彼はわたしを通して誰かを見ている。

 最初にそんな風に思ったのは、ずいぶん前のことだ。ドラマや映画や少女漫画──後者に関してはずいぶん昔の記憶だけど──ではよく聞く言葉だ。まさかそれを自分が体感することになろうとは夢にも思わなかった。
 この梵天で働くにあたって、そんな感情は無縁だとちゃんと理解していたし、そもそも一般人とまともに関わることなんかできやしないことも分かっていた。かと言って反社会勢力に身を置く男との社内恋愛など絶対に無いと思っていたのに、わたしは同じ組織の人間を好きになってしまった。

 幹部の人間同士が色恋沙汰など、いつから此処は一般企業になったのかという話である。オフィスラブなんていう平和で生暖かい言葉は、会社という組織であれば何処にでも当て嵌めていいものではない。

 そうしてこの気持ちを押し留めていたけれど、ある日その当人であるココにサシ飲みに誘われて二つ返事で了承し、当たり障りない会話を心がけることと飲み過ぎないことを心に決めて臨んだというのに、わたしはやらかした。目が覚めたら、内装だけで分かるほど高級なホテルの一室だったのである。ハニートラップは得意分野であったというのに本当に情けない話だ。

「おまえ見た目だけなら儚げ美人だもんなぁ」

 ある日突然蘭に言われた言葉はなんとなく彼らしくなく、その声の調子とニヤニヤした表情から、なんとなく何か思惑があるんだろうと思った。思ったけれど、その時は別にそれだけだった。元より、灰谷蘭という愉快犯に関係を知られた時からある程度揶揄われることは予想していた。

 時刻は22時前。今日は花の金曜日だというのに、報告書だの見積書だのという一つ一つは取り止めのない雑務を行っていたらこんな時間だ。もう一生分くらいは表計算ソフトとにらめっこした、と大袈裟なことを思うのは何度目か。

 ココのいる部屋の扉をノックする。この書類を提出して今日は終わりだ。返事を聞いてから少しだけ深呼吸して、ドアノブを下げた。以前の金曜日なら月末以外は、仕事終わりの時間を合わせてご飯を食べに行っていた。お高いレストランから小洒落た居酒屋、隠れ家的なバーまで。
 今はどうだろう。「書類持ってきた。印鑑が要らない書類はデータで送ってる」「あぁ。そこ置いといてくれ」目も合わない会話、当然のような事務連絡。ディナーに誘われることも当然なくて、ため息を押しとどめて部屋を出た。
 
「倦怠期ってやつ?」
「まぁ、そんなとこ」
「オレが慰めてやろーか?」
「いらない」

 蘭はわざわざこんな場所まで来たらしい。ココの部屋に入ることなく、わたしの後ろをついてきた。
用事があったわけじゃないらしい蘭がやたらと絡んでくることにはれっきとした理由があった。断られることが多くなった。デートも晩御飯も、夜も。もうすぐ月末に差し掛かることを考えると忙しいんだろうと、そんな風に暦のせいにしてしまえたらどれだけ良かったか。

 思い当たる節がない訳ではない。ただそれと確証がもてないだけ。




 結局、奢ってくれるという蘭のお言葉に甘えてご飯を食べて帰ることになった。個室のちょっとお高い居酒屋のような雰囲気はとても落ち着く。梵天幹部といってもは顔は割れていないので、蘭が首元のタトゥーさえタートルネックで隠せば髪型が多少奇抜なだけなので、見ようによっては美容師にでも見えるかもしれない。目立つから個室か貸切が基本だけど。
 適当に頼んでくれたおしゃれで豪華な料理や美味しいお酒を飲んでいても気分は晴れない。W思い当たる節Wについて考えてみる。──やっぱり、髪を何の相談もなしに切ったのがいけなかったのか。

「『乾赤音』」

 蘭から発せられたのは突然だった。

「……、誰? それ」
「はは、その反応。名前ぐらい聞いたことあったかぁ?」

 その名前について、ココから説明されたわけではない。だから誰かは知らない。ただ、聞いたことがあったかと言われれば答えはイエスだった。



 付き合い始めて二ヶ月、何度目かの行為に及んだ夜の、その次の日の朝。彼より先に私が目覚めてベッドを抜け出そうとしたとき、ぎゅっとお腹に腕が回された。普段しっかりしている彼の甘えたようなその仕草にキュンとしたのも束の間、微睡んだ彼が呟いたのは知らない女性の名前だった。
「あかねさん……」
 そう言って再び本格的な寝息が聞こえ、わたしはどうすることもできなくてただその寝顔を見ていた。ココに問いただしたことはない。元カノに多少なりとも未練があるのかもしくは単純に元カノが出てくる夢を見ただけだろうか、ぐらいに思っていた。

「初恋の女だってよ」
「……それ」
「マジだぞー? こないだ九井に無理やり飲ませたら吐いた」

 ゲロじゃねえ方な、と食事の場として似つかわしくない言葉を選んだ蘭は、そのくせやたら上品にご飯を食べるものだから腹も立たない。
 それにしても、初恋の人か。その後の蘭の説明によるとその人はずいぶん昔に亡くなったらしい。その当時のココが何を投げ打ってでもお金を稼いで、なんとしても助けたかった人。お金に拘る今のココを作り上げた人。

「オマエは九井の初恋の女の代わりってこと」
「……顔が似てるとか?」
「雰囲気が似てんだって」

 そう言って向かいの席からわたしの髪を掬ったその指が、頬を掠めた。雰囲気。前に蘭が言っていた、わたしへの評価のことなのだろう。儚げ美人という評価は実際のわたしにはまったく当て嵌まらないけれど、ココにはそう見えていたってことらしい。

「だから九井はやめとけっつったろ?」
「……言ってたね、そういえば」

 ココと付き合っていることが何故か蘭にだけバレたとき、「アイツはやめといた方がいいと思うけど」と茶化すように言われた。その時からこうなることを予感していたような口ぶりだった。だけど恋とは落ちるものらしいので制御できなくても仕方ない。

「まあ聞いてみれば、直接。今のままだとオマエ寂しーだろ?」
「……そうだね」

 この話を知らないで倦怠期だろうがなんだろうが構わずココのそばに居て、そしたらその内いつか関係を修復できるかもしれない。だけどいつくるか分からない幸福を待つほどわたしは行儀よく生きられそうにない。
 そもそも、知らないままなら良かったなんて思わない。だっていつまでもココの眼に映るのが別の人間と知りながら隣にいるのはいつか限界が来るから。人間は欲深いから、最後には好きな人の一番になりたいと思うに決まってる。









「ココ、あのさ」
「……何だよ。今立て込んで──」
「わたしってそんなに似てるの?」
「…………、は?」

 月末月初を乗り切って仕事がひと段落しているだろうタイミングでココの執務室を訪ねて。言葉巧みな彼に躱される前にと思って選んだ言葉は脈絡も何もないけれど、ココは察してくれたようだった。

「アカネさんって人。似てる?」
「な、に。なんで、」
「それか似てた、って感じかな? 髪切ったの、やっぱり駄目だったね」
「……! 違う……!」
「……ん、そっか。勝手に短くしてごめんね」

 ごめん、大丈夫。仕事の邪魔してごめんね。逃げるようにそう言って踵を返した。最後の方はココの顔は見られなくて俯いてしまったから、どんな表情だったかは分からなかった。

 別れようと言うつもりだった。だけどココは戸惑いながらも否定したから言えなかった。ココが違うと言ったのは、髪を切ったのが駄目だったのかということだろうか。それともアカネさんと重ねてたことについてだろうか。



「どうだった?」

 外の空気を吸いたくて裏口から出ると、喫煙所に蘭がいた。蘭が問いかけたその質問は揶揄うでもなく随分とシンプルで、そしていつもの意地の悪い笑みではなかった。わたしと目を合わさず煙草を燻らせながら、それでいて少し憐れむような顔をしていた。

「……バレた、って顔してた。珍しく」
「へえ。で?」
「……今日、飲みに行こ。蘭の奢りで」
「はっ、女に出させるかよ」

 煙草の先を押し付けて吸い殻を捨てた蘭がこちらに近付き、どこかぎこちない仕草でわたしの腰を抱いた。傷心のわたしに気を遣ってくれているのか、真意のほどは分からない。ただなんとなく、いつもなら振り払うそれを受け入れた。視線を感じて見上げた時に目が合うと、蘭の目は至極幸せそうに細められていた。

「……蘭って、そんな顔できたんだね」
「んー? まあ、ずっと欲しかったモンが手に入りそうだからなぁ」
「……、お店、お酒美味しいとこがいい」
「美味いとこにしか連れていかねぇよ」

 腰をより強く引き寄せられる。背を曲げて蘭の顔が近付いた。唇が触れる寸前、空気だけにすら感じるような小さな声で「ずっとすきだった」と囁かれた。それは恋人だったはずの彼からは言われたことのない、紛れもない愛の言葉だった。


title by 英雄
2022.02.08




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