高校2年のころだっただろうか。チームメイトの誰かに「及川はバレーが恋人だな」なんて言われたときは直ぐに、そんなわけないでしょ、なんて返事をした。彼女だってときどきいたし(部活ばっかりやってるからか蔑ろにしていると思われてフラれたけど)、テレビを晩御飯を食べるときに見て(バレー中継でもない限りそんなに興味はないけど)、アイドルとか女優さんをかわいいなと思うことだって当然ある。

熱を注ぎすぎている自覚は確かにあるこのバレーを除いてしまえば、周りのみんなと同じような高校生活を送っていて、人並みの恋愛経験をしていると思っていた。




「及川、金魚すくいしよーよ」

紺色の浴衣からのぞく彼女のうなじをぼんやり見ながら意識をどこかへ放り投げていたらしい。こちらを振り返って首をかしげるその仕草は、例えばそれを見たのが俺ではなかったとしても、男ならみんなかわいいと思うものなのだろうか。それともやっぱり、俺だから、そして彼女だから、そう思うのだろうか。久しぶりに着た気がする浴衣は軽くて意外と涼しくて、ほんのすこし帯が背筋を伸ばすようで、ああそれなのに、俺はさっきから上の空だ。

彼女がすこしだけ眉間に皺を作ってしまってからこちらへ一歩近づく。たぶん、俺がいつにも増して静かなことを、不思議に思っているんだろう。今日誘ったのは俺だ。そこそこの規模の祭りとはいえ、私服や制服で行く人も多い中、せっかくだから浴衣を着て屋台を回ろうと言ったのも俺。正直、よく誘えたなと自分を褒めている最中。

それなのにこんな態度で、彼女には申し訳ないと心底思った。ああでも、かわいい。ずっと見ていたいと思うけど、反面、心臓がひりひりと痛くてあんまりまともには見ていられない。

視界の端にヨーヨーすくいの看板が通り過ぎた。さて彼女が言った言葉は何だったかと、頭の中で巻き戻しボタンを押すけれど、目の前で彼女の髪飾りが揺れて、くるりと上を向いた睫毛にふちどられた俺の顔を覗き込んだので、思考は瞬く間に一時停止して、すぐには再生不可の状態だ。

「楽しくない? 」
「……え」
「だって、何か考え事してるみたいだったから」

一応人並み以上にちやほやされたりキャーキャー騒がれたりした経験はあるくせに、あまりにも恋愛経験値がゼロに近いためか、俺は彼女の言っている意味がよく分からない。そして自分自身も分からない。楽しいか楽しくないかで言うと間違いなく楽しいのだけれど、考え事をしているかどうかならそれもイエスになる。

今目の前にいるきみのことで頭がいっぱいだとか、そんな少女漫画とやらに出てきそうな台詞をあっさりと言えたら、どんなにいいだろう。浴衣が似合ってることや髪型がかわいいことやひかえめな口紅が色っぽいこと、そんなことばかり考えるくせに、気の利いた台詞は生まれない。代わりに心臓がどくりどくりと波打って、暑いのか熱いのかも分からなくて、俺の身体はどこかおかしくなってしまったのかと思うほどだ。

「ごめんごめん。ぼーっとしちゃってただけ」
「ほんと? 及川いつも部活で忙しそうだし、疲れてるんじゃないの? どっかで休む? 」
「大丈夫。金魚すくいだっけ? 」

ここで、今恋人と仲良く歩く男たちは、はぐれそうだからと手を繋いだりとか、そんなことを乗り越えてきて今があるのかもしれない。俺と彼女はまずそんな関係でもないから、俺は易々とそれを超えられない。きっちりと線引きしてあるのだ。これを感じているのはお互い様なのか、それとも俺だけなのか、それによって状況はすこし変わってくるけれど、遠くはない今の距離をぶち壊す勇気がまだ俺にはない。

「んー……、やっぱりあれ食べたい」
「どれ?」
「りんごあめ。わたし買ってくるから、及川は待ってて」

そう言って歩きだした彼女の手を思わず掴んだ。ぱっとこちらを振り向いた彼女に、ふと我に返って手を離す。触れたのは一瞬だったけれど、手のひらはやわらかく、自分のそれよりもはるかに小さかった。

ごめん、人多いしおまえ小さいからはぐれそうだし、だから、俺も行く。

取り繕うように言葉を並べたら、すこし早口になった気がしてならない。彼女は「大丈夫なのに」と言いながら、俺の腕に軽く手を添えた。着物越しなのに、触れられているところが熱い。顔も熱い。溶けそうだ。そんなわけはないけれど、それでも思う。溶けてしまいそうだ。いっそ、まずはこのうるさい心臓からなくなってしまえばいいのにとも思った。

この速い鼓動の音をなんとかするために、彼女に伝えるべき言葉なら、もう知っている。「す」で始まって「き」で終わる気持ちだ。分かったところで、少しも言えそうにない。言えば、すべてが終わってしまうかもしれない。

ハイリスクハイリターンはスポーツにはつきもので、特にバレーボールにおいては渾身のジャンプサーブがそれにあたるはずで、それは得意なはずで、そして勝負に打って出る強さもあると自負しているつもりなのに。彼女を前にするとすべてがぐらつく。

「及川はさあ、去年は誰と夏祭りに来たの?」

りんごあめの待ち列に並ぶと、彼女の体温は離れた。人ごみに紛れてしまわないようにとそうしていただけで、俺たちは理由なく触れ合うような仲じゃない。分かっているのにそれを寂しく感じたり、もっと触れたいと思うのは、何かと検討違いな話だ。

だから、彼女の独り言みたいに寂しげなその問いかけが、自分への興味、欲目を足せば好意、と取れなくもない聴こえ方をしたのは、きっと自分の耳のおかげであって、彼女の言葉の所為じゃない。

「わたし、及川が誘ってくれたとき、これでも嬉しかったんだよ」
「……え、っと」
「及川はそんなつもりないかもしれないけど、わたしは嬉しかった」

神様のいたずらだろうか、妖精の仕業だろうか。それとも単純に蒸し暑さがそうさせるのだろうか。そうではないなら、教えてほしい。その柔らかそうな頬っぺたが、りんごあめみたいに赤く染まっているのは、俺が隣にいるからなのかどうかを。

恋をしたことがない、なんてことを思ったことはなかった。人並み程度に誰かをかわいいとも綺麗とも思い、彼女がほしいと思い、付き合いたいと思い、好きだとも思った。熱量の違いはあれど、すべて本物だと思っていた。だけど違ったらしい。

「……俺、自分ではそんなつもりなかったけど、周りの友達によると、バレーが恋人だったみたいだからさ。今までそんなに、色々、思ったことなくて」

りんご飴の列は少しずつ前へ進んでいくのに、祭りの喧騒は遠ざかるようだった。そして、例えばものすごく静かな場所に二人きりでいたとしても、自分の心臓の音を彼女に聞かせるすべも、彼女が同じ音かを確かめる方法もない。人間はみんなそうで、だから、なんの確証もないのに、「好き」なんていう言葉は、怖くて言えない。

「ああ、うん。それ、なんとなく分かるよ。わたし、バレーに勝てる気しないもん」

彼女はすこし寂しそうにそう言って、屋台のおじさんに「りんご飴ひとつください」と声をかけた。お金を出そうとした彼女を制して、百円玉3枚を渡す。彼女がぱちぱちと瞬きしてこちらを向いている間に、真っ赤でつややかなそれを左手で受け取った。右手は、彼女の手を掬う。

「及川、あの、手、はなして……」
「好き」
「は、……え、」
「よく分かんないけど、おまえの顔毎日見たいし笑わせたい。こんなに顔熱くなって、心臓いたくなったこと今までないから、たぶん、おまえのこと好きなんだと思う」

情けなくも、声が震えてしまったことが、彼女に伝わらなければ嬉しい。でももしも伝わってしまったとしたら、それもいい。

彼女は頬も耳も真っ赤に染めて、まるでりんご飴みたいで、それはそれはかわいいけれど、すぐに下を向いてしまったから、今はつむじしか見えない。隠されるとどうしてか見たくなるもので、「りんご飴食べないの?」と声をかけると、「食べる」と小さく返事をして、彼女はあっけなく顔を上げた。

彼女の左手を自分の右手で捕まえたまま、真っ赤なそれを手渡す。彼女は手を離そうとしたけれど、痛くない程度にしっかり掴んでおいた。

「……及川の手、熱いから、離して」
「うん、ごめん」
「あとわたし絶対、手汗とか、かいてるし、」
「大丈夫、それは俺も」
「それに、」
「うん」
「……あー、もう、離してよ……」

彼女は俺から目をそらして、右手に持ったりんご飴をすこしかじった。言葉はどうあれ、振りほどく素振りはない。諦めが半分、あとの半分はたぶん、俺と同じ気持ちのはず。そう思い込んで手を離さずにいると、すこし俯いて飴の部分をぺろりと舐めた彼女は、「わたしも好き」と呟いてくれた。

りんご飴にキスをしているみたいな彼女のくちびるも、そっと力を緩めて握っている手も。横顔にゆれる髪の毛も、彼女はどこもかしこもやわらかくて、甘そうで、たまらない。

バレーが恋人だなんて馬鹿なことを言ったのは誰だ。俺は今こんなにも、たった一人の女の子から、目が離せないのに。




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