年の割に落ち着いた雰囲気と、年相応の笑顔を混ぜたような。そんな後輩(ボーダーという組織ではおそらく弟子という括りになる)は、いつも目元を柔らかく細め、先輩、とわたしを呼ぶ。その声にはすこし独特な訛りが添えられていて、ふと呼び止められても、任務中の内部通話でも、そこそこ人のいるラウンジでも、まっすぐにわたしの鼓膜に割り込んでくる。
 最近は、わたしが意図的に遭遇を避けているから、余計にそう思うのかもしれない。

 いつからだろう。その隠岐の声に、ふわりと甘さが混じっていると感じたのは。ただの師弟関係なのだから、そんなことあるわけがないし、実際、隠岐の周りには、同い年のかわいい女の子がたくさんいるはずだ。それなのに、わたしへ寄越す視線だとか、仕草だとか表情が、どこか熱を孕んでいるように感じられてしまって、ふと立ちすくむ。

 そんな考えに至る理由は、それだけではない。二宮や堤と大学のレポートの話をしていたら、ふと視線を感じることがある。そしてそれを辿ると大抵、隠岐がいるのだ。
 最初は、わたしが何かしたのだろうかと思っていた。訓練に付き合う約束をすっぽかしたとか、ご飯に連れて行く約束を忘れているとか。覚えはあんまりないけれど、隠岐が理由もなく態度を変える人間には思えず、本人には聞かずにあれこれと考えている間に、ふと最近、訓練中にもやたらと見つめられていることを思い出したのだ。


「先輩、かわいいっすね」
「……は? 」
「って、イコさんが言うてましたよ。良かったやないですか」

 過去には突拍子もなくこんなやり取りを投げかけられたこともある。確か、生駒くんは大体誰にでも言ってるでしょ、とか何とか、そのとき思ったことを適当に返した気がするけれど、もしかしてそのときにはもう既に、その視線や表情は、熱を帯びていたのだろうか。


 そういったことが続いて、ある可能性に思い当たってから、必要以上に隠岐と連絡を取るのは控えた。自意識過剰であればそれが一番いいけれど、もしそうではなかったとしても、隠岐はただ年上に憧れているだけなのだ。わたしではなく、たまたま側にいた親しい年上の異性に惹かれただけ。接する機会がなくなれば、そのうち本当の恋人だってできる。
 身勝手とは思えど、元々優秀な隠岐はそこまでたくさんの修行や稽古が必要なタイプではないから、そろそろ本当に師匠なんて立ち位置は降りた方がいいのではとも思い始めた。スマートフォンのスケジュール管理のアプリに指を滑らせる。次に訓練に付き合う約束をしているのは、来週末。



「……うん。よし、今日はここまでにしようか」
「ありがとうございます」

 換装を解いて制服姿になった隠岐が、自分の隊の作戦室にいるのは、なんとなく違和感があって、いつまでも慣れない。訓練場では指示や助言が聞き取りづらいから、という目の前の男の弟子の進言により、師弟になって3ヶ月ほど経った日から今までずっと、わたしの隊の訓練室を使っている。そして、訓練が終わったら、隠岐がコーヒーを淹れてくれる。生駒隊の作戦室にはキッチンなんかはなかったはずだけど、これがなかなか上手なので、お願いしている。わたしはいつもならそのお礼に、ご飯に連れて行ったりするのだけれど。

「……えっと、ね、隠岐」

 わたしの呼びかけに、マグカップをテーブルに置いて、ソファの隣に座った隠岐は、首を傾げた。予定では、何でもないように、日常会話の延長上にあるように、さらりと言うつもりだったのに、なんだか妙に緊張している自分がいる。

「そろそろ、卒業してもいいと思うんだよね」
「……はあ。話が見えませんけど」
「狙撃はもう、十分上手いよ。これより上を目指したいなら、奈良坂とか東さんとか、もっと上の人に教わったほうがいい」

 わたしの言葉に、隠岐は一瞬だけ目を見開いたけれど、すぐに口元をふっと緩めた。わたしは分からなくなる。瞳は相変わらず穏やかで、しかし、どこかいつもと違う。奥底に獰猛な何かがいるような、飼い殺していたそれが目を覚ますみたいな。

 まるでわたしのことを、今から捕食するとでも言うような。

「なんや。先輩、気付いてくれてたんや? 」
「……なにが……?」
「俺がだいぶ前から、先輩のこと、師匠やなんて思ってへんこと」

 そう言い終えるのと同時。ぐらりと揺れた視界が30%の天井と70%の弟子で占められた。いや、元弟子と言ったほうがいいのだろうか。いつもと変わらない表情で告げられたその言葉に、わたしは耳鳴りがするような心地がした。聞いた言葉があんまりにも脳の信号を妨げるから、いっそ聞き間違いかとすら思う。菊地原くんの強化聴覚を貸してほしいと久しぶりに思った。ちなみにそれを以前思ったのは、一年ほど前に成り行きで風間隊と模擬戦をすることになったときだ。めちゃくちゃな話ではあるけれど、それほどカメレオンは手強い。

 そんな、ある程度現実から遠いことでも考えていなければ、学生服を着た流暢な舌を持つケモノに、呑み込まれてしまいそうだと思ったのだ。

「弟子入りしたんは、ちゃんと本気ですよ。何の下心もない言うたらまあ、それは嘘になりますけど」
「………」
「けど、俺が弟子入りして3ヶ月くらい経ったとき、先輩に初めて彼氏ができたやないですか。あの時、俺がどんなこと思たか分かります? 」
「……知ら、ない」
「せやんなぁ」

 隠岐はわたしの頬を撫で、至極楽しそうに微笑む。猫が喉を鳴らすような無邪気さと、獲物を品定めする獰猛さが、見目のいい柔和な笑顔にない交ぜになっている。言葉と表情が合致していないと感じるのは、わたしがおかしいのだろうか。

「まあ要は、やっと分かったんですよ。その時できた先輩の彼氏サンのおかげですわ」

 ちょっと近くにおって、ちょっと可愛がってもろても、このままやったら所詮は弟子のままや、ってこと。

 隠岐はすこし低い声でそんな言葉を並べ、わたしはただただ混乱する自身の脳と戦っている。弟子のままでは嫌らしい。では、何になりたいというのか。わたしは、何を求められているのだろう。出してはいけない気がする答えを奥に追いやったころ、触れていた手はそっと離れ、わたしの腕を引っ張って抱き起こした。ついさっきまで『弟子』だったはずの男が、やけに近い距離のまま言う。

「やっと信頼されて、ココで二人きりになれるくらいになったのに、最近先輩がえらいかわいいから、そのせいでめっちゃ見てもてバレバレの態度とったこと、これでも反省しとるんですよ」
「……また生駒くんがって話でしょ」
「はは。イコさんもまあ、確かに言うてましたけど。今のは俺の本心ですわ」

 隠岐は涼しいカオを崩さない。わたしは今どんな顔をしているのかわからないけれど、確実に情けないものに違いない。ああ、だから嫌だったんだ。3つも年下の、これからまだまだ色んな女の子との出会いが待っている高校生を、たとえば本当に本気で好きになったとしても、この先わたしなんかより綺麗でかわいい女の子が隠岐の前に現れて、そして惹かれ合う未来がないとは限らない。

「ああ、そうや。言うん忘れてました」
「……なに」

「好きですよ」

 さっきまでのオトコの顔はどこへ行ったのか、元より甘いマスクをより甘くしたようなカオで、わたしに擦り寄る。これはもちろん比喩だ。だからおそろしい。

「せやから、避けんといてくださいよ。俺は先輩を女の子として見てますけど、先輩は俺をまだ『弟子』やと思っとってくれてもいいんで」

 おそろしいのに、顔が熱くて仕方ないことが、そしてそれを目の前で楽しむこの『元弟子』が、心底恨めしい。




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