瞼を押し上げて目が覚めたのとほぼ同じタイミングで鼓膜にひっかかった声は、たとえばよくわたしを起こしに来てくれる幼馴染のそれではなかった。

「おはようございます、先輩。よお寝てましたね」

 ……いやいやいや待って。何が起きてるんだ。

 聞き覚えのある声、そして特徴的な関西弁。目の前に映る黒髪、見覚えのあり過ぎる端正な顔立ち。

 目覚めた瞬間に頭は覚醒したけれど、それでも今の状況を理解できない。成績が中の下だか下の中だかをふらふらしているわたしの頭なんて、所詮その程度だ。こんなことなら普段から、進学校に通う自身の幼馴染か荒船か、そのあたりにでも勉強を教わっていればよかった。

「先輩、めっちゃセクシーなカッコですよ」
「……っ!? 」
「はは。かわええなあ」

 今わたしが混乱している理由は幾つかある。一つは、指摘されて気付いたけれど自分が下着姿でベッドにいること。もう一つは、目の前にいるのが一つ下の後輩の隠岐くんであること。あとおまけにもう一つ、隠岐くんが上半身裸なこと。一つ目が特にまずい気がするのでとりあえず布団を手繰り寄せて身体を隠して、ベッドの端に逃げた。

 わたしは一人暮らしだ。そしてここはわたしの部屋。隠岐くんはただの後輩なのでわたしの家の場所なんて知らないはず。そこまで親しい間柄ではない。整理すればするほど、状況が分からなくなっていく。

 記憶を引っ張り出してみれば、今朝から体調が悪かった。熱があったのだ。本部で午前の任務を終えてそこから、もし普段通りのタイムテーブルならお昼ご飯を食べているはずだけど、その記憶がない。どうしてだろう。ああでも、早退していいと上司の冬島さんに言われてお言葉に甘えたような気もする。でもその後はまたぷつりと途切れているので実は割と本格的に体調が悪かったらしい。

「早退したゆうて聞いたんでお見舞い来たんですけどピンポン鳴らしても返事なくて、けど鍵開いとったんでドア開けたら、玄関先で先輩が倒れてたんですよ」
「……倒れてた……?」
「そ。ほんで俺が家ん中まで運んだんですわ」

 よくよく話を聞けば、玄関でわたしが座り込んでいて、起こそうとしたがしんどそうだったのでベッドまで運んでくれたらしい。確かに朝から熱があったけど、トリオン体だから大丈夫だろうと思ってそのまま任務をこなしたのがいけなかったのかもしれない。
 そこから2時間ほど眠ってしまっていて、今は夕方の6時。空はまだあまり暗くなっていないけれど色々と情けなくて、なんだかやりきれない。

「……まって。それだけ? 」
「なんや、ヤっといた方が良かったんです? 」
「いやそうじゃなくて! 」
「ちなみに先輩が服脱いでんの、俺ちゃいますよ。熱い熱い言うて脱ごうとする先輩を止めても聞かんくて、放ったらかしたりはしましたけど」
「……ほんとにごめん……」

 死にたくなっているわたしをよそに、隠岐くんは枕元にあった自分の服にばさりと袖を通した。黒いタンクトップを着たその姿は細身に見えるけれど、しっかりと男の身体をしていた。だめだ何を考えているんだろう。セクハラだ。迅さんのことを非難している場合じゃない。そっちは何で脱いでたのかなんて怖くて聞けない。

 ああもうどうしたらいいんだろうか? わたしは頭が良くない。冷静で頭の良い幼馴染の顔を思い浮かべる。一彰ちょっと来て。いややっぱり待って。この状況は色々まずい。わたしはどうやら後輩を誘ってあれこれしてしまうという事態は避けられているみたいだけど、それで済む状況じゃない。

 あれ、そういえばもしかして。私が早退したという話が過保護な幼馴染にも報告されていたら、中番の防衛任務が終わったらそろそろ来てしまうんじゃないか。

 慌てて携帯を手に取ったところでピンポン、とインターホンが鳴る。なにかの宗教勧誘とかセールスでありますように、と居留守でなんとかなる相手を期待してしばらく息を潜めたけれど、そのあと暫くして鍵の回る音がしたことで訪問者がわかってしまって、もう固まるしかなかった。
 合鍵を持っているのは、年に何回かだけ様子を見に来る家族を除けばただ一人。というより、もういっそ家族のほうがよかったと思わざるを得ない。

「………昨日、体調悪くて早退したって聞いたんだけどな」
「か、一彰あのね、これには色々あって、」
「お疲れ様ですー」
「ちょっと隠岐くんほんと静かにして……! 」

 どうやらこの幼馴染は、わたしが体調を崩したことを知った上で来てくれたらしい。インターホンを鳴らして割とすぐに合鍵で部屋に入ったのも、たぶんわたしが倒れている可能性なんかが頭を過ぎった所為だろう。基本的に一彰はわたしに優しい。だからこそこの状況はとんでもない誤解だの何だのを産んでしまう。一彰はわたしと隠岐くんを交互に見て、そしてやがて隠岐くんを見つめた。

「一彰、誤解。ほんとに何もないからね? 」
「へえ。誤解、ね」
「つれへんわー先輩。昨日あんなに良さそうやったのに」
「は!? え、なにもしてないって、」
「男女が一晩同じベッドで、何も起こらへんわけないやん?」
「ひっ、!?」

 ちゅ、とかすかな音と一緒に首に何かが触れ、変な声が出てしまった。さっきと言っていることが180度違う隠岐くんに、何故かやけに色っぽいことをされたのだと知るには随分時間が必要だった。なんだこれ。色んなとこが熱い。風邪のことはすっかり頭から抜けていたけれど忘れていただけで、まだ体調は戻っていないのかもしれない。そうに違いない。でなければ自分の身体なのにうまく操れないこの感覚の、説明がつかないではないか。

 何が何だか分からないけれどとにかく混乱したので、一彰、と幼馴染の名前を呼んだ。するとその瞬間、ゆっくりと歩み寄った一彰の手で隠岐くんはべりっとわたしから剥がされた。

「とりあえず、オッキーは今日は午後から任務でしょ。この子の看病はぼくがやっておくから任せてくれたらいいよ」
「えー。せっかく一肌脱いで、これからイチャイチャするとこやったんやけどなあ。まあ任務あるんはホンマやし、お言葉に甘えますわ」

 漫画なんかでよくあるW目が笑ってないWって表現は、こういう状態を意味するのか。どうしてか敵対する二人の間に互いを威圧するような雰囲気を感じ、自分の身体を隠す心もとない布団をぎゅっと握りしめた。
 ほな先輩、また本部で。なんて呑気な言葉を残して隠岐くんは帰って行った。そうしてほっと息を吐いたのも束の間、わたしは身体が一瞬浮いた感覚とともに身体を押され、気付いたら天井を見上げていた。といっても視界はほぼほぼ一彰で占められていて、わたしはまた混乱することになる。

「それで結局、どういうことなのかな」
「え、えと……まずは服、着させてほしいっていうか」
「言うのが先」
「……なんか家の前でダウンしてた、らしくて、隠岐くんが、運んでくれたって……」
「それだけ? 」
「た、たぶん」

 なにせ記憶がとんでいるだけに曖昧な返事しかできないわたしに、一彰はひとつため息を吐いた。そしてぐっと重心を寄せて顔が近付く。もともとほぼ大半を占めていた視界がより圧迫された。肩を押そうとした手は捉えられて、やがて首をぬるりと生暖かいものが這う。また何か変な声がわたしの喉をくぐったけれどそれでも一彰はしつこく舌を押し付けて、ときどき唇で食むようにしてわざわざ音を立てるようなことをする。隠岐くんにキスをされた場所であることは、おそらく意図的だ。

「な、なに……っ」
「倒れたのとか、色々仕方ないこともあったみたいだけど。そんなに無防備でいると、襲われても文句言えないよ」
「おそ、われるって、」
「今ぼくがやってるみたいに、簡単にコトを運べるってこと」

 身体を守っていた布団はいつの間にかベッドの端へと追いやられ、一彰の手がするりとお腹のあたりを数回撫でた。ブラジャーのすぐ下のあたりに触れられたときは更にぞくぞくと背中に変な感覚が走って、身体と顔が熱くなる。目の前にいるのはただの幼馴染のはずなのにまるで知らない男の人のように映って、すこしだけ怖い気もする。

「他の男に、簡単に触らせたりしないでよ。嫉妬でおかしくなりそうだから」

 一彰はわたしの僅かな恐怖に気付いたのだろうか。最後にそう言って布団をばさりとかけてくれた。そっとおでこに手が添えられる。あまりに心臓がうるさくて、「まだ熱ありそうだね。氷枕持ってくるよ」という一彰の言葉がやけに遠くから聞こえたように感じた。隠岐くんのときといい今の一彰といい、この熱が本当にただの風邪の所為だったなら、どれだけ良かったことか。





「……そういえばさ、一彰と隠岐くんって仲悪かったっけ。順位近くてライバルだから? 」
「……まあそうだね。手強いよ、色々と」

 一彰はいつもよりちょっと下手くそな笑顔で、わたしの頭を撫でた。それが心地よくて目を閉じれば自然とやってきた睡魔に、おとなしく身を委ねる。

「ほんとに手強いのは、こっちなんだけど」

 透明な壁を数枚隔てた先から届いたようなかすかな声はわたしの眠りを妨げることはなく、鼓膜の熱で溶けて消えた。





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