淡い幸福の終わり



 仕事が忙しくて会えていなかったが、ずっと会いたいと思っていた。少し落ち着いた今、ようやく会えると思っていた。

 言いたいことがあった。聞きたい気持ちもあった。人生で二人目の、どうしようもなく大切になった存在だった。どうしても手に入れたい女だった。



『今までわたしのワガママに付き合ってくれてありがとう。もうわたしのことは必要ないと思うから、今日でお別れしよう。
 元気でね。バイバイ。
 わたしのことは忘れていいから、好きな人を大事にしてあげてね。
 次に日本に帰ってきた時には、幸せそうなドラケンくんに会えますように。』

 突然届いたそのメッセージで、そいつとの別れと自分の不甲斐なさを同時に悟った。頭を鈍器で殴られたことは比喩でもなんでもなく実際に何度かあるような馬鹿な自分だが、そんなものの比じゃないぐらいの衝撃で何も考えられなくなった。


Wわたしをエマちゃんの代わりにするのはどうかなW


 数ヶ月前のあの日、オレにそう言ったナマエは、どんな顔をしていただろうか。



▽▲▽▲▽



 ナマエは柔らかく笑う女だった。
 三ツ谷の幼馴染で、小学校の頃は何度か会って話したことがある程度。総長の妹であるエマほど俺たち東卍に深入りしなかったけど、時々会えば他愛もない話をするような仲。
 側から見てまあまあ柄の悪い俺たちにも臆することなく話して屈託のない笑顔を向け、最後にはいつも「怪我には気をつけてね」と言って帰っていく。少し変わっていて、それでいて普通の女だった。

 東卍が解散してからも会えばなんでもない話をするような、数少ない普通の友人だった。その『普通』を居心地が良いと感じ始めたのはいつの頃だったか、今となってはもう思い出せない。だけどとにかく元東卍の奴らと話す時とは違う感覚で、ナマエと話すのはいつしか俺にとって貴重な時間になっていた。

 ある日、偶然会ったので家まで送ることになって、並んで歩くその帰り道。その日はなんとなく疲れていて、だからつい、もう居ないアイツのことが口から溢れた。一度話し始めると止まらなくなって、支離滅裂なことばかり口をついて出る俺の話をナマエは黙って聞いていた。

「どうしてアイツがあんな目に遭ったんだろうなって、未だに思うんだよ」
「うん」
「あんなことになるなら、ちゃんと言っときゃ良かったって、今更全部遅ぇのになあ」
「……うん」
「一生、忘れずに居たいと思っちまうんだ。んなこと、エマは望んでねぇはずなのにな」

 誰にも話せない本音。アイツを守れなかったこと、好きと言えなかったこと、アイツのことを引きずったままになっているダサい今の自分。きっと今の俺をエマが見たら、らしくないって呆れるんだろう。そもそもエマを忘れないことと、誰にも深入りさせず誰をも大切な存在にしないことはイコールじゃない。そんなことは分かっていて、それでも立ち止まったままの自分がいて嫌になる。

 エマの死を受け入れられないまま、いや正確に言えば、受け入れはしたもののそこから前に進めないまま数年が経ち、未だ時間を止めている情けない俺の話を黙って聞いてくれていたナマエは、いつもと変わらない穏やかな声で言った。

「わたしをエマちゃんの代わりにするのはどうかな」

 もしもその言葉が、一連の台詞が、たとえば俺をよく知らない奴から言われたもので、俺への同情や見えすいた軽い好意で形作られたものだったら、きっと強い怒りや憤りや苛立ちを覚えただろうなと他人事のように思った。だけどナマエはその眼に憐れむような心を映さずにそう言って、「エマちゃんを忘れるんじゃなくて、エマちゃんのことを全部持ったまま、また誰かを好きになってみようよ」と寂しそうな笑顔で続けた。その眼はもう俺じゃなくて、記憶の中のエマを見ているようだった。

「もしわたしと一緒にいて楽しめたらさ、エマちゃんと同じぐらい好きになれる人もいつか見つかるよ。じゃないと、ずっと一人じゃあエマちゃんに心配かけちゃうから」

 代わりなんていない、一生涯エマだけだなんていう気持ちと、時々過去を思い出してはどうしようもなくなる今みたいな瞬間になんのしがらみもなく縋れる相手が欲しいという馬鹿な弱さを天秤にかけ、傾いたのは後者だった。

 エマの葬式で、こいつが痛々しいぐらい泣いていたのを知っている。三ツ谷に慰められながら、ずっとずっと涙を拭い続けてきたことを知っている。俺のせいであの日を思い出して目の前で泣きそうになっているのを見て、思わずその華奢な身体を抱き締めた。それが俺たちの関係の始まりだった。


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