※真一郎生存平和if







「ワカのこと、諦めることにした」

 わたしの言葉に、バイクをいじっていた真一郎くんはピタリと手を止めてこちらを見た。目をまん丸くして驚く表情は、とても元暴走族の総長には見えない。

 幼馴染という言葉でまとめられるなら、そこに収まる感情までを飼い慣らしていたかった。
 幼稚園から一緒で家も近くて、若狭ことを何でも知った気になっていた。そうじゃないと気付いたその昔から、若狭は女の子に人気があったように思う。
 綺麗な顔をしていて、普段からあまり笑わないけど時々見せる笑顔は少しやんちゃ。運動神経もよくて頭の回転も早くて、誰をも従えるカリスマ性というのが幼少期から片鱗としてあった気がする。たくさんの女の子が彼に告白しては振られていたのを知っているから、怖がりなわたしはそんな女の子の一人になれなかった。

 喧嘩をし始めたのも、強くなってすぐに頭角を表したことも風の噂で知っていた。だけど気付いたら東関東を纏める総大将なんてものになっていたなんてことは後から知らされて、ますます遠くなった距離。それでも好きで好きでどうしようもなくて、一度だけ告白をしようとしたことがあった。そのとき、当時の若狭の側近とも言える人と若狭本人の会話を聞いてしまった。

「──ヨメな訳ねぇだろ。アイツはただの幼馴染だ」

 何の脈絡もなくそこだけ聞いたら、100%自分のこととは考えずにどうにか気持ちをぶつけられていたと思う。一応その時は、当たって砕ければいいって気持ちだったから。
 だけどそれまでの話でわたしの名前が挙がっていて、だからこそつい盗み聞きを続けてしまった。その結果がこれだ。わたしの初恋は泣かず飛ばずな上に砕けることもなく、かといって枯らすこともできないまま仕舞われた。

 幼馴染。若狭にとってのわたしはそれ以上でも以下でもなくて、だからわたしがこんなことを考えてしまってるのがそもそもの間違いだ。
 だからもう若狭だけを追いかけるのはやめて彼氏を作ろうと思って、大学の時に飲み会の席でなんとなく話の合った男の子と連絡先を交換してみたりもしたけど、やっぱりどこかで若狭と比べてしまって結局、他愛もないやり取りを続けて連絡を取り合うのは長続きしなかった。

 だけどそれも全部、今日で終わり。

「……なんでまた。あんなに好きだったろ」
「ん、まあなんか、疲れちゃって」
「疲れた?」
「だって、何してももう、……実らないん、だから、さ」

 家で散々泣いたのに、またぽろぽろと涙が出てきていっそ笑える。笑えてきちゃうなって頭では思うのに涙が止められないのでままならない。真一郎くんが慌てているのが気配で分かる。早く泣き止まないと、と思って何度も目を擦った。

 頑張れば振り向いてくれるかもしれないって、思ったことなら何回もあった。若狭にそういうことをする関係の人がいるかもしれないってこともなんとなく考えたけど、彼女ができた話は聞いたことがなかったから、特別な存在っていうのはまだいないんだって思ってた。

 だけどこの間、この真一郎くんのバイク屋で若狭が誰かと電話している時。若狭の口から「姫」というワードが出てきて、あぁいつの間にそんな大切な女の子が出来たんだろうって思った。わたしはそこでようやく、諦めるという選択肢を改めて選ぶことに決めた。

「な、泣くなって……!」
「……っ、ごめ、大丈夫。仕事の邪魔してごめんね、話せてすっきりした」
「いや、それはいいけど、……その、実らねぇってのは」
「いいの。本当にごめん、もう帰るね」

 真一郎くんの声は不思議だ。優しくて温かい。もう泣かないと決めていたはずなのにその声を聞いているとまた泣けてきそうで、無理やり会話を切り上げて店を出る。出ようとした。

 俯いていたせいで誰かにぶつかってしまい、反射的に顔を上げればそこにいたのは、さっき諦めると決めたばかりの幼馴染だった。

「……えっ、と、ごめん。前見れてなかっ、」
「泣いたのか」
「え?」
「誰に泣かされた。真ちゃんか?」

 いつの間にか手首を捕まれ、目を合わせられた。「違うよ」「じゃあなんで泣いてた?」「大丈夫だから」「泣いてた理由を聞いてんだけど」と少しも進まない押し問答が続く。
 触れられたところが熱い。心臓が痛い。ここにはわたしと若狭の二人だけがいるだけだけど、わたしのせいで周りの気温はきっと初夏ぐらいにはなっていそうだ。

「そんなの聞いてどうするの。ワカには関係ないよ」
「………、ふぅん」

 納得したような素振りを見せながらも、手は離されない。痛くはないけれど抜け出せないままだ。若狭の視線があまりにじっと注がれるのがなんとも言えず気まずくて、逸らした目を再び合わせられないでいる。

「……で、もう帰んの」
「え、あ、うん」
「送る。ケツ乗ってけ」

 引っ張られて足が無理矢理動いて、気づけばヘルメットを渡されていた。若狭は来たばかりなのにと言えば、特に用事があったわけじゃないから気にするなと言われてしまっては断れなかった。

 何度も乗せてもらったバイクに跨る。こんな日々も、もうそろそろ手放してしまうべきなんだろう。
 腰に腕を回して、いつもより少し力を入れた。背中にほんの少しだけ頭を預ければ、ヘルメットに阻まれている筈なのに温度を感じる気さえするその背中に胸がどくりと鳴る。黒龍のチームの人達の中には体格の良い人達はたくさんいたけど、わたしの大好きな背中はこの若狭のものだけ。

 信号待ちのとき、「いつもそんな掴まんねぇだろ。スピード落とした方がいいか」なんて聞かれてしまって顔が熱くなった。自己満足のつもりだったのに気付かれていたことがあまりに恥ずかしい。ヘルメットをしていてよかったと心底思った。
 久しぶりだったからつい力が入ったと誤魔化した。信号が青に変わって、前を向いた若狭の顔はもちろん分からない。バイクがまた走り出してから「今日が最後かもしれないから」と呟いた言葉は風に消えた。

 滑らかな運転でわたしの家の近くにバイクを止める。わたしの家には駐車場の類いはない上に道が少し狭いから、開けたこの場所にバイクを置いてから歩いて家まで送ってくれるのが常だった。
 だけどわたしはもう、全部諦めると決めたのだ。

「送ってくれてありがと。まだ明るいし、もうここで大丈夫だから」
「………」
「……ワカ?」

 ヘルメットを差し出したのに、若狭は微動だにしない。伏し目がちな眼が長い睫毛の影の下からわたしを見る、その色が何を訴えているのか分からない。表情にも然程出ない。ただ、機嫌がよくないということはなんとなく分かる。
 それはきっと、わたしと若狭が長く幼馴染みとしてそばにいたからだ。

「最後って何」
「……え」
「さっき言ってた。どういう意味で言ってる?」

 少し苛立っている時、たとえ問いかけるような場面でもまるで疑問符がついていないみたいにぶつんと言葉が途切れるような言い方をするのは、きっと若狭の癖なんだろうと思う。過去にその話し方で女の子に少し怖がられてしまっていた時もあったけれど、わたしは何とも思わなかった。だから今も、特になんとも思っていない。

「ごめん。大丈夫だから」

 質問の答えになっていないことは分かってる。何が大丈夫なのか自分でもわからないけど、その便利な言葉で躱すことしか頭になかった。ただとにかく、若狭は何もしていないので何も悪くない。何もかもひっくるめてW大丈夫Wだ。わたしが自分をコントロールしきれないから、離れようとしているだけ。

 わたしがもっと、強くて綺麗で余裕のあるイイ女だったらよかった。そうしたら女として若狭を振り向かせられたかもしれないし、もしその心が手に入らなかったとしても割り切って隣にいられたかもしれない。若狭の隣で綺麗さに磨きをかけて、若狭の身近な存在のまま他の人を好きになって、若狭の人生と交わらない形で幸せになることができたかもしれない。生憎と、そんな日は訪れることはなかったけれど。

 ヘルメットを若狭のお腹辺りに押し付ける。若狭は反射的にそれを受け取った。腕の中の重みがなくなって、わたしの心も同じように軽くなってしまえばいいのにと思いながら、「ありがとね」と言って踵を返した、つもりだった。

 ぐん、と手首を掴んだのは若狭だった。当たり前だ。ここにはわたしと彼しかいない。だけど一瞬分からなくなったのは、その手が随分と熱い気がしたから。若狭はなんとなく昔から体温が低いイメージがあって、思っていたその温度に違いを感じたからだった。

「オレには何も言えねぇの」
「……大したことじゃないってだけだよ」
「真ちゃんには言えんのに?」

 その言葉に、ずくりと肺が重くなった。もしかして聞かれてた? 知られてた? どこからどこまで? そんな言葉が喉から溢れそうになったのをどうにか堪えて、人知れず細い深呼吸を肺にくぐらせた。

「聞いて、たの?」
「いや。話せてすっきりしたってトコから」
「……そっか」

 まだ大丈夫だと安心して、ほっと息を吐く。もう何もかもを終わらせると決めたから、最後まで知られたくない。
 失恋したその相手とその後もただの友達でいられる人なんてきっと少数だ。新しく誰かを好きにでもならない限り完全に諦めることはできなくて、若狭の隣でもう一度ちゃんと笑うためには、わたしにはまだ出会っていないそのW誰かWが必要なんだから。

 つい、と軽く手を引いてみるけど、手首を掴む力は緩まない。若狭は珍しくこちらを見ずに目を逸らして、視線をうろうろと宙に投げて転がしている。

「実らないとかって言ってたけど。それも俺には言えねぇの?」
「……うん」

 その返事をした瞬間、頬っぺたが何かにぶつかって視界が覆われた。背中から肩にかけて回された腕に気付いてようやく、若狭に抱きしめられていることを知った。

 こんな風にされるのは、たぶんあの日以来だ。ずいぶん昔、わたしのことを若狭の彼女だと思ったのか、敵対する暴走族の人たちがわたしを拐おうとしたとき。真一郎くんが明石くん達を連れて来てくれて、遅れてやってきた若狭がわたしを掻き抱いた。怖かったはずなのにその腕の温度に安心して、微かに震えるその背中をトントンと叩けば抱きしめる力が強くなって、いつの間にか恐怖は霧散していた。

「ちょっと、あの」
「無理」
「え?」
「離せって言うんだろ。だから無理」

 若狭に押し付けていたヘルメットはさっきそれなりに大きな音を立てて落とされていた。アスファルトに揺れて擦れている音がする。だけど今、それを拾える人間はここにいない。

「マジで頭、おかしくなりそう」
「ワカ……?」
「イラつく」

 若狭がこんな風に感情をわざわざ言葉にするのは珍しくて、つい目を見開く。それこそ戦闘狂(真一郎くん談)だった頃まで遡れば何度か耳にしたけど。この場合の苛立ちはわたしへの言葉だろうと思うけど、直接そんな風に言われる経験はほとんどなくて返答に悩む。
 無難に「ごめん」と謝ってみれば、より一層力が込められた。やめてほしい。好きな人に抱きしめられても保てる冷静さなんて、わたしは持ち合わせていないので。

「なまえにじゃない」
「……そうなの?」
「分かんねぇけど、俺よりお前のこと知ってる奴がいんのが無理。それが真ちゃんでも」
「え、あ、真一郎くん?」
「……そもそも、なんで真ちゃんは名前でオレはアダ名? なんで急に若狭って呼ばなくなった? お前ぐらいしかそう呼ぶ奴いなかったし特別だった。俺はそっちの方が好きだった」

 好き、という単語に耳が熱くなる。ちがう、呼び方の話だ。そのW特別Wに特別な意味なんかない。
 期待するな。ここに来るまでの涙で全部溢れて終わったはず。新しい涙をつくるような隙を作っちゃいけない。

 みんなと同じようにワカと呼ぶようになったのは、幼馴染だと言われたあの日から。こうして若狭を諦めようとして何もかもを隠そうとしたのは、若狭が姫と呼ぶ女の子がいると知ってから。
 全部全部、若狭のせいだよって言いたい。だけどそんなの屁理屈だって分かってるから、今はそんな自分本位なこと言いたくなくて。だけどずっとこのままでいるわけにもいかなくて、頭の中で言葉を選んで並べて、唇を開いた。

「ごめん」
「だから──」
「お見合い、するの」
「……は?」

 若狭纏う空気が変わった。だけど口は止まらない。

「そこそこいい年だし、結婚とか考えなきゃって思ってて、だから男友達と距離置こうって思った。これからもワカのこと名前では呼べないし、全部をワカに話すのもたぶんできない。ごめん」

 「だから離して」と言うと、ゆるりと腕の力が緩んだ。ぴったりくっついていた身体に空間ができてホッとする。だけど頭ひとつ分くらいの隙間ができたところで肩を掴まれ、驚いて見上げた若狭と目が合う。その目はさっきの言葉よりも余程、不機嫌と苛立ちと憤りを語っていた。目は口ほどにとはこのことか、なんてことを考える余裕はすぐになくなった。

「どこのどいつ」
「えっ?」
「実るだの実らねぇだの言ってたのはまた別の野郎のことか」
「あ、の」
「……オマエ、オレのこと好きだったんじゃねえのかよ」

 若狭の言葉に、思考がフリーズした。確信したような語気で綴られたそれは、わたしの心の中でぐるりと渦巻いた。

 ずっと知ってたの? わたしの気持ちを知ってて気付かないフリしてきたの。それなのに今、離れると分かったら思わせぶりな行動して、わたしのこと何だと思ってるの。都合の良い女としてキープでもしておきたいの?

 ふつふつと湧き上がる悔しさ、切なさ、微かな怒りと憤り。

「きらい」
「は……」
「確かに好きだったよ。でも過去形だから、もう今は好きじゃない。むしろ、好きでもない女にそんなこと言って、こんなことするワカのことは嫌い」

 俯いたまま言い切ったわたしに若狭は何も言わない。わたしもそれ以上話せることはなくて押し黙る。沈黙を破ったのは若狭だった。

「……もうお前はオレのこと、好きになることはねぇの」
「うん。……ないよ」

 もう際限ないぐらいの好きを抱えてしまっているのだ。わたしにこれ以上はない。これからその一杯で溢れそうな恋心を捨てるから、もう入れ物すらないんだよ。
 そう思って言い切れば、若狭は絞り出すように小さな声で何かを呟いた。何、と聞き返す前に、少しだけ音量の上がった声で言う。

「分かった」
「……? えっと、」
「落とすから」
「え?」
「もう一回お前のこと、落とすから」

 ……………、は?
 自分の言葉が声になったのかどうかさえも分からない。

 若狭の背中に獰猛とすら感じるような、静かな激情を感じる。冗談でも比喩でもなく本当に。さっきまでの不機嫌そうな顰めっ面はどこへ行ったのか、随分と愉しそうなその表情は、昔何度か見たことがある──獲物を見つけた時の、それのようで。

 そういえば昔、何かの折に言っていなかったっけ。あっさり掴めたものより、得るのが難しいものがいい。W手に入らないもんほど欲しくなるWって。

 若狭の指がわたしのこめかみを撫で、耳の縁をなぞり、首筋へと降り。そうしてそのまま、ひたりと喉元へ当てられた。

「逃がさねぇよ」

 形の良い唇が近付き、わたしの頬に柔らかな感触。離れ際に甘噛みするようにしてゆるく食まれたわたしの頬はそれはもう沸騰するんじゃないかってぐらい熱くなったけど、それよりも目の前にある若狭の表情につい冷や汗をかく。

 ──もしかしてわたしは、とんでもない獣を目覚めさせたのだろうか。





title by 英雄




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