※原作の一部の捏造・改変あり
※暗め












 何も持っていない女だった。普通の人間が当たり前に手にしているような家族、友人、日常と幸福。その全てを持たない女だったから、そしてそのくせ世界をそれほど嫌っていないような変な女だったから、だから役に立つ立たないという理論から外して仕方なく拾ってやったのだ。

「若様、大好きです」

 何も持たない女だ。生きるためには強者に媚を売るしかない。考えてみれば確かにその程度の女だった。おれの機嫌を取り、そしておれに好かれて寵愛されれば、間違いなく寿命は延びるだろう。おれには女の言葉の意図は透けて見えていた。戦う才能が無い女などすぐに死ぬ、それがこの世界の理だからこそ、おれはおれに擦り寄る女に心を許したりましてや囲ったりする訳がないというのに、馬鹿な女だと心の中で嘲笑った。

 しかし飽きずに何度もそれを伝えてくるのだからWその気Wはあるのだろうと思って、ある夜に部屋へと招いて一夜を過ごした。貧しい環境下だったにもかかわらず女は身綺麗なままだったようで、おそらく行為そのものは苦痛を強いられるものだったと想像できるがおれとしてはだからこそ身体を重ねた時の具合悪くなく、発散するのに丁度良かったというのがその夜の感想だった。ただ、うわ言のように「大好き」と呟くその声がやけに耳に残った。女を抱く上で、それだけが煩しいと思った。

 女は俺に求められれば断らず、負担がかかるだろうその行為を受け入れた。少しの優しさもないはずのそれを何の躊躇いもなく許すだけでも正気を疑うが、あろうことか女は行為の時にも決まって「大好き」と言った。こんな馬鹿げた世界にいて常ににこにこと笑う女のことは常日頃から理解できなかったが、その言葉が一番理解の範疇を超えていた。

 女はそれからもおれに媚を売り続けた。人前では決して言わない、そんなところも狡猾だと思った。相変わらず腹が立つ女だ。見ていてイライラする。その筈なのに、行為の後に意識を飛ばした女のその寝顔からは目が離せない。そんな自分を受け入れそうになっていることに気付いて更に苛立ちが増すという悪循環だった。

 出来る筈も無いが、おれを誑かそうとすることそれ自体が罪だ。一度分からせてやろうか。糸で指の一本でも飛ばせば、いや糸など使うまでもなく骨の一本でも折ってやればいい。あんな細い腕や脚を折ることなんて、おれにとっては生まれたての赤子を捻るように簡単なことだ。だがどうせ抱くなら見目が普通の女でなければ気分が悪い。それを考えると指を飛ばすのも腕を折るのも、顔や身体を殴るのも得策ではないような気がして、女を見ていると何故か落ち着かないこの感情の答えも出ないままに野放しにしていた。

 そんな甘いことを考えたのがいけなかったらしい。

「……コラさん、……………」

 弟の墓の前。呟いたのは、おれの最愛の弟だった男の名前。役職名とも言えるが他の奴らは本当の名前を知らないから、女に取ってはそれが名前だ。おれのことは「若様」としか呼ばない女がおれの弟の名前を呼び、手を合わせ、そして願うように何かを呟いた。

 掻きむしりたくなるような憎悪、焦燥、そして今までの比ではない憤り。

 そうか。お前のあの言葉も笑顔もすべてロシナンテに向けられていて、だから優しくはない行為も理不尽にも耐えられていたのか。おれのことなどどうでも良かった。アイツはやはり狡猾な女だった。

 女の企みを看破した。笑える筈だった。頭の中では無駄なことを企てるその滑稽な様子を笑えていたのだから、それが明るみになったのだから、高らかに笑ってやればいい。そのはずなのに。

 ドス黒く暗い感情を胸の内に飼ったまま部屋へと帰った。そしてその夜、女がコーヒーを持ってきた。最近は習慣になっていたそれを女はただの日常の一つとして行う。コーヒーをテーブルに置き、おれの機嫌の良し悪しを感じ取った上で、それがどちらであろうといつもの笑顔でいつもの声で、そしていつもの、言葉を。

「若様、───」










 気付いた時には、女は息をしていなかった。無様な格好で床に倒れた女からは生の気配は感じられない。自分が肩で息をしている、その呼吸だけが部屋を満たすのみだった。

「……オイ、………」

 少しの間思考が止まっていたが漸く我に返る。声をかけようとして、意味がないことをするだけの呼吸すら惜しいと思ってやめた。
 記憶を遡ってみればおれは逆上して女の首を絞め上げたようで、気付いてしまえば手にその感覚が蘇る心地がした。能力を手にしてからは糸で斬ることが多いものの、絞殺の経験がないわけではない。しかし女の首はあまりにも細く脆く、おれの命を狙う馬鹿や裏切る馬鹿を絞め殺すには足りない程度には、少し力を込めただけだった。

 舌打ちが漏れた。想定していない事態になったことではなく、そもそもいずれ殺すつもりだったのだからW殺すつもりはなかったWと思うこと自体が己の罪だろう。

 女の淹れたコーヒーを飲む。冷めてはいるがいつもと変わらない味だ。女のハンドドリップの腕は悪くなく、冷めてなお香りは死んでいない。まるで死臭をかき消すようだった。

 日々を過ごす変わりのない自室だというのに、いつもの声も言葉も聞こえない。そもそもいつもの声とは、いつもの言葉とは何だったか? この空間においての日常の相違はただその一点のみで、おれの記憶の空白の部分もそれだけだった。自分が不完全な人間になったような気がして腹立たしいものの、女はもう喋らない。死人に口なしとはよく言ったものだ。

「……フッフッフ、死んでもおれをイラつかせるとは、いいご身分だなァ」

 抱き起こしてやった女は、首に痕がある以外は何も変わらないように見えた。少ししたら目覚めるのではないかと思うほどだったが当然そんなことはなく、間違いなく事切れている。それを暗示するようにして口にした言葉はただの独り言だったはずだが、誰かが居れば返事をしただろうと思える程度には部屋に響いた。



 その日の夜から夢を見るようになった。女が出てきて懲りずに笑いかけ、おれに何かを言っている。ただその言葉がいつも聞こえず、それに苛立って近付こうにもすぐに消えてしまう。もう一度首を絞めてやろうかと思っても、触れることすらできない。

 さぞおれを恨んでいるだろう。それなのに笑顔を見せるとは、余程おれを舐めているらしい。思い出せない声と言葉は夢見を悪くする呪いか何かだったのか。女が能力者だと聞いたことはなかったが、海へと放り投げたことはないので泳げないかどうかも知らないし、今更知る術もない。

 女の遺体はまだ部屋にある。シーザーという科学者に作らせた腐敗を防ぐガスとともに、海楼石で作らせた棺の中だ。あの日のままの姿で、首元の痕も消えやしないので隠すように花を散りばめさせた。女はおれのファーコートの色と同じ色の花を好んでいたような記憶があるので、餞別にくれてやっただけだ。だからもう夢に出てくるなと吐き捨てようと思ったが、死人にくれてやる言葉はないので飲み込んだ。

 女が夢に出てくることに慣れると、他の悪夢を見なくなったことに気付く。自分を蝕む劫火、突き刺さる矢、人間どもの罵声。それらを暫く見ていないことに気付くと、女の価値が少し変わった。何せ夢の中の女はおれに手をかけることも、ましてや罵倒するなんてこともしない。あの地獄に比べれば脳内に花畑が広がっているような浮かれた夢だ。

「………」

 一瞬話しかけようとして、口を開いて閉じた。女の名前はなんだったか。生きていた頃もほとんど呼んでいなかったようで思い出せない。支障はないはずだ。夢でしか会うことがない女の名前なんておれの人生には不要なのだから。

『若様、───』

「……うるせェ」

 ただ悪夢を見ないというだけだ。それだけで女の価値を高くつけるなんてことはしない。
 そういえば、行為の後に女を抱いて眠った時の夢はどうだったか。寝顔を眺めながらいつの間にか眠るあの時間は、そして穏やかなままに迎える朝は、少し寝覚めの良い朝だったかもしれない。




▽▲▽▲▽




 ドレスローザにて全てを手に入れた後、ローと麦わらが攻め入ってきた。おれをとことんコケにしやがって。鳥カゴで全てを潰して終わりだ。

 戦いのさなかで壊れた城、崩れ落ちる瓦礫。そこにあの女の棺桶があり、反射的に糸で手繰り寄せた。

「……ナマエ?」

 ローが呟いた。名前のようなものを、棺に向かって。

 煩い。誰の名前だ。少なくとも今のおれには不要なものだ。

「なんでナマエが、」
「黙れ」
「………」
「こいつはおれが殺した」

 それ以上の言葉を遮るようにして事実を述べれば、ローは目を見開いた。生意気にも知恵と知識をつけ、冷静で悪賢いガキに育ったらしいローの、その表情は貴重なものだったかもしれない。だがそれを嘲笑ってやることができないのは、未だにその視線が棺に──女に注がれているから。
 
「……どういうことだ、ドフラミンゴ」
「………」
「もう息がないのは見て分かる。方法は知らねえが、何年そのままにしてやがる」
「……黙れ、ロー」
「本当におまえが殺したなら、せめてちゃんと墓を立てて葬って、」
「黙れ!!」

 女を見られることに苛立つ。女について知ったような口をきくことにも。ましてやその名を呼ばれるなどというのは、それの比じゃない程の怒りで脳が沸騰した。

 そうだ。ナマエという名前だった。思い出したものの記憶の限りでは呼んだことはないが、そんなことはどうでもいい。

「この女は、おれに呪いをかけやがったのさ」
「……呪い……?」
「会う度におれに笑いかけて、おれに何か呪いの言葉をかけ続けた。その言葉自体は思い出せねェがな」

 ローは大人しく話を聞いている。少し驚いているのはおれがこんなことを饒舌に話すことが意外だったからかもしれないが、何年も溜まり続ける鬱陶しい胸の内を吐き出すのにちょうど良かった。

「無力なただの女のくせに、生意気にもおれの夢に許可なく現れる。何年も経った今でも、毎日のようにな」
「………」
「それが解けるまではコイツはこのままだ」

 このまま、女がどうなろうと知ったことではない。どうでもいいことだ。女がおれにかけた呪いが解けるならなんでもいい。それまではこの女を側に置いておかなければならない。

 思い出せない。
 思い出したくない。
 ──思い出して、女が二度と呼吸をしないことをほんの僅かでも悔やんでしまうなど、あってはいけない。

「……なんで、殺した」
「フッフッフ、お前に話す義理があるか?」
「…………お前に遺されたWそれWは、呪いじゃねえよ」

 ローは絞り出すように言葉を溢した。それ以上の無駄話をさせないように糸で攻撃すればいいだけだ。悠長にしている時間だって無い。それなのに、指先ひとつ動かなかった。

 何年も離れていたローがこの女の何を知っているわけもない。おれを動揺させようとしているだけだ。そんなことは分かっている筈なのに、呪いじゃないというその先の言葉が静寂に一石を投じるのを、ただ待ってしまって。


「愛情だ」


 ローの言葉が鼓膜に触れる。愛。愛だと? そんなものがこの世にあると本当に思っているのかと、嘲笑ってやればいい。お前は本当に馬鹿で甘い男だと、そう言って笑ってやればいい。筈だった。


「ナマエはおまえを愛してた」

「……おまえなんかには勿体ないほどにな」


 五月蝿い。黙れ。知った口をきくな。
 そう言うより早く糸を伸ばせばいいだけだ。鉛玉を打ち込んでも良い。黙らせる方法なんざいくらでもある。

 しかし現実はどうだ。ともすれば親子ほど歳の離れたガキが口にした戯言だったはずの言葉は、心臓の一番底までするりと落ちた。


「……おまえもアイツを、愛してたんじゃないのか」


 動揺するな。隙を見せるな。ローもそして麦わらもその他の侵入者たちも、あらゆる手を使っておれの喉元を噛み千切ろうとしている小癪な雑魚だ。しかしハートの椅子を蹴った目の前のクソガキは眉を寄せて憐れむような表情でおれを見ていて、それが演技であればこいつはなかなかの策士だがそんな小賢しいことができる男ではない。

 愛していた? おれが、ナマエを?

 そんなはずはない。あの細い首に手をかけた感触を、命の終わりの瞬間を、声を、果ては笑顔も表情もすべて思い出せないのだ。
 大切な存在なら忘れないだろう。おれはアイツの最期の言葉すら思い出せない。

 おれに首を絞められたまま体を持ち上げられ、命の終わりを悟ったとき。どんな気持ちで、何を思っていたのか。恐怖に打ちひしがれたか、身勝手で暴力的なおれへの恨み言か、それとも取り巻く運命への嘆きか。

 違う。アイツは最期の最期まで、必死におれだけを見つめて微笑んだ。


『わかさま、───』


 首を絞められ呼吸もままならない中、選ぶべき言葉はいくらでもあっただろう。だがアイツが口にしのはおれの名前で、あの時のおれはそれにすら逆情して、込めた力を離すことができなかった。

 本当は分かっていた。
 ナマエの言葉が嘘では無いことも、ロシナンテの墓の世話をしてその墓の前で手を合わせていたのは、おれのためだということも。

『……コラさん、若様を連れていかないで』

 全てはおれとの未来のためだったのだ。無力な女の願いが聞き入れられるような甘い世界じゃない。強い者だけが勝者になれて、敗者は幸せになどなれない。それがこの世の理で、おれは生まれた時から勝者になるべき人間だ。そして何の力もない女はそうなれるはずもない。

 だがもしもおれが守ってやったなら。女は今でもおれの隣で、あの言葉を言っていただろうか。

 もう二度と聞けないくせにどうしてか鼓膜に焼き付いて痕を残している呪いのような言葉を。




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