朝起きたら、知らない部屋だった。

「……は?」

 知らない景色、知らない匂い。恐る恐る隣を見ると、もう卒業後10年目なんかの節目の同窓会ぐらいでしか会うこともないだろうなと思っていた、よく知る幼馴染の、大人びた知らない寝顔。

「ん゛ん……」

 隣に眠るその男が眠そうに唸った。眉間に皺を寄せたそんな顔すら整っていると感じるから、この顔面はよっぽどだ。時刻はたぶん午前6時。時計の針とブラウンの遮光カーテンから漏れる光とで判断したものの、こんなところで朝を迎えているということが信じ難い。
 嫌な予感にそっと布団を持ち上げて自分を見てみると、きちんと服を着ている。飲み会で羽織っていたはずのお気に入りのカーディガンは身につけていなくて少し焦ったけど、それはハンガーにかけられて部屋の壁に我が物顔で佇んでいた。

 上体を起こし、改めて状況を整理する。昨日は大学のいくつかのサークルが合体して、そもそも最初は合コン紛いの集まりから始まったらしい飲み会だった。友達が友達を呼んでの大規模なもので、男女比なんか分からないけどたぶん半々くらい。

 わたしも友達に呼ばれてそれに参加し、すると居るはずのない幼馴染がいた気がしたので、早々に背を向けて端っこの席に座った。だから目も合っていないし、喧騒に紛れるように話す声も小さくした。何せ幼稚園から高校まで同じだった幼馴染だ。後ろ姿だけでも気付かれる可能性があると思って、なるべく遠くの端を選んだ。そうして、緊張をほぐすためにいつもより早いペースで飲んでしまって、そこからの記憶がなかなか蘇ってこない。

「……んー……、なまえ……?」
「っ!」
「起きてたの。起こしなよ」

 大袈裟なほどに肩が跳ねた。ギギギ、と音がするようなぎこちなさでなんとか顔をそちらに向けると、当の本人は寝そべったまま呑気に欠伸をしている。

 何故そんなに平然としていられるのか、何故同じベッドで寝ているのか、いやそもそもここは何処なのか。ホテルではないしわたしの部屋でもない。この寛いでいる感じを見ると、及川の部屋? 何故?
 分からないことが多すぎて、逆に何が知りたくて何が知りたくないかの判断がつかない。

「おはよう」
「お、はよ……」
「そんな身構えなくても、何もしてないよ」

 寝転んだままの双眼が私を見上げる。その上目遣いにどきりとした。及川の方が背が高くなってからは、目を合わせるのだって苦労した記憶しかないから。
 まあ、わたしが敢えてそちらを見ないようにしてただけかもしれないけど。

「彼氏は?」
「え?」
「彼氏。今、いるの」
「えっと、いない、けど」
「高校の時のヤツは別れたの?」
「大学入ってすぐ、ぐらいに」
「ふーん」

 及川は依然寝転んだまま話を続ける。セットされていないくしゃくしゃの髪が柔らかそうで、そんなところは昔から変わってない。

「あ、の。昨日って……」
「あー、眠そうにしてたから、俺が連れて帰ったの。あの居酒屋から家、近かったしね」
「……迷惑かけたみたいで、ごめん」
「別に? まあ飲み過ぎて酔っ払ってるとこ、他の奴にも見せてんのはちょっとムカついたけどさ」

 ようやく起き上がってくしゃくしゃと髪を整える、その顔が見られない。

 どうしてわたしに気付いたの。
 どうしてわたしが酔ったことで及川がムカつくの。
 どうして彼氏のことなんて聞いてくるの。
 ──どうして今更、わたしのことなんか名前で呼んだの?

 聞きたいけど聞きたくなくて、俯いて布団をきゅっと握った。



 高校一年のとき、それまでずっと名前で呼ばれていたのに、急にWみょうじWと呼ばれるようになった。わたしは訳がわからなくて、だけど「どうして」なんて聞けなくて、その時からわたしも倣ってW及川Wと呼ぶようになった。

 もともと華のある容姿だった及川は高校でもっと目立つようになって、そんな及川にはファンがたくさんできた。それはもう学校中知らない人はいないぐらいで、学年でかわいいと評判の女の子だって含まれていた。わたしなんかよりずっと女の子らしくて綺麗で、ひた向きに頑張るきらきらした及川の、その隣に相応わしい女の子たちだった。
 わたしは呼び方が変わったから遠くなったと思っていたけどそうじゃなくて、実際に遠くなったから、それに合わせて呼び方も変わっただけ。だから何もかも、幼馴染として感じていたW及川徹に一番近い女の子Wじゃないんだとやっと理解してから全部、このよく分からない感情には蓋をしてきた。

 そんなわたしにも、高校二年の春に彼氏ができた。優しくて誠実で、サッカーを頑張っている人だった。結局卒業まで付き合ったけど、新しい環境で大変な中東京と地方との間で遠距離恋愛をする気持ちになれず、互いに応援し合ってさよならした。

 何せ、そんな風にして高校の初めに途切れた繋がりだったから、及川から名前を呼ばれたのはたぶん6年ぶりぐらいだ。名前を呼ばれなくなって、だからわたしも呼ばなくなって、及川がモテるようになってわたしも彼氏ができて、するともっと他人行儀になって。ますます距離が開いていく中で、及川がバレーの試合で活躍するのを見るたびに彼氏がいるにも関わらず目が離せなくなったから、その罪悪感から試合も観なくなった。

 彼氏は? なんて簡潔な質問。だけどわたしは「彼女は?」なんて簡単に聞けなかった。つまり及川にとってはなんてことなはない疑問だったということ。そもそも、聞いても意味がない。彼女がいてもいなくても、どちらにしても、わたしにそういう興味は湧かないんだろう。だから一夜を共にしたって何もなかった。ただ酔っ払った昔馴染みを介抱しただけ。

「───帰る、ね」

 わたしが呟いたと同時に、及川が目を見開いたのが視界の端に映った気がする。彼女がいたら大変だし、彼女がいなかったとしても好きな人くらいいるかもしれない。誤解されるのは可哀想だ。一晩同じベッドで寝ても何も変な気を起こさず、ただ寝かせてくれた友人。なら、幸いにも二日酔いはそこまでひどくないようだから、日が上って電車も動いている今はもう、ここにいるべきじゃない。

「は? 帰るの?」
「うん。W及川Wも疲れてるのに、迷惑かけてごめんね」

 さっき名前を呼ばれたことも嫉妬紛いな言葉をかけられたことも忘れて、そして昔の距離をもう一度思い出すため、布団を押しやって目を合わせずにベッドから降りた。いや、降りようとした。
 腕を掴まれて引き戻されて、正面から縋るように抱きしめられて、訳の分からないうちに身動きが取れなくなった。

「あの、離して、」
「あのさ、やっぱり覚えてない?」
「え?」
「今日。7月20日なんだけど」

 日付の感覚がまるでなかったので、そうと聞くまで気付かなかった。7月20日。覚えていないはずがない。だけど言葉がうまく出てこなくて喉でつっかえる。中学までは朝、通学路でおはようと一緒に告げていた、お祝いの言葉。

「……高校上がる時、何があってもお前に一番近い男は俺だって、思ってたんだよね」

 頭の上からぽつりと声が落ちる。わたしが感じていたこととあまりにも近いから、心を読まれたのかもなんてあり得ないことを思考えてどきりとした。

「だから、幼馴染から卒業したくて色々段階踏んでたのにさ。高二でいきなりポッと出の奴がお前の初めての彼氏になったって知った時の俺の気持ち分かる? 荒れまくったし、ストレス発散にサーブ練で無茶苦茶しすぎて岩ちゃんに殴られたからね」
「そ、うなの?」
「そう。しかもすぐ別れるだろって思ってたのに卒業までずっと付き合ってるし。お陰で部活には打ち込めたけど、お前が家まで送られてんの見るの、ほんと無理だったんだけど」

 ずいぶんと饒舌に話すその声や言葉と、今のこのベッドで抱きしめられている状況がアンバランスで何も言えない。言えないけど、心臓がばくばくと忙しないのは間違いなく、全部目の前の幼馴染のせいだ。

「お前のことだから昨日、なんでわざわざ連れて帰ってきたのかなとか思ってるだろ」
「……うん。あと、何もしなかったのもなんでかなって」
「何それ、手出して良かったわけ?」

 及川のため息がすぐ近くで聞こえる。それだけでもどうにかなりそうなのに、大きな手に背中をなぞられ、頭をゆるゆると撫でられた。髪と地肌に触れるその指の感触にドキドキしてしまって、息を呑んだ。

「前日に会うなんて、運命だと思った」
「……及川、」
「……手ぇ出さなかったのは、一緒にいるだけで十分だったから」
「………」
「連れて帰ったのは、お前に一番に誕生日祝ってもらいたかったから。……って言ったら、どうする?」

 どうする? なんてそんなのはわたしが聞きたいけど。とにかくこの顔を見られていない状態で言ってしまいたいと、「徹、お誕生日おめでとう」と呟いた。思ったより頼りなくて小さな声だったけど、抱きしめる力が強くなってしまったから、ちゃんと聞こえていたらしい。

「あー……やばいお前かわいい。襲いそう」

 ありがとうよりもそんな言葉が先に聞こえて、思わず笑ってしまった。




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