この思いは絶対に誰にも気付かせない。万次郎がいつか誰かと幸せになる日まで誰にも言わず誰にも悟らせることなく内に秘めておいて、もしもそんな日が来ないならその時は、一滴すら残さずに墓まで持っていく。
「なまえ、一緒に寝て」
「うん」
たとえばドラケンくんみたいに、万次郎を支える相棒にはなれない。エマちゃんみたいに、心の穴を埋める存在になれない。場地くんみたいに、対等な親友になれない。創設メンバーを中心とした東卍のみんなみたいに、彼にとっての最高の瞬間を分かち合える仲間になれない。
「なまえ、おやすみ」
「……おやすみ、万次郎」
わたしにできることは、時々真一郎くんの代わりになることだけ。外ではマイキーと呼ぶけれど、彼が泊まりに来た時はこの家の中では万次郎と呼ぶ。彼のお気に入りであるタオルケットの端っこを掴んで、私を腕の中に抱いて眠る。
いつだったか、わたしがいないと深く眠れないんだと万次郎が言った。嬉しいような悲しいような複雑な気持ちだったけど、彼からこの温もりを取り上げることがないよう、そっと抱きしめ返すようになった。
わたしと万次郎は恋人同士じゃない。昔から同じ道場に通っていた近所に住む幼馴染で腐れ縁。今はわたしがおばあちゃんの住む家に引っ越して少し遠くなったけど、それでも徒歩で会える距離。
二つ下の万次郎は当時から頭ひとつ抜きん出た存在感を持っていて、学校でも道場でもとにかく目立つ存在だった。その時の万次郎は常にとは言わないけれど友達の前では明るくて元気で、楽しそうだった。
いつからこうなったのか正確な暦は思い出せないけど、彼の兄がいなくなってからだということは確実に分かる。色んな人が彼を支えてくれていて、仲間とともに一見立ち直ったように見える万次郎は、いつも見えない何かを手繰り寄せては絶望しているようだった。
最初に一緒に眠ったのは、雨の日に万次郎が家を訪ねてきた時だった。
「なまえ」
「マイキー……?」
「お前は変わんないで。いなくなんないで」
変わらないというのが何のことについてなのかわからなくて、だけど分からないとは言えなくて。わたしはただ「変わらないし、いなくならないよ」と答えた。それから万次郎は週に2,3回ほどわたしの家を訪ねてきて、わたしの部屋で眠るようになった。
これも正確な時期は思い出せないけれど、寝ようと言われて引き寄せられてその胸に頭を預けた時、いつの間にか硬い男の子の身体になっていた。わたしの名前を呼ぶ声が変声期を経て少し低くなって、優しく落ち着いた声色で呼ばれるようになった。笑顔が柔らかくなり、目元がどこか大人っぽくなった。
万次郎はわたしに変わらないでと言った。自分はどんどん変わって大人になっていくくせに、わたしには変わるなと言う。ちょっと残酷だ。
たとえばわたしがこの習慣を突っぱねればきっと全部終わる。そうしたらもうこんなことしなくていい。恋人でもない幼馴染との添い寝なんて普通じゃないって、頭では分かっているのにそれができないのは、弟みたいに思っていた万次郎のことを親愛以上に好きになってしまったからだろう。
万次郎はきっと知らないだろうな。わたしがその逞しくなった腕の中に抱き寄せられる度、速くなる心臓の鼓動と戦っていること。その匂いを吸い込むたび、顔に熱が集まって仕方ないこと。朝起きてぐっすり眠るその寝顔を見るたび、泣きそうになってること。
高校に進学してから2ヶ月、学校で男の子に告白された。あまりよく知らない、中学の時に一回だけ同じクラスになった男の子。「中学の時からずっと好きだったんだ」と真っ赤な顔で真っ直ぐにわたしを見ていて、そんなに話したこともないわたしのどんなところを好きなのかはわからなかったけれど、少し心臓がどきどきした。
告白されたのは初めてだったから、「少し考えさせてください」と言ってその場を乗り切った。落ち着いて記憶を遡ってみても、誰かに好きと言われたのなんかわたしに懐いてくれていたエマちゃんに幼少期に言われたぐらいで、異性から言われたのはたぶん初めて。とくとくと心臓が鳴るのを誤魔化すため、深呼吸をした。
たとえばあの人と付き合ったら、普通の恋人同士になれて楽しいかもしれない。時々お昼ご飯を一緒に食べたり、部活を応援しに行ってみたり、なんでもないことでメールしたり、そんな青春を過ごせるかもしれない。
抱き枕にされることも、食べかけのアイスを勝手にかじられることも、万次郎を狙った不良に絡まれることもなくなって、それから。
「なまえ?」
考え込んでしまった、と思った時にはもう遅い。電気を消した月明かりだけの暗闇の中で、万次郎と目が合っていた。
おやすみ、と言うところまではいつも通りだった。そうしていつも通り万次郎の腕の中に引き込まれて、いつも通り心臓が少し忙しなくなってから、やがてぼんやりと眠気が降りてきたタイミング。そのタイミングで、今日の告白のことを思い出してしまった。
「なに、万次郎」といつも通りを纏ってみたけれど、その黒い目は訝しげに細められたままだった。
「何かあった?」
「あ、ううん。なんでも」
「俺には言えねぇこと?」
言えることか言えないことか。その二択なら前者かもしれない。言いたいか言いたくないかで言うと後者だけど、きっとそんな事情やわたしの意思は万次郎には関係ないこと。口を割るまで逃がさないと言外に目で訴えられ、言葉を選ぶ余地もそれほど与えられていない心地だった。
「ちょっと今日、高校で告白、されて」
「あ?」
「え?」
幼く見える風貌、見た目相応の趣味趣向と行動。強さと抱えた闇は年不相応だと思うけれどそれでも側から見れば子どもらしい万次郎は、だけどそれでいて視野が広くて、そして意外と聞き上手だ。
だから間髪入れずに切り返されたのは少し意外で、つい驚きの声が漏れてしまった。感嘆符が私たちの唇を往復しただけのこの数秒間で、どうしてか部屋の空気がひやりとしたものに変わった気がした。
「断った?」
「え? えっと、迷ってて、保留中っていうか」
「保留……?」
異を唱えられる予感がなかったわけじゃない。拗ねたり嫌がったりというのは寧ろ、WマイキーWとしての一面だけを知っている人間ですら予想できること。自分のものを取られるのを嫌がる類いの人間だ。物でも人でも、玩具でも友達でも。だからわたしのことを誰かに取られたくないとそっぽを向く姿を想像していた。それは間違いなくそうなんだけど。
「万次郎……?」
「なに」
「えっと、寝ない、の……?」
「寝ようと思ってたよ」
さっきまで抱き込まれて眠っていたはずが、いつの間にか覆い被さるようにしてわたしと天井の間に万次郎が隔たり、両方の手首はその手に縫い付けられてマットレスに沈み込んでいた。心臓が早鐘を打つ、という言い回しの秀逸さを身をもって知ることになるなんて思わなかった。
「俺、なまえのこと大事にしたいと思ってたんだよ?」
「え……」
「でも、やっぱりそれだけじゃ駄目なんだなって分かった」
大事にしたいと思ってた、だけどそれだけじゃ駄目。
何が駄目なのか、どうして駄目だと思ったのかが分からなくて、ただ万次郎を見上げることしかできない。その眼は真っ黒で、夜だからなんて理由ではその色を肯定できない気がした。だってこんなに暗い部屋でも、その髪は鮮やかだ。
「その告白してきたヤツと付き合ったらさ、キスしたり手繋いだりして、いつかはセックスだってするんだろ」
「っなに、言ってるの」
「その時にさ、俺のこと思い出して」
まんじろう、と言いかけ開きかけた口は塞がれ、考える暇もなくぬるりと舌が温かな感触に包まれてなぞられた。ベッドに押さえつけられた腕はびくともしなくて、わたしとそう変わらない身長なのに今はまるで大人の男の人にのし掛かられているみたいに感じる。ぎゅうっと力一杯瞑った眼は、それでも瞼の外の金色を映している気がする。
上顎をなぞるように舌がうごめくと、脳の裏側が震えるとともに鼻にかかったような声が漏れた。唇を食まれると、万次郎の歯が当たる感触がぞくぞくと背骨を上り詰めてたまらなくて、背中が浮いたような感覚すらあった。
どれぐらいそうしていただろう。時々艶やかに響く水音や、恥ずかしくなるほど甘ったるいリップ音が部屋を埋め尽くすんじゃないかってぐらいキスが繰り返されて、ようやく離れる頃にはそこそこ息が上がっていた。自分のペースで呼吸できることに安堵を覚える。
万次郎も少し息を整えていて、それが随分と新鮮だと思った。どんな喧嘩でも息一つ乱さないんだと三ツ谷くんが言っていた気がするので、そのせいかもしれない。
「万次郎、待って」
「ヤダ」
「やだって……」
さっきわたしを翻弄していた唇が首元を掠めた。その呼吸を皮膚で感じてしまって、肌が震える。
「彼氏欲しいなら俺でいいじゃん。なんでフらねぇの」
万次郎の言葉があまりに直接的な響きであるように聞こえて、都合の良い耳を嗜めたい気持ちになった。自分の物を取られるのを嫌がっている。ただそれだけだ。だからそんな訳ないと否定するわたしの脳に追い討ちをかけるようにして、耳元に万次郎が擦り寄った。鼻先か何かが耳朶に触れていることに気付く。わたしと万次郎の心臓もくっ付いているような心地がして動けない。
「そいつが好きって言ったから?」
「え、」
「もし俺が先に言ってたら、そいつのことすぐフってくれてた?」
耳の奥で反響する声。先に言うって何を? 混乱するわたしに構わず、万次郎の手のひらが服の上からお腹のあたりに触れた。そのまま横腹をなぞられて、ぞわぞわと快感が走る。そんなところを男の子に触られたことなんかないから仕方ない、なんて言い訳を心の中で呟く。
好きと言われれば嫌でも意識してしまう。それは否定できない。確かにあの日、Wよく知らない男の子Wだったその人は、Wわたしを好きだと言ってくれた男の子Wになった。
彼氏が欲しかったわけじゃない。ただ、どうせ好きな人と心から結ばれないならそんなのは終わりにして、好きと言ってくれる人の手を取ってみたほうがいいんじゃないかって。その人をいつか好きになれたら、それで好きだった人のことを忘れられるなら、そっちの方がいいんじゃないかって、そう思っただけ。
「もう、放っといて」
「………」
「万次郎には関係ないでしょ」
「……俺は」
「寝ないなら帰るから」
わたしを見下ろす万次郎を押し退けてベッドから降りようとすると、後ろから縋るように身体に回された腕。
「……マイキー」
「万次郎だし」
「……、万次郎」
「ヤダ」
「まだ何も言ってないよ」
「ヤダ」
腕力の差は歴然としたものがあるはずだけど、やろうと思えば振り解けるような控えめな力に少しだけ可笑しくなってしまった。子どものように駄々を捏ねるのは、『無敵のマイキー』じゃなくて、『佐野万次郎』そのものだ。みんなの知るマイキーじゃなくて、わたしだけが知る万次郎だ。
結局、好きになった方が負け。だからわたしは一生勝てない。ため息を吐いたら幸せが逃げるというけど、ならわたしが今吐き出した幸せは万次郎へ届くとでもいうのだろうか。
「……万次郎、もう寝よう」
「………」
「ね?」
「…………ん」
結局いつも通りに眠ることになって、ベッドから落ちないようになるべく万次郎の腕の中に擦り寄る。さっきまで脳裏にチラついていたあの男の子のことは頭の片隅に追いやられ、代わりに閉じた瞼の裏には、わたしを見下ろす万次郎の顔が浮かんでいた。現金な頭だと思う。
暫くしたら寝息が聞こえてきてホッとした。さっきの唇の感触を忘れるように、服越しにその心臓へ口付ける。
「だいすき」
言葉にしてしまえば、ひどく単純なものだった。万次郎が真一郎くんに遺したものは肉親としての愛情だったのに、わたしのこれはそんなに綺麗なものじゃなくて、結局人は誰かの代わりになんかなれないんだなと思いながら、重くなる瞼に抗うことなく意識を手放した。
▽▲▽▲▽
自分の腕の中から寝息が聞こえてきて、余計に目が冴えた。俺の大事なタオルケットはこのベッドのどこかにあるはずで、いつもならなまえを抱きしめながら寝ていても絶対にその端っこを引っ掴んでるけど、今はそれどころじゃない。咄嗟に寝たふりをしたもののまったく眠気はやってこなくて、するとなまえが擦り寄ってきた挙句「だいすき」と呟いた。
その後に寝息が聞こえてきたから、夢を見ていて寝ぼけたわけじゃないと思う。たとえば誰かと間違えられたとしたらそいつのことは多分殺してしまうと思うから、考えないことにした。
「……なまえ」
特別なその名前を呟く。思ったよりも小さな声で呼べてホッとした。
起こしたいわけじゃない。だから別に名前を呼ぶ必要なんかなかったけど、ただ、俺だけがどくどくとうるさい心臓を持っていてなまえは呑気に眠っている。それがなんとなく気に入らなくて。
さっき、自分に無理矢理キスした男と寝るか? 普通。さっきまでの俺は本気で犯そうと思ってたんだけど、その辺分かってんのかな。
もし無理に迫ってみたとして本気で拒絶されたらムカつくし嫌だけど、それはそれとして危機感がないのはイラつく。そんなんだから、小学校でも中学でもずっと俺がそばに居たのに、たかが進学したぐらいで俺の手から離れたとか思って調子に乗って告白なんかしてくる馬鹿が湧く。
なまえは俺の。ケンチンや場地や三ツ谷にだって触らせたくない。他の男なんかもっと嫌だ。
目を細めてくしゃって笑う顔も、喧嘩の後に心配そうに俺を見る顔も、エマを妹みたいに可愛がる優しい目も、今みたいな降りた瞼も長い睫毛も無防備な寝顔も全部、俺のもの。
「眠れねー……」
キスした時の感触とか表情とか、合間合間の吐息とか鼻にかかった声とか、考えないようにしても思い出すし、それだけで眠気が何処かへ吹っ飛ぶ。
そもそも今まで、どうやってなまえと寝てたっけ?
「俺もダイスキって言ったら、ずっと俺と居てくれんのかな」
なまえの規則正しい呼吸はそのままで、たぶん起きちゃいないし聞こえちゃいない。だけど言葉にしただけでめちゃくちゃになまえのことが欲しくなって、腕に力を込めて抱きしめた。
明日の朝起きたら、おはようの次に言ってみよう。それで手に入るなら何回でも言う。告白してきた高校のヤツの記憶なんか全部上書きするぐらい。
ずっと昔、変わるなって言ったはずだ。なまえが覚えてるかは知らないけど、忘れたぐらいで俺から離れられるなんて思ってるなら、そんな考えは改めた方がいい。この先一生俺のそばにいないと許さないし、そもそも他の奴のところへ行くなんて、この俺が赦すわけないんだからさ。
title by 失青