※未来if








 幼馴染の糸師冴の、その人のサッカーを先に好きになった。素人目に見てもワクワクするようなプレーがとにかく格好良くて、冴の試合を観るのがとても好きだった。それから冴自身のことも好きになって、だけど何年間も何も言わなかった。
 きっと誰もが届かないようなところに行ってしまうこの人の特別になれたらどれだけ幸せだろうって思って、日本に帰国してきた時に告白をした。

「冴のことが好き、です」

 本当にそれだけを伝えてそれ以上のことを話さなかったのは振られるつもりだったから。当たって砕けてしまったところで冴はまたすぐに海外へと飛び立ってしまうのだから気まずくないし、なんていう気持ちで片道切符をはたいたつもりだったのだ。

「……そうか」
「……、うん。あの、でも」
「お前が遠距離でもいいなら、付き合うか」
「え……っ?」

 そこそこ予想通りの返答の後に、完全に予想外な言葉。きっと間の抜けた顔をしてしまっているという自覚はあったけど、それでも目を丸くするのはやめられなかった。

「いい、の……?」
「……シーズンオフしか帰って来れねえけどな」
「っさ、冴がいいなら、冴の彼女になりたい、です」
「……なんで敬語なんだよ」

 冴は告白を了承してくれただけでなく最後には少しだけ笑って茶化して空気を和ませてくれて、らしくないその気遣いに涙が込み上げた。泣き顔なんてぶさいくだから見せたくなくて俯いて、顔を見られない代わりに「本当にずっと好きだったの」と思いの丈をもう一度伝えると「今聞いたから知ってる」なんて呆れたような言葉が返ってきたけど、その声は柔らかかった。あやすように私を抱き締めた冴の腕の中は温かくて安心したけれど、その逞しさに漢の人なんだと感じて顔が熱くなった。

 会えなくてもメッセージがちゃんと返ってくるだけで嬉しかった。時差がある中でもたまにアプリを使って電話をして、声が聞けるのが幸せだった。

「英語が苦手でね、特にヒアリングが全然ダメで何言ってるか分かんなくて」
『あー、お前英語できなさそうだな。国語とかのが得意そう』
「偏見すごくない? まあ国語は得意だけど」
『合ってんじゃねぇか』



「マドリードってどんなとこ?」
『ほぼ渋谷か銀座』
「そうなの? なんか親近感湧くね」
『歩行者天国もあるしハチ公みてぇなとこもある』
「えっすごい、ほんとに渋谷じゃん」
『まあな。今度遊びに来るか』
「えー、飛行機長い……英語分かんない……冴が帰って来て。それで渋谷行こ」
『なんだそれ』



『今日バレンタインだろ』
「えっ、スペインにもあるの? バレンタイン」
『男がプレゼント渡す側だけどな。花とかそういうの』
「えー、なんかロマンチックだね」
『お前チョコレート作ったのか』
「作ったよー。友達と凛ちゃんにあげた」
『は? 浮気すんな』
「うそうそ、冴ママに作ったやつだよ。たまたま凛ちゃんに会ったから届けてもらおうと思って渡しただけ」
『……来年は渡すとしても市販のにしろ』
「ふふ、分かった」



 他愛無い話っていうのはきっとこういう話のことを言うんだろうなってぐらい、冴とは本当になんでもない話をした。電話越しでも分かるぐらい冴の声は優しくて、会うのは年に数日なのにどんどん好きになってしまって困る。

 だから離れていても大丈夫だと思っていたし実際ほとんど大丈夫だったけど、付き合って5年目の時。冴とメッセージのやり取りをしていたら『今から少しなら電話できる』なんて連絡が入って、そうやっていつも通り楽しく話してたのに、そろそろ電話を切るという頃合いで明日からの仕事を思い出してしまって、社会人2年目にして最近仕事がうまくいかなくて凹んでしまっていた私は「会いたいな」と呟いてしまった。
 電話の向こうの冴が少しだけ呼吸を止めたような気がして、そして満ちる沈黙。ああやってしまったと思ってすぐに「違うの」と訂正した。遠距離でも大丈夫だから付き合いたいと言ったのは私なのに、面倒臭いことを言ってしまったと自責の念に駆られる。別れようなんてことになったらどうしようとじわじわ後悔を募らせていると、冴はぽつりと言った。

『……なら、お前もこっちに来るか』
「え……?」
『家でできる仕事だって言ってただろ。海外でも出来んじゃねえのか?』

 こっち、なんて簡単な言葉で誘っていい距離じゃない。スペインと日本、乗り継ぎを含めると20時間以上かかることもあるって前に言っていた気がする。それにきっと旅行としてじゃなく住まいをスペインにするという提案だ。冴の元への片道切符を買うということ。

『……嫌か』
「い、やじゃ、ない……。ないけど、びっくり、して」
『ならいいだろ。次のオフに日本戻って、そのまま連れてく』
「う、うん……!」

 冴がつらつらとなんでもないような声色で言うものだから、私もついつい頷いてしまった。ここまでが私が冴の彼女になって、23歳の時にスペインに住むようになった経緯だ。









 その恋人は最近、遅くまで帰ってこない時がある。元々あまり周囲とコミュニケーションを取っていなかった冴だけど昔に比べると丸くなり、チームメイトの自主トレやお酒などの付き合いにも顔を出したりしているらしい。あとはレ・アールのユースの練習なんかにも顔を出しているようで、晩御飯が要らない時や「先に食ってろ」という連絡が来ることが増えた。

 テレビをつけても日本のバラエティのような番組はやっていなくて退屈だ。日本にいる友達とは時々電話をするしそれは楽しいけど、通話を終えた後の虚しさだけは楽しくない。だけど寂しいなんて言えない。元々、冴にとってはサッカーが一番だって分かってた。自分の位置付けはその下だから、冴のサッカーにまつわる他の人たちに私が勝てるはずもない。

 そう思ってやり過ごそうとするけれど、馬鹿な私は割り切れない。冴は今日も帰ってこないまま時刻は19時、『今日は何時ごろになりそう?』というメッセージを送ったのが20分ほど前のことで、現状まだ何の連絡もない。ご飯もおかずもいつでも温められるけれど、今は冷え切ったままだ。熱が枯れた私の心の方はたとえば電子レンジですぐに温められる温度だろうか。

 スマートフォンが震えてメッセージの受信を通知した。冴からだ。今から帰るという連絡かもしれないと期待してメッセージアプリを指で開く。

『悪い、チームの奴らと食って帰ることになったからメシ要らねえ』
『遅くなるかもしれねぇから、先に寝てろ』

 何度目か分からないその一言を見て、心にストンと重しが落ちた。和食が好きな冴のために、スーパーで食材をあれこれ吟味して作ったんだよ。私、仕事も家事も頑張ってるんだよ。……違う、そんなことが言いたいんじゃない。冴だって頑張ってる。私だけじゃない。だけど、でも。
 私のスペインでの交友関係なんか限られてて、日本に居た頃よりも更に私の世界の中心は冴なのにその冴がいなくて、やっぱり寂しいんだよ。声にも言葉にもできない感情で目の奥が熱くなって、少し上を向いて大袈裟な瞬きで誤魔化した。

 どうしてだろう。一緒に住んでいるはずなのに、離れてたあの頃の方が冴を近くに感じる気がする。やっぱり私じゃ駄目なのかな。これが潮時ってやつなのかも。それか日本に戻って遠距離になれば、冴はまた連絡をマメに返してくれるようになって元通りになれる? 呑気に会いたいなんて言ってこんなところまで付いてきたのがそもそも間違いだったのかな。
 気付いたら視界が滲んで、涙が頬を濡らしていた。今までは大丈夫だったはずなのに、ぼろぼろと零れるそれは止まらない。

 心細い、寂しい。最近ずっとそればかり思ってしまう。日本での一人暮らしなんか全然平気だったのにな。二人で住むためのこの家が、私が日本で住んでいた1LDKより広いからだろうか。自分のものしかないあの家じゃなく、冴のものがいくつもあるこの空間だからだろうか。
 少し、ほんの少しだけ。少しの間だけ日本に帰ろうと思って、そしたら気持ちがちょっとリセットできてまたやり直せるんじゃないかと思って、何日か前から航空券だけ手配して、必要最低限の持ち物だけをリュックに詰めていた。それでも今日、ご飯を食べながら冴と話をして、もし気持ちを持ち直せそうならもうちょっとこのままま頑張ろうと思っていた。

 でも、やっぱりちょっと駄目かもしれない。冴のいないこの家には私の居場所は無いんじゃないかと思えて仕方ない。友達に会いたい、家族に会いたい。誰かに甘えたいし話を聞いてほしい。こんな半端な覚悟で忙しい冴にくっついてスペインに来た情けない女が彼女でごめん、と言葉にする相手すらいない。

 結局そのまま何をする気にもなれず泣いて泣いて、目尻がヒリヒリする頃には少しだけ頭がクリアになっていた。食欲は湧かなかったから自分用によそったご飯もラップに包んで、明日の朝ごはんに回すことにした。お風呂に入ってスキンケアを終える。冴が愛用していて私も共用で使っている化粧水のストックがないことに気付いたので冷蔵庫に貼り付けている買い物メモ用の小さいホワイトボードに書き足した。──私が日本に帰った後のことを考えると、忙しい冴のためにこういう必要なものはちゃんと知らせておかないといけないから。

 鏡を見てみれば目元は多少赤いけれど、さっき少し冷やしたお陰か腫れはマシになっているのでホッとする。時計を見れば21時15分、普段なら冴の帰りを待つしそもそもこんな健康的な時間に寝ることなんてまずないけれど、なんだか今日は疲れてしまった。
 一人きりの冷たいベッドに潜り込んでから、そういえば冴にメッセージを返していないかもということに気付いたけど、既に電気を消した寝室は暗くて今からスマートフォンの明るい画面を見る気になれず、眠気に身を任せて目を閉じた。

 明日の早朝に出発したら、冴が寝ている間に居なくなれるかな。そしたら心配とかしてくれるかも。あの頃みたいに遠距離になればやり直せたりするのかな、それともやっぱり終わっちゃうかな。止まらないネガティブな思考を打ち切るようにして、意識を手放した。



▽▲▽▲▽



 20時頃まで及んだ練習後に練習場の近くで晩飯を食うことになり、家で待つ恋人からのメッセージに返信をした。そこまではいつも通りだったが、食事がひと段落したところで違和感に気付く。なまえからの返信がない。なんとなく嫌な予感がして、チームメイトに断りを入れて先に抜けた。車を走らせて家に着き、鍵を開けて家に入る。「ただいま」といつもより少し声を張ってみるけれど返事はない。

「……なまえ?」

 心臓がどくりと嫌な音を立てる。時刻は10時半。確かに遅い時間ではあるがいつもなら「おかえり」と柔らかい笑顔で出迎えてくれる時間だ。玄関は明るいものの、名前を呼んでからリビングの電気が付いていないことに気付いて、嫌な予感が膨らんでいく。

 暗いリビングの電気をつけた。いつも通りの自分の家だ。ただ恋人の姿は居ない。風呂に入っている気配はなく、もしかしてこんな時間にどこかへ行ったのか、何かの事件に巻き込まれたのかと考え始めると心臓が急いて呼吸が浅くなったが、寝室のドアをそろりと開けると人の気配があったので一気に肩の力が抜けた。
 リビングの明かりで部屋が明るくなりすぎないように、ドアの隙間から滑り込むようにして部屋に入った。ベッドの端に身を寄せてこちらに背を向けている布団の膨らみを覗き込めばいつもと変わらない穏やかな寝顔がそこにあって、杞憂に終わったことに安堵した。





 幼馴染から今や恋人になったなまえは、変わった女だった。家族ぐるみで仲が良かったからよく試合の応援に来ては、俺のプレーを見て喜んだ。凛とはまた違った家族愛を最初は感じていて、愛想も何もなかっただろう俺の隣をにこにこと歩いていた。当時は何も思っていなかったが、彼女は近所の大人に可愛がられていたと思う。特に凛は自分と違って昔はよく笑うこどもだったので、どちらかといえば凛といる姿の方が微笑ましかったのだろう、近所でセットとして扱われるのはどちらかといえば凛の方だった。凛もなまえによく懐いていたし、なまえも凛を可愛がっていた。

 中学に上がる頃になると、その花が咲いたような笑顔に綺麗さが加わった。そう思っているのは自分だけなのか周りもそう思っているのかは分からないが、少なくとも母親は「なまえちゃん元々かわいかったけど、最近綺麗になったわね」なんて言っていたのでおそらくそれが共通認識なのだろうと思う。

 スペイン行きが決まった時、なまえは少し驚いてはいたものの、オファーがあって受けるか迷っていると打ち明けていたこともあったためかあまり動揺はしていなかったように思う。俺のことで一喜一憂してはくれないのかと身勝手なことを一瞬思った己の心情にも理解が追いつかなかった。

「……いってらっしゃい」

 学校からの帰り道、いつもなら「またね」と手を振る名前は、互いの家の中間地点で別れ際に放つ一言にしては少し違和感のあるその言葉を口にした。スペインに出発する日の2日前のことだった。目に涙の膜を貼りながらも笑顔で俺を見送るなまえを素直に可愛いと思った自分自身に驚き、そして空港まで見送りに来てくれないことには少しもやもやした。家族ではないのだから当たり前なのかもしれないが、しばらく会えなくなるのに平気なのかと思ってしまって、俺はなまえにとってはその程度の存在なんだと理解した。





「冴のことが好き、です」

 だからなまえから告白をされた時は少し驚いた。パスポートの更新で帰国したついでに連絡して、会いたいと言うので時間を作って会って何気ない話をして、その別れ際。真っ赤な顔で紡がれた言葉はどうでもい女から言われたことは何度かあるから別に初めて言われたわけでもないのに、一瞬どくりと心臓が煩くなった。

 俺がスペインに5年ほどいる間に流石に好きな男の一人ぐらいいるだろうと思っていたし、愛嬌のあるなまえならそいつと両思いになって彼氏彼女になる可能性だってあると思っていた。もしも碌でもない男に引っ掛かっているならばそいつを蹴り飛ばしてしまうかもしれないとすら考えていたのに。

「お前が遠距離でもいいなら、付き合うか」
「え……っ?」

 告白はしてきたくせにその先の未来はまるで考えていなかったらしいなまえに、心の中で少しムッとしたのは不可抗力だ。俺の隣にいて俺の他の女に対しての対応を見ていながら、自分の特別さに気付かないのかと。ちゃんと俺のことを見ていないのではないか、余所見をしていたのではないかと八つ当たりのような感情が頭の片隅をじわりと支配したが、弾かれたように俺を見たその目には間違いのない喜色が浮かんでいて不覚にも可愛いと思った。
 
「いい、の……?」
「……シーズンオフしか帰って来れねえけどな」
「っさ、冴がいいなら、冴の彼女になりたい、です」
「……なんで敬語なんだよ」

 その必死さと真っ直ぐさは言外でも俺を好きだと告げていて、頬が緩みそうになったのをどうにか堪えたことだけは記憶にある。

「本当にずっと好きだったの」
「……今聞いたから知ってる」

 泣きながら健気なことを言う女に、絆されない男なんていないだろう。少なからず情を抱いた女なら尚更。思わず抱き締めればその体は華奢で柔らかくて、自分のものとは全く違うそれに心臓が何かに掴まれたように鳴いた。

 



 それからはメッセージや電話でやり取りをして、気付けば18の時に付き合ってから5年が経っていた。あまり他人と話し込むことがない俺から見てもなまえは話し上手で、それほど口数が多くない上にサッカーのことしか考えていない自分にも何かしらの話題をもって会話を繋げてくれた。学校の話、友達と行った旅行の話、俺のサッカーの話、スペインの話。他愛無い話というのはきっとこういうもののことを言うのだと思った。話の内容に深い意味や必要性がなくても、この時間は意味のあるものであり俺にもなまえにも必要なものだ。

 なまえと話しているとクラブチームで気を張って強張った肩の力が抜ける心地だった。父さんや母さんと話すより余程リラックスしていられると感じる。まあバレンタインの話題になった時、凛に手作りチョコレートを渡したと言うので思い切り不機嫌さを声に乗せてしまったが、それに関してはなまえが悪い。





『……なら、お前もこっちに来るか』

 その言葉は半ば無意識に発したものだった。言った俺でさえ驚いたのだからなまえの衝撃は更にその上だっただろうと思う。簡単に渡れる距離じゃない。なまえの両親だって何と言うか分からない。だから冗談だということにすれば良かったのに、練習や試合を終えて家に帰ってなまえがいたらと想像したらそれはとても良いものに思えて、強欲な自分が顔を出した。

『……嫌か』

『ならいいだろ。次のオフに日本戻って、そのまま連れてく』

 少し強引に言ったのに、二つ返事で頷く彼女に口元が緩んだ。俺のことが相当に好きじゃなければこんなにすぐに了承しないだろうし、嬉しそうな声にもならないだろう。少し泣きそうな声にも聴こえたがその涙を拭う術が今はない。だが、これからは。
 電話を終え、すぐにスケジュールを確認する。誰もいない自室で電話していて良かったと思うほどには、情けなく緩んだ顔をしていたと思う。







「……───夢、か」

 目を覚ますと自分の家の天井だった。久しぶりになまえが出てくる夢を見た。随分と昔の夢だった気がする。
 一緒に暮らしていない時期、つまりスペインと日本との国境をいくつも越えた遠距離恋愛というものをしていた頃は、よくなまえの夢を見た。アイツの好意はいつも真っ直ぐで、試合で上手くいった時もそうでない時でもなまえのメッセージを読んだり声を聞いたりすれば、自然と気持ちがリセットできて心地良かった。ただアイツの夢を見ると会えない距離にいることを嫌でも思い知ってしまうので、寝覚めが良いような悪いような、そんな曖昧な心地だった。ただ此処で一緒に住み始めてからはそういう夢も見ていなかったのに。

 隣を見るとなまえはいなかった。もうそんな時間か、と時計を見ると時刻は朝6時で、普段は8時頃に起きて支度をしている筈なのにやけに早い。せり上がる嫌な予感にほんの一瞬息が詰まった。
 リビングへ行くと、部屋着ではなく明らかにどこかへ出かけるような服装の彼女がいた。自分とのデートの予定が入っていただろうかと記憶を辿るが声をかけようにも呼吸を忘れたように喉がつっかえて何も話せない俺に、なまえは少しびっくりした顔をした。言葉の代わりに咄嗟に掴んだ肩は細くて薄い。

「お、はよ。早いね、起こしちゃった?」
「……なに、してんだ」
「え?」
「なんでこんな朝早くからそんな格好してんだよ。どこ行くつもりだ」
「……えっと、……ちょっとだけ、帰ろうかなって、思って」
「は……」

 ちょっとだけ、帰る。ここは俺たちの家であって、スペインで帰るのはこの場所以外ないはずだ。ここ以外となればあとはもう、日本に帰るという意味合いしかない。
 俺から離れるのか。俺はまたお前の夢を見て過ごすのか。この家に帰ってもなまえがいないことを想像して、心臓がぎちりと何かに握られたような心地だった。
 日本とスペインは決して近い距離じゃないから、なんとなくフラッと帰るような場所じゃない。実際、今まで一度だってこんな風に唐突に帰国を告げられたことはなかった。普通は相談するだろう。これまでのなまえはなんでも俺に教えてくれていたはずなのに、それなのに何故? あまり寝起きの良くない俺がこんな早朝に自然と目を覚ます確率は低いだろうことぐらい分かるはずだ。その上で家を出る準備をしていたということは、俺が眠っている間に離れるつもりだったのか。

「ちょっと、痛いよ……」
「…………た」
「え……?」
「なんで急に、帰ろうと思った」
「冴、いたい、」
「俺に不満があるなら言え。何も相談せずに勝手なことすんな」

 頭がうまく回らなくて冷静になれないままに言葉をぶつけた後、なまえの泣きそうな顔を見てようやく我に返った。違う、そんな顔をさせたかったわけじゃない。こいつが意味もなくこんなことするわけないのに、無理やり引き止めることだけしか考えられなくて言葉を間違えた。

「ごめんね」
「なまえ、」
「冴は悪くないの」

 ぽろぽろと涙を流して啜り泣くなまえを前に、肩を強く掴んでしまっていた手を離した。泣いている。俺のせいだ。寂しい思いをさせて泣かせないためにこちらへ呼んで同じ家に住んだのに。

「寂しかったの」

 ぽつりとなまえが呟く。こちらにも伝播しそうなほどに切なさを帯びた声が空気に溶けた。

「スペイン語、まだ全部は分からないから、冴が忙しい今はあんまり話せる人いなくて。だから、お母さんとか友達に会いたかった」

「冴が忙しいのは分かってる。負担になりたくなくないってほんとに思ってる」

「でも、寂しい。頑張ろうと思って我慢してたけど、ちょっとだけ無理だったみたい」

「此処だと、私には冴しかいないから」
 
 なまえの紡ぐ言葉の数々に、足元がぐらつくような気持ちになる。俺は何をやっているんだ? 知り合いなんかいないこの国に連れてきて、俺と違って通訳もマネージャーも居なければサッカーのようなコミュニティも持たないなまえが周囲と関われる方法なんか限られている。なまえはもともと甘えたがりだ。家族や友人とテレビ通話で話すことができたって、俺が構ってやらなければ寂しいに決まっている。俺に着いてきてくれたなまえの世界の中心は俺で、俺が守ってやらなきゃいけなかったのに。

「……ごめん。こんなんじゃ面倒くさいよね」

 その次に続く言葉が容易に想像できてしまって、思わずなまえを抱き寄せた。だがなまえの細い腕が俺の身体に回されることはなく、華奢で柔らかいその身体が強張って少し居心地が悪そうに縮こまるその様子に、心臓が締め付けられるように痛んだ。




▽▲▽▲▽




「なんで急に、帰ろうと思った」

「俺に不満があるなら言え。何も相談せずに勝手なことすんな」

 冴の言葉に目の奥が熱くなってしまうのが情けない。勝手なこと、確かにそうだ。私が勝手に冴を好きになって、今は勝手に不安になってる。

「頑張ろうと思って我慢してたけど、ちょっとだけ無理だったみたい」

「此処だと、私には冴しかいないから」

 泣いているせいで引き攣る喉は涙声を誤魔化しきれなくて、段々と惨めな気持ちになってしまう。冴に捨てられる夢なら何度も見たけれど、冴に釣り合わない自分がいずれ此処にいられなくなる覚悟はしてきたけれど。いざその予感が現実になると余計に苦しくなって涙が止まらない。

 ──大丈夫。冴が好きでもない女を住まわせるわけがない。だから私のことはちゃんと好きで居てくれているはず。
 今までそう言い聞かせてきたけれど、ここ最近の冴の様子に加えて今の私の面倒くさい言動で天秤が傾いちゃった気がする。あの時は確かに私のことを好きでいてくれたとしても、今はどうだろう? 一緒に住み始めて冴の気持ちが冷めてきたから、私と過ごす時間が減ったのかもしれない。少なくとも、こんなことを考える女を冴が好きになってくれるとは思えなかった。

「……ごめん。こんなんじゃ面倒くさいよね」

 別れよっか。
 そう思わず口をついて出るはずだった言葉は、冴にがばりと抱き締められたことで遮られた。20cmぐらい身長差があるからほとんどすっぽりと収まってしまうけれど、最近こんな風に触れられることがなかったからなんだか落ち着かない。

「冴……?」
「……その先は、言うな」
「………」
「頼むから、言うな……」

 冴の力のない声が鼓膜を揺らす。髪を梳くように私の頭を撫でる手は冴らしくなくてなんだかぎこちなくて、それが逆に心を落ち着かせた。無意識に強張っていたらしい身体の力を抜いてそっと身を委ねると、優しいままにほんの少しだけ力が込められる。やっぱりどうしても冴のことが好きな私の胸がきゅう、と音を立てた気がした。

「悪かった」

 ぽつりと溢れた言葉は力無く掠れていて、今まで聞いたことのない声だと思った。何年も一緒にいるけれど知らないことはきっとたくさんある。それをこれからも一番近くで知りたいと思う気持ちは誤魔化せそうにない。

「冴が忙しいの知ってるのに、寂しいって思っちゃった」
「……お前は悪くねえだろ」
「わがまま言って、ごめんなさい」
「こんなもんは我儘に入らねえよ」
「でも、冴のサッカーの邪魔したくない」
「邪魔じゃねえし、今はもうお前が傍にいないことの方がキツい」
「……わたしも、冴と一緒にいたい。別れたくない……」
「別れねえ。ずっと一緒にいろ」

 ぎゅっと抱きしめられているから分からないけどきっと優しい顔をしてくれてるんだろうなと分かるような柔らかい声で、私が零す言葉一つ一つに冴の言葉が返ってくる。言葉を交わすたびに頭や背中を優しく撫でられてそれが温かくて心地よくて、少し引っ込んだはずの涙がまた溢れた。

「……あのね、ほんとに、大好きなの」
「…………俺は愛してる」
「ぇ、ほ、ほんと……?」
「お前に嘘つかねえよ」

 愛してるなんて初めて言われたかもしれない。嬉しくて幸せでどうしたらいいか分からなくなっていると、冴の腕の力が緩んで隙間なくくっついていた体が少し離れる。それが寂しくて、そこでようやく抱きしめ返してその胸に擦り寄ると、驚いたのか一拍置いてまた抱き締めてくれた。
 そのまま息を吸い込めば冴の匂いがして安心する。しばらくくっついたままでいてようやく涙が止まったところで、頭の上から「なまえ」と優しい声で呼ばれた。体勢をそのままに「なに?」と言葉を返すと、一瞬の沈黙を挟んでから「飛行機、何時発だ」と絞り出すような声でぽつりと投げかけられた。

「家族とか友達に会いてえなら、空港まで送る」
「……え?」
「……これからは、寂しい思いさせねえようにする。けど、俺がいようが家族とかには会いてえだろ」
「いいの……?」
「……まぁ、今は凛も日本にいねえしな。3日……は短ぇか、あー、一週間ぐらいで戻ってくんなら、まあ……。長ぇけど今回は、行かせてやっても、いい」

 普段端的な言葉選びをするはずなのに、あまりにも歯切れが悪くてつい頬が緩んでしまう。凛ちゃんとは本当に何もないのにもしかして何年か前のバレンタインを根に持っているのかもしれないと思うと、どうしようもない愛おしさを感じてしまう。

「冴は、私がいないと寂しい?」
「当たり前だろ」
「じゃあ今回は、帰らないことにする」
「……いいのか?」
「代わりに次のシーズンオフに、一緒に帰省してくれる?」
「……あぁ。約束する」

 冴が呟いたそれが少し泣きそうな声に聴こえて、心配になって体を離してちらりと冴を見上げる。冴は切ない表情だったものの泣いてはいなくて安心したけどそれよりも、思ったより近くに顔があって頬っぺたが熱くなった。顎にそっと指がかかって促されて、そのまま掬うようにして唇を塞がれた。何度かくっついて離れてを繰り返して、深くはないのに呼吸ぜんぶが冴に奪われるようなキスが気持ちよくて恥ずかしくて、再び冴の胸に抱きついた。

「……冴と、一緒に日本帰るの、今から楽しみ」
「そうか」
「お母さんにもだけど、冴ママにも会いたいな」
「あぁ。母さんも喜ぶ」
「凛ちゃんも帰ってくるかな?」
「…………凛とは会わせねえぞ」
「ふふ、私は冴一筋だよ」
「……知ってる」

 その最後の冴の声があまりにも甘くてまた顔が熱くなる。それを知ってか知らずか冴は私の前髪をそっとよけたかと思うと、私が何か言う前に額にキスをした。その糖度が高いような空気が恥ずかしくて顔を上げられない私を冴が優しく抱き締めて「お前かわいいな」なんてらしくないことを言うので耐えられなくなって、「凛ちゃんに嫉妬する冴の方がかわいいよ」と言って対抗してみたけれど。「そうか」というおざなりな返事とともに今度は再びくちびるにキスをされて冴の甘い仕草を止められないだけでなく、どこでスイッチが入ったのか分からないけれど結局、朝から寝室へと逆戻りするはめになった。





 遮光カーテンの隙間から明るい光が差し込む中、これまで以上に優しく甘く触れられた行為のあと。冴の腕に抱かれてふわふわとした心地でいると、「今日、出かけるか」と言う冴に少し首を傾げる。

「珍しいね。何か欲しいものあった?」
「……指輪」
「え?」
「次に帰国した時にお前の両親に改めて挨拶して、ついでに役所も行きてえからな」

 言葉の意味の理解して、じわじわと目の奥が熱くなる。ある意味で最中よりも煩くなった心臓の音を感じながら「いつもの化粧水も買わなきゃいけないから覚えててよ」とだけ言って、冴の腕枕に涙を押し付けた。




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