風間さん、彼女できたんだって。

 太刀川がそう言ったとき、やっぱりそうか、なんて可愛げもない感想しか思い浮かばなかったわたしは、やっぱりその人に並び立つ存在として不似合いなんだろう。ぎりぎりB級の平隊員のわたしと、遠征にも選ばれるA級上位の隊の隊長。射手の中の下と、攻撃手の上の上。どんなに控えめに言っても、釣り合わない。知っている。その理屈で言えばわたしと太刀川もそれに当てはまるけれど、なにせ太刀川は頭が悪かった。これはわたしよりも相当ダメな程度なので、ある意味でバランスが取れている。ちなみに同い年の二宮は、それこそ非の打ち所がないように見える外見と中身だが、ちょっとばかり性格に難ありな上、幼馴染である。わたしは、いくら見た目がよく強く賢い奴であっても、性格に一癖のある幼馴染に遠慮するような大人な思考は持ち合わせていなかった。

 ああそういえば、同い年の加古ちゃんなんかは、なんとなく隣に並んではいけない存在な気がする。綺麗で強くて優しくて、風間さんとはランク戦の解説や隊長会議や本部戦略会議エトセトラ、とにかく色んな場面で関わっている。バレンタインのチョコレートを渡しているのも見たことがある。ということは、今年もそうかもしれない。
 そもそも、もしかしたら加古ちゃんは風間さんを好きなのかもしれないし、逆かもしれないし、なんなら両思いなのかもしれない。あれ、じゃあ風間さんにできたという彼女っていうのは、もしかして加古ちゃんのことなんだろうか。ありえない話じゃないだけに、心臓の内側が火傷で爛れた。嫉妬なんて、していい立場にわたしはいない。いないけれど、やはり夢というものは見るものらしい。風間さんの隣に並べるよう、すこし大人っぽい服を着てみたり、大人っぽい落ち着きを目指してみたり、ランク戦を頑張ってみたり、どれもこれも、背伸びをするための手段を片っ端から拾い上げて試している。風間さんはそんなことで評価を変えるのではなく、好きになった人がタイプ、という思考の持ち主だと、なんとなく分かっているけれど。

 わたしが風間さんにお会いすることはほとんどない。わたしが一方的に風間さんを見かけることはときどきあるけれど、彼の隣にはいつも、とても耳のいい彼の右腕(右腕というと二人いるけれどその内のすこし気難しい方)がいるので、下手に近づこうものなら心拍だの呼吸の乱れだので確実にばれるだろうし、たぶんばれたら今後、風間さんに近づく女というブラックリストに載ってしまう。それだけは勘弁してほしい。そっと見つめるくらい、許してほしいのだ。



 耳が焦げるような感覚を人生で初めて味わったのは、それからしばらくした今朝のことだ。
 珍しくボーダーに支給された簡素な端末が鳴ったので画面を見れば、着信は「B-001 二宮匡貴」。太刀川なんかは仕事もプライベートも、スマホと端末がごちゃごちゃになっているけれど、二宮はそうではない。ということは、業務連絡、ないし緊急連絡ということだ。それにしても、わたしは今日は夜勤だから夕方には本部へ行くというのに、そのときでは遅い要件なのだろうか。すこし緊張しながら通話ボタンを押して「もしもし?」と平静を装って応答すれば、二宮ではない声が電話の向こうで答えた。

『風間だ。突然すまない』

 今大丈夫か、と続いた言葉に、しばらく返事ができない。かざまだ。もう一度反復するも、脳が起きない。だって端末の名前は、二宮匡貴なのだから。

『……もしもし?』
「あ、だ、大丈夫、ですけど、なんで二宮の……?」
『俺の端末はメンテナンスに出していてな。すまん、驚かせた』
「そう、なんですね」

 夢かもしれないと思った。風間さんと電話で直接連絡を取るなんて、いや、そもそも風間さんがわたしを知っているかどうかも、定かではなかったのだ。でも、二宮に借りてまでわたしに連絡がきたということは、一応はわたしを知っていてくださったんだろう。それか二宮に、あの頭の軽そうな幼馴染の名前を教えろとか、そういういきさつで知ったのかもしれない。この際それでもいい。ありがとう二宮。性格に難のある、なんて言ってごめん。

『それで、要件だが。夕方ごろに本部に来る予定でいるかもしれないが、もう少し早く来ることはできるか?』
「あ、はい、大丈夫、です」
『そうか。明後日の合同任務の打ち合わせをしたい。よければ、うちの作戦室に来てもらいたいんだが』
「えっと、承知、しました」
『よろしく頼む』

 耳が熱いままに、何の変哲もない通話は終わった。終始業務連絡なのに、そんなものは当たり前なのに、わたしの心臓はなかなかおとなしくなってはくれなくて、講義のあとすぐに大学を飛び出した。なんて単純なんだろう。自分はもう少し繊細な心を持っていると思っていたが、その見込みは甘かったようだ。「承知しました」なんて、変にませた(日本語としては寧ろ普段からこれを使わなければいけないが)言葉で、了解の意を伝えた自分に、すこし笑ってしまう。すべては、風間さんに追いつくためのひとつの無駄な努力だ。




「失礼、します」
「ああ。悪いな、呼びつけて」

 入ってすぐ、部屋の空気が風間さん一人のそれのように思えて、踏み入れた足が半歩で止まった。事実、そこには風間さんしかいなかった。A級部隊の作戦室なんて滅多に入らない場所なのに、更に菊地原くんや歌川くん、三上ちゃんまでいないとは。菊地原くんにはなんとなく、嫌われてもいないが好かれてもいない、そんなオーラを感じるので、居心地としてはちょっぴり苦めのスパイスかもしれないけど、それでもいて欲しかった。みんなで食べてください、と差し出すつもりだったバレンタインチョコだってあるのにな。一応、その他に、すこし綺麗にラッピングされたお高いブランドのチョコレートもあるけれど、シックな黒い箱に青いリボンが巻かれているそれが、日の目を見ることになるかどうかは未定だ。そういえばなんとなく、この人の隊服にすこし似ている。


 話がひと段落したとき、わたしはどうしてか、口にしていた。

「風間さん」

 わたしの声は震えてはいなかっただろうか。そう思ったところで、名前を呼んだ事実は変わらないし、言葉を取り下げることもできないから、一音一音を野放しにしたまま時間は進む。戦闘のときとは違う、涼やかながらに優しげな目元や、無表情の中に穏やかさのある表情そのものが、資料に落としていた視線を上げてわたしを見る。ほんの少し首を傾げて続きを促すその赤い瞳の優しさに、つい口が滑ってしまったのだと取り繕えば、あとから自分自身への言い訳にできるだろうか。

「なんだ」
「わたし、風間さんのこと、好きでした」

 瞼が大きく見開かれるその顔は、ランク戦で太刀川や当真あたりがこの人の予測を超えた何かをしたときくらいしか見たことがない。わたしはたとえランク戦で当たってみたってこの人にそんな風に奇襲を成功させたことはないし、元々多少の驚きや動揺は表に出さないひとだ。そんな人が今、そんな無防備さを見せている。馬鹿なことを言った馬鹿なわたしにも、分かるほど。

「たぶん、これからも好きだと思います」
「……。すまない」
「いえ。……これからも好きでいることだけ、許してください。ごめんなさい」

 つらつらとそれらしいことを述べたわたしは、中断してすみません、とまたもや真面目さを猫被りして、続きを促した。風間さんはその後ずっと、書類だけを見ていた。わたしは、そんな風間さんだけを見ていた。ただそれだけで、この恋は初めから叶わないと、神様が嘲笑った気がした。カバンの中の2種類のチョコレートは、自分へのご褒美と、失恋記念に食べてしまおうと決めて、今まで通りの振る舞いを心がけた。もう過ぎたことだ。わたしにとってのバレンタインは、このほろ苦さだけで十分だったのだ。





 風間さん、彼女と別れたんだって。

 なんだか一年前くらいに、同じような言葉を、同じ人物から、聞いたような気がする。いや、今日はホワイトデーだから、プラス1ヶ月前かもしれない。
 わたしの右手薬指には指輪があって、わたしの誕生日にそれを贈った男とは、数ヶ月前に、幼馴染から恋人になったばかりだ。ちなみに目の前の男は変わりなく、友人のまま。戦闘時には誰より頼もしく、頭は相変わらずダメなまま。

 耳から脳にその情報が伝達されるまでの一瞬に、ドラマでよくある、写真の角に火を点けてじわじわと燃えていくさまを思い浮かべた。わたしの一年前の恋はきっと、それだったのだ。火は燃え尽きるまでゆっくりと広がり、ではすべてが燃えて火が消えたあとはと言えば、灰がくすぶっては暗く光る。


 過去の話だ。あれはあれで綺麗な、純粋な恋愛だった。だから、風間さんが彼女さんと別れたところで、わたしには何も関係がないのに。わたしは今は、匡貴と付き合っているのに。匡貴の、彼女なのに。

 どうして、この人とこんなところにいて、こんなことをしているんだろう。


「ん、ぅ……っ」
「………っは、……」
「……んっ…、ふ……」

 押し付けられた唇が熱い。水音とともに絡む舌が熱い。時折漏れる吐息が熱い。シーツに縫い付けられた手首と背中が熱い。
 何もかもが熱くて、溶けてしまいそうなのに、胸の中はひどく冷たい。燃えるような赤の瞳と視線が交錯すると、わたしの身体は更に熱くなり、わたしの心は更に冷えていく。心臓の奥の奥、どくどくと脈は早いのに、凍ったように重い、鉛がそこに居座っている。これはなんだろう。焦燥?罪悪感?そんなもの、感じる権利すら持ち合わせていない。
 だって、嬉しいのだ。匡貴のことは確かに好きなはずなのに、瞼の裏にあのすこし愛想のない端正な顔が、この人とは対極な長身が、確かに浮かぶのに。

 この人とキスをしていることが、この人と今から身体を重ねるであろうこの状況が、どうあったって嬉しいのだ。ずっと目で追いかけてきた。自分などこの人の眼中に入っていないことくらい分かりながら、バレンタインデーに則ったって義理チョコすら渡す資格もないほどわたしの想いが不要なものと知りながら。それでもまだ視界の端にこの小柄な身体を、幼く見える横顔を、射抜くような強い瞳を置くたび、わたしの心臓は嫌な音を立てて軋んでいた。それは、匡貴がわたしに好きだと告げて、わたしを彼女にしてくれてからも、きっと変わらなかった。それを受け入れたわたしは、とんでもなく酷い女だ。匡貴に言わなくちゃ。せめてこの人と一線を越えてしまう前に、ごめんって言って、匡貴を自由にしてあげなくちゃ。そう思うのに身体は風間さんの指と舌でどくどくと脈を速めて、呼吸を狭めて、ああ、だめだなあ。脳が諦めの色を見せて、わたしはいつの間にか涙をひたりと流していた。
 ごめんね、こんな浮気どころか、そもそもちゃんと愛を返すことができなくてごめん。幼馴染の顔を思い浮かべて、交わる大きな赤の瞳を見つめる。あの広い背中を瞼に置いて、小柄な背に手を回すことの、なんと滑稽なことか。

「……いいのか」
「……ずるいですね。ここまできて、そんなこと、言うなんて」
「……そうだな」

 ずるいですねなんて、どの口が、と叱ってくれたならまだ、引き返せたかもしれない。だけど風間さんは優しいから、わたしにとっての最善はと、熱の混じり合うこの空間で真剣に考えてくださっているのだろう。自分が一丁前に、誘うような瞳でこの人を見つめてしまっていることくらい、わかっている。風間さんのせいじゃない。わたしのせいなのだ。背伸びして調子に乗って、そういうことをしてでもこの人を望んだ、自分が悪いのだ。風間さんの優しさと本能につけ込んだ、自分の弱さがいけないのだ。

「好きです、風間さん。これからもずっと」

 幼稚な思考回路の果てに溢れ落ちたのは、卑しいくらい純度の高い愛の言葉。風間さんは目を伏せて、「すまない」とあの日と同じように呟いた。今日はホワイトデーなのだから、いつもよりすこし優しくなってくれてもいいのに。なんて、風間さんがそんな男ではないことくらい知っている。
 わたしは今から、何を得て、何を失うのだろう。その答えにはきっと、すべて失ってから気付くに違いない。




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