「もしも俺が死んだら誰かに幸せにしてもらえ、と言うつもりだった」

 何の脈絡もなしに告げられたどこか縁起の悪い言葉に、向かいに座っていた彼女はだし巻きを箸でつまんだままぴたりと固まった。今日あったこと、明日の予定、週末でかける場所、流行りのドラマの話。彼女はそんないつも通りの、何気ない会話のどこにそんな物騒なことに繋がるきっかけがあっただろうかと思考を巡らせるが、当の風間は焼き魚を箸でほぐしながら悠長に咀嚼しているので分からない。どちらかといえばまず間違いなく理論的に生きている部類に入るように見える風間は案外唐突だと彼女は時折思うことがある。まさに今のような瞬間だ。

 しかし最近考えが変わった、と続いた風間の台詞に、彼女は会話に置いていかれている感覚のまま、「なんの話?」となんとか問いかけた。焼き魚のために伏せられていた赤い瞳が、彼女の困惑した表情を捉える。無理もなかった。風間の言葉はそれほど突飛なものだった。魚の香ばしさが鼻をくすぐる中、箸が置かれる。茶を飲んでから、もう一度改めて彼女を見た双眼は、その向こう側を見ているようだったけれども、どこか慈しみに満ちていた。無論、ポーカーフェイスである上に、元々の感情の起伏も人より乏しい風間自身、預かり知らぬところではあるが。

「おまえの料理はうまい」
「……え?急に何……? 」
「急じゃない。いつも思っていた」
「いや、言うのが急だって話なんだけど……」

 彼女の困惑は無理もなく、しかしそれでも風間は引かない。なんとなく、今だと思ったのだろう。ちなみにこのとき、日常的にあまり緊張などするタイプではない風間が、珍しく心臓の音を煩いと感じていたのだが、そんなことはもちろん顔にはでないものだから、彼女が知るはずもない。汲み取ってほしいと思っているわけでもなかった。ただ、風間は話をしたかっただけなのだ。そしてそれを決行する決断に至ったのが今だった。なんの変哲もない日常や楽しさを、何より帰る場所をくれる彼女を、手放したくないと思った瞬間から、風間の心は決まっていた。

「ボーダーの中でも、俺は割と、危険な任務に赴くことがある立場だ」
「えっと、それは……、知ってるよ?詳しくは、聞けないみたいだけど」
「死ぬことも、帰ってこられなくなることも、絶対に無いとは言い切れない」
「………う、ん」

 突然のすこし重苦しい雰囲気に、彼女は思わず箸を置いて風間を見た。相変わらず何を考えているのか分からない表情で、付き合った当初は喜怒哀楽すら読み取りづらかったなあと彼女は思い起こす。彼女はときどき考える。もうどれくらい一緒にいるのだろう。もう何回、この男のいない日を乗り越えただろう。

 風間は彼女にとても救われていると感じ、それゆえにただのときどき会う彼氏彼女の付き合いから、同棲を提案した。しかし、ボーダー関係者ではない彼女に、その内部に関して情報が届くことは絶対にあってはならないことだ。通常の防衛任務も一般的に公表されているごく一部分のみで、ましてや遠征の期間や危険度や、さらに言えば安否すら、知らされることはない。「しばらく会えない」、その一言ですべてを分かってくれと、身勝手なことを彼女に要求してきた自覚はあった。しかしそれでも手離したくないと思ってしまうのだから仕方ない。

「だから俺は、おまえのこの先の幸せを考えれば、ここらで潔く身を引き、おまえに普通の男と結ばれるための道を作ってやることもできるはずだった」
「なに、言って、」
「だが今は、おまえのいない日常を想像することができない」

 毎朝おはようと言い合いたい。おまえの寝顔を毎日見るのは俺がいい。いつでも、おまえの作る飯が食いたい。ときどき魚や揚げ物を焦がして、照れ笑いする顔も可愛いと思う。いつも笑顔でいてほしいと感じるし、自分の手で笑顔にさせたいとも考える。おまえを甘やかしてやるのも、おまえに甘えられるのも俺だけでいい。キスをするのも、抱きしめるのも、その先も、おまえのすべてを知っているのが、俺が最後でなければ嫌だ。

「おまえの一生を、俺にくれ」
「………なんで、いま、言うの」
「すまない。何故か、今なら言えると思った」
「ばか、なんじゃないの、ごはん、っ、冷めちゃうでしょ……っ」
「安心しろ、おまえの作ったものなら冷めても美味い」
「……っ、そういう問題じゃ、ない……」

 風間は立ち上がり、そのままテーブル越しに、涙を隠す彼女の手を掴んだ。目元を赤くしたその様をぼんやりと見つめる風間は、心臓が落ち着くのを感じた。自分と違って、喜怒哀楽が素直な彼女のことだ。この涙が、先ほどの懇願に対して否定的ではないことを、ありありと語っていた。

「……笑顔でいてほしいと言ったが、一部訂正する」
「え……? 」
「たまになら、俺のために泣くおまえを見るのも悪くはないな」

 風間が親指でそっとその涙を拭うのと、彼女が「悪趣味」と言って笑うのとは、ほぼ同時だった。彼女の涙が止まるのと風間が指輪を見せるのもまた同時であり、そして、それから彼女が再び泣き出すのと、風間が指輪を彼女の左手薬指にはめるのも、同時だった。




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