及川はわたしのことなんて、きっとこれっぽっちも覚えていないだろう。

そんな心の声には誰も返事をしないまま、暇つぶしのゲームに精を出しながら、課題の合間の休憩と称してだらだらとエアコンの風に当たっている。わたしは、及川の好きなもの、好きなこと、仲の良い友達、お気に入りのシューズの色、それから誕生日。大学に入っても何一つ忘れられないまま、初夏を過ぎ去り、本格的な夏に入ろうとしている。

きっと、彼氏なんかがいれば、わたしはこんなことを覚え続けなくて済むんだろう。いや、こんなことをいまだに覚えているから、彼氏ができないのかもしれない。どっちにしても、卵が先か鶏が先か、なんて不毛な論争は、こんな蒸し暑い日にするべきじゃない。



人生の何十年かの中で、青春というものがどこからどこまでの期間を指すのかは分からない。けれど、わたしの中でのそれは間違いなく、及川の彼女でいられたあの一年弱のことだ。青春自体を与えてくれたのがたぶん及川で、あの頃のわたしは確かに幸せだった。強豪バレー部の主将として、部活で忙しい及川は、度々キャンセルになるデートの予定や、なかなか一緒に帰れない放課後のことをいつも気にして、そのたびわたしに謝ってくれたけれど、わたしにとってはそんなことは、些細なことだった。

バレーが何より好きで何より大切に思っている及川が、それでもわたしに好きだと言ってくれて、わたしに時間を割こうとしてくれている。わたしには、それだけで十分だった。

「わたしは大丈夫。気にしなくていいから、部活頑張って」

聞き分けのいい彼女を演じているとか、そういうことを考えたことはない。ただ、どんなに二人の時間が作れなくても、及川の努力の邪魔だけはしたくなかったというだけだった。練習試合でも公式戦でも、及川が楽しそうにバレーをしているところを見ると、わたしの悩みや寂しさはとてもちっぽけなものに思えたのだ。

きっと、好きとかそういう気持ちの他に、憧れがあったのだろう。何か一つのことに夢中になって、一番になるために努力をする。そういう経験のないわたしには、目の前のそれがとても眩しかった。だから彼女という位置に自分があろうとも、それを妨げていいはずはないと思った。本当に、ただそれだけだった。

そうしてわたしは、何か大きな思い出もすれ違いも残さないまま、進路が決まり始める高校3年の冬のすこし前に、及川から別れを告げられた。今になって思えば、少なくともわたしのその考え方と距離の測り方は、彼女というにはすこし遠かったから、無理もないことだった。







スケジュール帳には、日付が丸で囲んである日がいくつかある。そのひとつ、7月20日。三色ボールペンにおいて、黒と赤に比べるとなかなか減らない青い色でぐるりと囲まれたそれが、控えめにわたしに存在を主張する。

スケジュールを確認する手がいつも7月のページで止まり、吸い寄せられるように20日を見ることも少なくないまま、その日はやってきた。別に、何も予定の入っていない、何の変哲もない普通の日だ。あまり使わない青のペンでしるしをつけたから、目立つだけ。

「……お腹すいた」

さして空腹でもないのに、何か別のことで紛らわせなければ、自分自身の考えを遮断することも難しい。と、こう言えば聞こえはいいけれど、その結果唇からこぼれたのがそんな間抜けな一言なのだから、わたしは本当に色気のない女だなと思う。

とにかく、一週間のど真ん中である水曜日は、疲れがなんとなく心にも身体にも出るから、コントロールがし辛くて嫌だ。今日だけは自主的に休日を作っても許してほしい。今日を過ぎれば、またスケジュール帳には時間割の赤文字とサークルの黒文字と、時々友人との予定の黄色の蛍光マーカーが伸びて曲がって結んで止まる。わたしの日常とはそれだけなのだ。

高校のときは、サボるときにはなんとも言えないハラハラとした気持ちや背徳感、それからわずかな優越感や高揚を感じたものだったと思うけれど、今はただ、平日はどこを歩くにも人が少なくていいなあという程度に、その特別感は薄まった。濃度にすると、0.04%とか、きっとそのくらい。こういう数値を浮かべると、なんだか食塩水に対する塩の割合みたいに聞こえる。僅かな成分すぎるから、考えるだけ無駄だ。

代わりに、お洒落をすることへの意欲は増した。まあ大学へ行くときのほうが正直すこし手を抜いているけれど、こうして買い物へ行くとなると話は別だ。制服を着ていたとき、それが一番楽だと思えたけれど、私服で毎日を過ごすというのは、慣れれば楽しい。高校時代から変わったところと変わっていないところ、どちらもそれなりにあるのが、あんまりカッコよくなくて、自分らしい気がした。



日傘だけを武器にウインドウショッピングを敢行したわたしは、お昼過ぎには夏の暑さに完敗していた。その結果、涼しさを求めてただなんとなく、本屋の自動ドアをくぐった。普段なら効きすぎとも思える冷房が、今はすごく気持ちがいい。まったくもって離れがたい、魅力的な温度だ。家では電気代を気にしてなかなかクーラーのリモコンに手が伸びないから、余計にそう感じる。買う気もないのに失礼だと思いつつも、しばらく店内をうろうろするということには、自身の脳内で満場一致だった。



ふと、スポーツ雑誌のコーナーが目に付いた。もっとも広い面積を占める野球雑誌、その次に目立つサッカー雑誌。その双璧のそばに数種類のバレーボールの表紙を見つけたわたしは、ファッション誌にすらそんなに動かなかった足をそちらへ伸ばし、それを手に取った。高校、大学、そしてトップリーグや全日本。特集に取り上げられた選手や目次に出てくるチーム名は、はっきり言ってすこしも分からないけれど、全日本のメンバーとなると何人かの顔は記憶の隅にひっかかった。それはたぶん、高校のときに及川がわたしに何やら熱心に語ってくれた欠片のかけらだ。

バレーボールは詳しくないけど、及川のポジションがセッターだということは知っているから、雑誌の後半にある選手名鑑を見て、Sという文字をなんとなく目で追った。そういえば高校の男子バレー部の、他の3年とはあまり話したことがなかったけれど、唯一、岩ちゃん、と及川が呼んでいた人は覚えている。及川ととても楽しそうにバレーをしていた人だ。いつかの談笑の流れで教えてもらったそのポジションは確か、ウイングスパイカーというものだったはず。ふたたび雑誌に目を落とし、SやLというポジションの暗号を眺めた。ああきっと、このWSってやつがそうだ。もうずいぶん前のことなのに、わたしの頭でも案外、覚えていられるものなんだなと思った。

わたしは思いのほか、及川にいろんなものを貰ったらしい。及川には、何かすこしでも残っているだろうか。



「……あれ?」

聞こえてきた声に、自分に向けられた気がした呟きに、顔を上げなければよかった。イヤホンでもつけて音楽を聴いていればよかった。そもそも、こんな本屋のこんなスポーツ雑誌のコーナーに、立ち寄らなければよかった。後悔という言葉は、すべて過ぎ去って直面してしまって初めて、脳裏に焼きつくものなのだ。

「うわ、偶然。久しぶりだね。今日はもう授業終わったの?」
「……あ、うん。そう」
「そっか」

柔らかく細められた目元、すっと通った鼻筋、相変わらずきれいにセットされた髪、さわやかな笑顔。すこし大人びた気がする及川が、そこにいた。わたしであると確信を持って話しかけられたせいで、人違いですなんて言葉も出てこず、立ち去ることもうまくかわすこともできないまま、返事をしてしまう。

いつだって、会話の主導権は向こうにある。知っている。わたしと及川の対人経験値にはきっと雲泥の差があるから、ことコミュニケーションにおいてわたしが及川よりも上手く切り返したりすることはない。多少の月日が経ってもやっぱり変わらないものがあるということが、すごくどうでもいいことで分かってしまって皮肉だ。

「今日あっついね。冷房の誘惑に負けてココに入っちゃったよ」
「あー……、そうだね。わたしも、暑かったから」
「あ、そうなの? なんだ、じゃあそれ、暇つぶしに立ち読みしてただけ?」

それ、と及川が目線を投げた先にあるのは、わたしの左手にあるバレー雑誌だった。目の前で棚に戻すとより目立ってあからさまなような気がして手に持ち続けていたことが、逆に仇となったらしいけれど、それももう遅い。さっきからわたしはそんなことばかり考えている。

「それ、俺ちょっとだけ載ってるんだよ」
「え……、ほんとに? 」
「選手名鑑だけだけどね」

最後のほうの大学のページの、と言いながらわたしの持つ雑誌に手を添え、軽くページをめくる。ほんのすこし手が当たっただけで顔が熱くなるのは、それこそわたしの経験値が低いからだろうか。そうであってほしいと、紙がこすれる音を聞きながら思う。

「ここ。ほら、ご丁寧に写真付き」
「……ほんとだ、すごい」
「まあ、これはAチームは全員載るんだけどね」
「それでも、すごいよ」

好きなこととはいえ、たとえ素質がある(とバレー部の男子に聞いたことがあるし、素人ながらに試合を見ていてもなんとなくそう思った)とはいえ、途中で腐らず、ずっと上を目指し続けるのは、なかなかにできないことだと思うのだ。それだけでもわたしの中で、とても素晴らしいことのように映った。わたしのハードルが低いのかもしれないし、惚れた弱みと欲目があるのかもしれない。でも、純粋に憧れる。そんな生き方をしてみたいと、思うだけなら、何度試みたか分からない。

行動に起こさなければ意味はないのに、わたしはやっぱり、この眩しい人間の隣に並ぶ器ではなかったんだろう。

「え、ちょ……、それ買うの? 」
「あ、うん、せっかくだし」
「………」
「……じゃあ、またね」

驚きの声と眼差しがわたしに向けられたけれど、構わずレジへと歩き出す。冷房ですっかりと体温が落ち着いたわたしの身体のなかで、及川の声をとらえる耳だけが熱い気がするのは気のせいか、どうか。とにかく、なんとなく開きグセがついてしまった気もしなくもないこの雑誌がどうしても欲しくなったので、半ば静止の意を唱える彼の言葉にも怯むことなく、歩を進める。

及川が頑張っている証なのだ。これくらいのことは許されるだろう。応援していたい。せめて、いつかわたしが及川を忘れるまでは。




「……え、なんで、まだいんの……? 」
「酷いなあ。いちゃダメなの? 」

会計を済ませ、リュック(わたしの最近のお気に入りだ)が大きめだからと、その背中側に雑誌を入れて手ぶらになって。また炎天下を歩くのはそこそこ億劫だな、なんて思いながらも、ほんのすこし軽い足取りで自動ドアをくぐると、及川が出口のすぐそばの壁に凭れて立っていた。

そういえばさっきはまるで見えていなかったけれど、及川は私服だったらしい。私服なんて、見たのは数えるほどだ。似合ってるなあとは思うけれど、そんなことより今の状況を回避したいのが本音だ。

しかし。いちゃダメか、と言われたら、ダメとは言えない。あくまで先手は打たれていたみたいだ。さっき、会話の主導権はどうのこうの、と考えていたばかりなのに。

「……だめってことは、ないけど。……及川こそ、今日はこんなとこにいないで、バレー部の友達とか彼女とかと、いないとだめなんじゃないの」

わたしの言葉は、アスファルトの照り返しでぬるくなった空気に、思いの外響いた。夏の日差しも気温も、わたしたちをとりまく空間も、容赦はない。頭がうまく回らなくて、舌だってうまく動かなくて、喉は最低限の酸素を供給するだけだ。目の前の及川は目をまん丸く見開いて口をぽかんと開けていて、その顔を見る限り、さっきの雑誌をめぐるささやかな攻防よりも大きな驚きのようで、わたしはようやく、自分の大きな失言に気付く。

でも、もう遅い。口から野に放った言葉は帰ってはこないのだ。そこらのペットの動物たちを放った方がまだ戻ってくる望みがある。

「っごめ、ん。もう行くから」
「待って。ねえ、どういう意味。W今日Wがなんの日か、覚えてるの? 」
「知らない」
「嘘。あのさ、その雑誌買ったのとか、W今日Wを覚えててくれてることとか、期待するよ。していい? 」

 期待。──期待? 何度反復しても日本語は覆りそうになく、混乱した。期待、なんてものはたとえばわたしの中にこそあるもので、押さえるべきもので、及川がそれを言うのは違う。それを言葉にしたことも全部そうだし、及川らしからぬ早急な物言いだってらしくない。

「何、言ってんの」
「誕生日プレゼントちょうだいって言ってんの」

わたしの腕を掴んだ及川は、真っ直ぐにわたしを見る。ああ、本当に自惚れそうになる。まるで、バレーに向かっているときみたいにわたしを見つめてくれているように見えるのだ。バレーに焦がれる及川を好きになった。自分よりそれを優先されても、寂しさはあったけれどそれ以上に、大好きなバレーに焦がれ続けた及川が、そのバレーで報われる姿を見たかったから、色んなものにはそっと蓋をした。

期待をするな。欲しがるな。そんなわけがないと100回復唱しろ。そんな自分の心の声とは裏腹に、自身の腕に触れる熱い手のひらや、すこし赤い気がしなくもない頬に、切なげに寄せられた眉に、そのすべてが彫刻か何かみたいに美しく整っていることに、意識を持っていかれるんだからどうしようもない。

「ていうか、彼女。いないよ」
「……そう、なんだ」
「……あと、きみは俺のことなんて、もう忘れてると思ってたよ」

及川がぽつりと呟いたそれは、わたしが思っていたことと同じこと。あの頃から見れば身長差はさらに開き、きっと一つものにかける情熱にもさらに大差がついていて、容姿だって中身だって環境だって釣り合わない。だけど及川は今、わたしと同じことを考えていて、間違いなくわたしを見ている。

「俺がどんだけ予定キャンセルしちゃっても、一緒に帰ってあげられなくても、女の子に差し入れもらっても、何も言わないからさ。俺に、興味ないのかなって」
「……それは、」
「でも、なんか違ったね」

 俺もまだまだだなあ、なんて笑う。わたしは何も言っていないというのに、調子のいいことをぺらぺらと並べる。ずいぶん上手なお口を持ったものだ。否定も肯定もできないまま、耳にその声だけが残って響く。彼女いないよ、と言ったその顔は、声は、どうしてわたしに期待をさせるんだろう。及川はわたしに、何を望んでいるんだろう。

 及川がバレーに打ち込む姿が好きだったから、たとえばその周りにかわいい女の子がいても、自分との予定がキャンセルされても、すべて笑って許してきた。我儘を言った記憶も、そういえばすこしもない。何か望みを言うほうが、及川の重荷になると思っていた。

「未練がましくてごめん」

まるで映画のエンドロールか何かみたいだ。蝉の鳴き声が遠くに聞こえて、切り取られたようにすら感じる空間の中で、及川は切なそうな表情のまま、わたしの名前をつぶやく。なんだか泣きたくなる。そこらの石にでも躓いて転んだ瞬間に、この夢は覚めて、過ぎ去って、7月21日になっているのではないだろうか。

「好き。もう一回、俺のものになって」

ああでも、もう夢でもなんでもいいかもしれない。今から、お誕生日おめでとう、その一言が、ちゃんと及川に言えてしまいそうなのだから。




list

TOP