あいつの瞳に映った女の子はみんな、あいつに「カワイイ」と言われる権利を持っている。




「やっぱ綾辻ちゃんカワイイな」
「確かにね」
「那須ちゃんもカワイイな。強いしなあ」
「そだね」

 こんな会話は、息をするように繰り広げられてきた。たぶん、生駒にとってのカワイイは、おはようとかお疲れ様とか、そういうのと同じレベルなのだ。それから、小動物や赤ちゃんを見て何気なく溢れるカワイイだとか、そういうものとも同じ種類。
 そんな言葉にいちいち浮いて沈んで漂っていたら、心臓の外側がぱらぱらと剥がれて痛い思いをするだけだ。

 可愛げのないわたしですら、一度だけ言われたことがある。中学2年のときに知り合ってすぐ、かわいいと面と向かって言われたことが一度だけあって、そのときに所謂「女の子扱い」に免疫のなかったわたしは、ずいぶんと照れた反応をしたような気がする。

 記憶がすこし曖昧だけど、たぶん、それが最初で最後だ。それ以来、生駒はわたしにその言葉を言わない。それはただの気まぐれでだろうし、同じクラスだったり同じボーダー隊員としてだったりという様々な部分で、男女の友情という不確かなものを確かに築いてきた結果であるだろうと思う。
 つまり、気にしたら負けなのだ。生駒がその言葉を発することには大して意図がなく、発さないことにもまた意味はない。




「なんや、可愛ないなぁ」

 どんな話の流れだったかも覚えていない。生駒がわたしに何回目かそう言ったとき、ただ漠然と、ああ、また可愛げのないことを言ったのだろうと思った。美人でも何でもないのに、言うことすら可愛げがないとなれば、そんな風に言われるのも無理はない。

 しかし、原因が何であれ、その言葉は確かにわたしの心の中のやわらかい部分に刺さり、じくじくと毒を広げていった。なんとなく、目の奥の神経が熱くなる。そんなつもりはないのに、瞳に水の膜が張るのを堪えられなくて、適当に誤魔化してラウンジを引き返す。

 視界の端で生駒は首をかしげていた気がするけれど、わたしは迷わず歩いた。歩く速度は次第に速くなり、そして、ほとんど人気のない各隊の作戦室の廊下にさしかかったところで、足を止めた。俯いていた所為か瞳は乾いてはくれず、苦し紛れに一回だけ鼻をすすった。

「あれ。先輩、どないしたんですか? 」

 背中側から聞こえた関西弁にぎくりとするも、その声は柔らかく、あいつに比べると少し幼い。思わず振り返って「隠岐くん」とその名前を呟けば、隠岐くんは数回ぱちぱちと瞬きした。顔が整っているからなのか、とても可愛く、そしてやたらに年相応に見えた。
 そこまで考えたところで、自分の状態に気付く。

「……泣いとるんですか」
「泣いてない」
「そこで嘘つかんでも。イコさん絡み? 」

 適当に言ったのではなく、多かれ少なかれ確信をもったその言い方は、きっと何かに気付いているのだろう。わたしは自分の表情くらいはきちんと操れるつもりでいたけれど、それも思い上がりだったのかもしれない。
 返事が喉をくぐらないまま、沈黙を貫いていると、いまだにすこし目尻に残る涙に、隠岐くんの指が触れる。

 いや、触れようとした。その隠岐くんの腕がまた別の誰かの手で掴まれて静止され、わたしは息をするのを一瞬やめてしまった。

「何してんねん」
「なんもしてませんて」
「こいつ泣いとるやん」
「泣かしたん俺ちゃいますよ」

 目の前で繰り広げられる軽快な応酬には、混乱や動揺で脳のキャパシティを狭めたわたしに口を挟む暇はあまりなく、事態をそれとなく理解したときには、わたしは生駒に手を引かれて歩いていた。隠岐くんはいつの間にかいなくなっている。機動型スナイパーとはまさにこの素早さのことを意味するのかもしれない。

「なんで泣いてんねん」
「………」
「隠岐にも触られとるし。おまえがイケメンに慰められてコロッと惚れたらどないしてくれんねん」

 頭にぽんぽんと重みが落ちてきて、また泣きそうになる。生駒のせいだとか、そんなことは言えない。わたしのせいでしかないからだ。情けない。

 生駒はしばらくそれを続けたけれど、やがて手を離した。すこしほっとして息を吐くと、どうしてか身動きが取れなくなった。生駒に抱きしめられている、と気付くまでに数秒を要した。
 背中の温かさは両腕なのだろう。それはなんとなく分かったが、何故? 体勢が分かったところで、状況は分からない。

「い、いこま……? 」
「あーもう何なん。自分ほんま何なん」
「いや、とりあえず離し、」

「好きや」
「て………?」

 抱き締める力は弱まることはない上に、わたしは身体から力が抜けてしまった。生駒の肩越しに見える長い廊下には、確かに誰もいないけれど、しかし反対側からは分からない。というより、こんな場所で、いやそういう問題話ではない。ますますなんで? だ。

 だけどその疑問を提起したがる固い頭の裏側で、今しがた生駒が言ったことや、ぬくもりや匂いといった直接的な事実がわたしを殴る。

 …・いや、無い。ありえない。たぶん、某牛丼チェーン店のことなんかを言ったのだ。紛らわしいにも程があると思う。

「……とりあえず、離して」
「なんでやねん」
「なんでっていうか……」
「好きやって言うてるやん」

 たとえば言葉のキャッチボールをするなら、せめて日本語でしたい。
 素直にそう思った。そして、さっきの言葉は本気だったというのだろうか。それにしても返答に困る。だめだ混乱してきた。何か言葉を返すにしても、まず離してもらわなければできないのに、それを許されない。

「かわいくないって、言ってたじゃん」

 どうにか絞り出した言葉はそんな幼稚なもので、ああしまったと思った。でも仕方ないじゃないか。頭はうまく働かなかったのだから。

「………は? 」
「は? 」
「え? 」
「………いや、生駒が言ったんでしょ」
「ちゃうわ。え、脈アリなん、俺」

 勝手に抱きしめておいて、勝手に好きだと言っておいて、勝手に脈ありだと言う。そして相変わらず、話を聞いてない。なんでこんなやつを好きになってしまったのかが不思議なくらいだ。理屈ではないことくらい、分かっているけれど。
 生駒はようやく身体を離した。わたしはすぐに目を逸らす。脈なんていっそ、無ければよかった。

「………」
「うるさい」
「何も言うてへんやん。ほんまカワイイな」
「〜〜〜っだから、」
「一応言うとくけど、カワイないとか思たことないで。けど俺にカワイない言われて泣いてたん? 何なんそれ、めっちゃカワイイ」

 生駒の言葉に、顔に熱が集まるのが分かる。たとえば今ここが家なら、この男を締め出している。けれどここは本部で、逃げたところで捕まるのは明白だ。ただ観念して向き合おうとしても、どうすべきか迷うばかりで。

 可愛いモノに可愛くないって言わないでしょ、とまた可愛くない言葉を選んでしまう。どうしてもっと上手くできないのだろうか。
 勝手な自己嫌悪に陥っていると、生駒が口を開いた。

「せやけど正直に言うたら自分、絶対めっちゃ照れるやん」
「……そ、んなこと、ないし」
「初めて俺がカワイイ言うた日、覚えてへんの? めちゃめちゃ照れてカワイイ顔しててん」
「は、」
「あんな顔、ポンポンされたら困るやん。だから言われへんかってんで」

 生駒の声が鼓膜を滲ませるたび、顔が熱くなる。早く任務の時間にならないかと、今ほど思ったことはない。生駒のせいで、顔が、目が、指先が、なにもかもが熱くてたまらないのだ。トリオン体にならなければ、そのまま溶けてしまいそうなほど。

「つられてこっちも照れてまうやん。あとあんなカワイイ顔、他の奴に見せられへんし」
「……冗談でしょ」
「茶化すなや」

「可愛いで。好きや」





 その言葉の後は、よく覚えていない。たぶんアホだかバカだか、そんな幼稚な言葉で罵って、全速力で作戦室に入った。耳も熱い。風邪だろうか。体調がよくないから、あんなわけのわからない夢を見たのだ。
 背中に触れた温もりだったり、意外と硬い胸板だったり、最後に言われた言葉、それすら全部、夢だったに違いない。

 あの言葉の後に生駒のくちびるが触れた自分のおでこが、沸騰しそうなほどとてつもなく熱いとか、そんなものは都合のいい夢に決まってる。




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