」
「……っ勝手に、決めんな……!」

 怒っているのに、泣きそうな顔。わたしの退路を塞ぐようにして壁に手をついたまま、公平はただただ一生懸命言葉を探して、扱って、わたしを諭した。

「俺がどれだけあんたを好きか、知らないだろ」

その言葉を皮切りに、公平の声がつらつらと紡がれる。

 あんたの会社には他の男だっていっぱいいて、そいつらは言っちまえばあんたを養うことだってできるくらい大人で、それに比べたら俺はガキで、それに普段だって学校と防衛任務と、たまに遠征にだって行くから、全然一緒にいる時間無いし、でも「いつでも来ていいから」って合鍵だってくれたから、そういうの全部我慢してきた。俺はまだあんたの男でいていいんだって思ったから、押さえつけてきたんだ。せめてちょっとだけでも追いつきたいと思って、あんたが急に仕事入ってデートが無しになろうが飲み会の帰りに迎えに行くことも許されなかろうが、仕事の電話のついでに他の男と雑談しようが、何も言わないことに決めた。年だけは絶対どうしようもないけど、でも本気であんたのことが好きだから、それだけは本当だから、だから、そんなこと、言わないでよ。

「………ほんとに別れたいって言うんなら、キスなんか、させないでくださいよ。俺は、なまえさんが思ってるより、単純だから」

 それなりに冷静に、饒舌に、そしてそれなりに、直球に。最後の一言二言はすこし落ち着いた声と口調だったけれど、とにかく思っていることをぶちまけたというような矢継ぎ早な言葉たちは、わたしの胸の真ん中を痛く、甘く、重たくした。この子は単純、ではないと思う。わたしに観察力というものが欠けているだけかもしれないけれど、何かを我慢する素振りなんて、見つけられたことはなかった。でも、素直ではあった。それは知っていたのに、どうして気付いてあげられなかったんだろう。

 公平は壁から手を離して、すいません、とぽつりとこぼした。少し俯きぎみなおかげで、どんな表情をしているのかが分からない。半歩下がるそのつま先が、わけもわからずいとおしかった。きっとこれが、本当に別れたいのかという、すこし前の公平の問いかけの真の答えに、違いないと思った。

 部屋着の襟を両手でつかんで、引っ張った。すこし高い位置にあるくちびるにほんの一瞬だけ自分のそれをくっつければ、公平は瞼を下すこともせず、ただただ固まっていた。きっと、今はすこしだけしか変わらないこの目線の高さも、これからもっと差が開いていくんだろう。そのときわたしは、また不安だなんだと勝手に一人で考え込んで、公平を困らせるのかもしれない。だけどそれでもいいと思った。そのときは目一杯カッコ悪いところを見せて、それで呆れられたときには、すっぱりこの子のことを諦めればいい。
 だけどもし、そうじゃなければ。

「わたし、公平が思ってるよりかわいくないし、かと言って大人じゃないし、面倒くさい人間だよ」
「……俺は、なまえさんが隠してきたそういうとこも、全部知りたい」
「……かっこいいなあ」

 からかわないでください、俺はまじめに言ってんのに。公平の言葉はさっきとは裏腹に子どもっぽくてかわいくて、わたしは少し笑ってしまった。もしそうじゃなければ、わたしはこのたくましくなってゆくばかりの腕の中で甘えて、幸せを噛みしめればいい。
 甘さだけが残ったこの胸の真ん中が、出水公平でいっぱいになればいいのに、そんなことを思いながら、ずるいわたしは、もう一度キスをねだったのだ。




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