たとえばそういう関係だとしたって、体勢だけならただ甘い時間を過ごしているだけに見えたって、自分よりそこそこ背が高い人間に言葉もなく見下ろされたら、やっぱりそれなりに怖いと思う。

さっきから何も言わない王子は、怒ってるのか拗ねてるのかそれともそのどちらでもない何かの感情を抱いているのか、本当によく分からないまま、わたしを自隊の作戦室の壁に追いやっている。

別に壁に押し付けられているとかではなく、抱きしめられているとかでもなく、ただやんわりと逃げ道を塞がれているような感じだ。たぶんわたしの腰のあたりで王子の手は組まれていて、つまりはその長い腕で作られた輪っかの中にわたしがすっぽりと収まっているような体勢。たぶん振り解けないことはないし、その瞬間に換装すれば逃げられるけど、その瞳がなんとなく寂しがっているように見えたから、わたしはきっとどこかおかしい。

「きみの彼氏はぼくだよね」
「……一応、そうだね。王子クンはモテるから他にも彼女いるかもしれないけど」
「カゲと仲良いの?」

王子は、真の性格はさておき、基本的に聞き上手だ。それは学校生活においても合同任務においても、常に感じていること。それなのにこんな風なちぐはぐな会話しか成り立たないということは、どこかしら余裕を失っているということだろう。珍しいこともある。恋愛経験に長けた王子に、彼氏いない歴=年齢マイナス3ヶ月のわたしが振り回されるのが、この嘘みたいな関係の標準装備なのに。

「なんでカゲが出てくんの」
「カゲだけじゃないけど。二宮さんとも仲良さそうに話してたよね」
「稽古つけてもらってたからだよ」
「……ぼくが教えるのに」
「ハウンドを? 確かに王子だって上手いけど、本職じゃないでしょ」
「本当にそれだけ?」
「はあ……?」

王族だの貴族だのと言われても一瞬信じてしまいそうな、誰もが羨む華やかな目鼻立ちと明晰な頭脳を持った男が、バレンタインには大量のチョコレートをもらって「ありがとう」なんてアイドルみたいな笑顔で受け取る男が、そして、3ヶ月前わたしに、「すこしの間、女の子除けのための偽物でいいから、ぼくの彼女になってくれない?」などという非常識なことを、さも常識を語るように悪気なくのたまった男が。まるで、わたしなんかを自分のものにしたいような、そのために探りを入れるような、そんなことを言葉にしているというのだろうか。

にわかには信じられないし、そんなことをすぐ信じるほどわたしは馬鹿ではない。トリオン量みたいなものだ。生まれ持っての素質には差があって、わたしと王子の間には、能力すべてに開きがある。恋愛に関しても、そんなものだ。王子はそれを利用して、自分に群がる女の子たちを無下にあしらい断ることと、わたしを適当に側に置くこととを天秤にかけた。後者をとったその選択は、まあたぶん正しい道の一つなんだろう。

それなのに何を今更。わたしが誰と話そうが、誰に稽古をつけてもらおうが、王子には関係ない。現に今まで、何も言ってこなかったのに。

「二宮さんのことが好きなの?」

その気になればいわゆるファーストキスさえ奪われなくもないような距離にありながら、王子はわけのわからないことを聞く。偽物として付き合ったこの3ヶ月、人前で優しく微笑まれることはあっても、手を繋いだりキスをされたりしたことはない。そのくせ王子は常に女の子と一緒にいた気がする。

つまり、わたしたちの関係の希薄さを考えると、今のこの状況すらおかしいくらいなのだ。それなのに更に理解も返答もし難い問いかけが降ってきたものだから、わたしの脳は混乱から抜け出せない。

「……もしそうだったとしたら、何。王子には、関係ないでしょ」

だからだろうか。思ってもいないことが半分くらい混ざった言葉が口から零れて、それがなんとなく空気をひやりとさせて。するとわたしを見下ろす王子の瞳が、確かにふっと歪んだ。

「鈍感って、ある意味死ぬほど残酷だよね」
「……難しいこと言わないでよ。わたしは王子と違って馬鹿なんだよ」
「ぼくと違って馬鹿だったとしても、ぼくはきみがいいんだけどな」

その言葉の意味を噛み砕けたときには、目ががさがさに乾いてしまうんじゃないかってくらいには瞬きの仕方を忘れてしまって、その間に視界が何かに遮られて、くちびるに柔らかいものが触れた。ような気がした。

それはあまりにも一瞬で、次にピントが合って王子の顔が見えたときには、その目元が真っ赤だったから、いつの間に夢に切り替わってしまったのかと我が目を疑った。その更に数秒後、ようやく脳に酸素が巡ると、さっきの行為は紛れもなくキスで、そしてその時わたしの目元は、王子の手のひらで覆われていたらしいということを知る。

「ぼくを好きになりなよ」

カゲも、荒船や鋼や犬飼も、二宮さんもやめて、ぼくを好きになってよ。

顎に手が添えられてまたくちびるがくっついて、だけど今度は瞼を覆う手のひらはなく、代わりに隙間から舌を差し入れられて視界がぐらつく。きっと王子隊のみんなは来ないのだろう。この男にとって、そのくらいの機転はわけもない。いつ息をしたらいいか分からないわたしが懸命に王子の胸を押し返すと、くちびるは思いの外あっさりと離れた。

たとえ友人であっても、好きでもない男に偽物の彼女になってくれと頼まれて、簡単に首を縦に振るほど暇な女じゃないってことには、この男はいつ気付くんだろう。本部で、学校で、明らかに気のある素振りを隠さず微笑む女の子と仲睦まじく話すその横顔を見て、目を伏せて心臓をぐしゃりと掴んでいることなんて、きっとわたしが言わなければ、一生知らないんだろうな。

余裕なくわずかに乱した呼吸や、ほんのすこし赤い頬がいやにW王子様Wらしくないものだから、気がすむまで好きにさせておこうと決めた。言いたいことをすべて言わせて、させたいようにさせて、それからわたしの言葉を手向けたって、きっと遅くない。それこそ、馬鹿みたいに遠回りをしてここまで来たのだから、このくらいの道草は許されるだろう。

とりあえず今ここにいるのは、王子様の猫をかぶった馬鹿な男と、お姫様になんか到底なれない馬鹿な女。それだけ分かれば、十分だ。




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