及川徹は、  ではない。



「俺は、今はバレーとその仲間以外要らないんだ」

 中学3年。たぶん、蒸し暑さもにじむ6月ごろのこと。好き、という言葉の返事としては、なかなかに似つかわしくない台詞だったけれど、どこか及川らしいと思った。

 わたしは、バレーをひたむきに頑張る及川が好きだった。部活が休みの放課後、試合の後、練習が終わってからの時間。中学のときは一時期、少し心配になるほど、及川が努力していたことを知っている。

 他校に天才がいるのだと、岩泉から聞いたことがある。恵まれた体格とパワーをもつスパイカー。そのときのわたしには、その凄さが分からなかったけれど、岩泉のその表情を見て、ああ、その天才とやらは本当にすごい人なんだ、と漠然と思った。
 それからしばらくして、もう一人。後輩に、圧倒的なセンスを持つセッターが入ってきたとわたしに何気なく話したのは、確か岩泉ではなく、別のバレー部の男子だった。

「ありゃ天才だわ。あいつがあと一年早く生まれてたら、及川でもレギュラーやばかったかもなぁ」

 その男子がさらりとこぼしたその言葉は、客観的に見た上で確実に及川を信じての評価であったし、そもそもがifである話だ。深い意味なんかない。ただそれでも、わたしの心にちらついたのは、上手くなりたくて、勝ちたくて、痛いくらいに努力する、バレーが大好きなあの背中だった。他から見ても「天才」だと分かるほどの才能ある選手なら、及川はきっとそれをもっともっと重圧として感じているだろう。わたしには分からないけれど、それはあまりにも苦しいことなのではないかと思った。


「あいつらは持ってるのに、俺にはないんだよ。どんなに努力しても、きっと一生手に入らない」
「え……?」
「まあ、いわゆる?才能?ってやつ」

 諦めたように、かつ吹っ切れたように、わたしに笑う。ああ、及川は、天才になれなくても、天才と戦う決意をしたんだと、なんとなく思った。それはあの告白から半年後くらいのことだったと思う。あのときは及川の頑張りを、存在価値を、及川自身で認めてあげてほしくて、彼に好きだと伝えた。その努力を知り、応援している人間がいるということに気付いてほしかった。でも、それももう必要ない。彼はもう一人で、いや、チームで飛び立てる。

 自分の進学先には、烏野を選んだ。及川が青葉城西から推薦が来ていることも、岩泉とともにそのままそこへ進むことも知っていて、わたしは烏野を選んだ。制服もかわいいし、家もまあ近いし、学力も相応で、親への学費の負担も私立よりは軽い。何より、彼のいないところへ行きたかった。わたしはまだ、立ち止まったままだ。それなのに彼と一緒の場所にいることはできないと思った。及川の夢の邪魔をしたくない。好きだから、離れるのだ。あのころ、及川徹は、わたしの夢だった。









 春高代表決定戦、青葉城西が烏野に負けた。

 及川の最後のトス、最後のレシーブ、そのひとつひとつのプレーが、瞳の奥に焦げ付いてじくじくと痛む。歓喜の渦の中にある烏野高校に属するはずの自分は、心臓の内側に棘が刺さって抜けないような、抜こうとすると更に痛むような、そんな行き場のない感覚を味わっていた。
 自分の立場はどうあれ、応援していた。青葉城西を、本気で応援していた。本当に、勝って欲しかった。

 烏野の応援席からは離れているし、私服で来ているからバレないだろうとは思いながらも、タオルで顔を覆った。そうしてそのまま、声を殺して泣いた。烏野が喜ぶ声も、青葉城西のスタンドへの挨拶も、まるでフィルターで隔てた内側と外側のように、鼓膜を裂くことなく響いて消えた。心臓の音と、情けなく震える自分の呼吸の音と。視界は自ら遮っているからもちろん真っ暗で、だけどわたしは本当はこんなものを見たり聞いたりしたいわけじゃない。及川を見て、その声を聞いて、彼の高校3年間のバレーを焼き付けておきたいのに。




「………酷い顔だね。烏野が勝ったこと、そんなに嬉しかった?」

 しばらくその席で泣いて、流石にこのままじゃいけないからとトイレの水道で目元を洗って。外でちょっとだけ休憩してから帰ろうと思ったのに、その声は誰もいないはずのこの空間を凛と埋め尽くした。自動販売機でオレンジのパックジュースを買って、手にした直後のことだった。

 振り返りたくはない。だって、離れたスタンドからですら、見るのが怖かった。会うのはもっと怖い。及川が落ち込んだり、泣いたりするところを見たくない。これはわたしのエゴだ。防ぐ術も持たないくせに、その結果になった途端に目を逸らす。
 わたしはそのまま、その声の主を確かめることもなく、来た道と反対方向へ歩く。歩くというより、小走りに近かった。慌てたような及川の声が一瞬耳に届いて、次の瞬間には腕に衝撃があった。ぐっと掴まれ、無理矢理向き合う形になる。

「はあ、あーもう、どうして逃げるの」
「……い、かわ」
「ん?」
「う、………、っ……」
「え、ちょっと、なんでここで泣くのさ…!?」

 及川の体温が右腕を掴んでいる。自分より遥かに大きな手。この手はずっとバレーを頑張ってきた。大好きだ。バレーが大好きな彼が、大好きだ。ぽろぽろと、枯れたと思っていた涙がまた溢れ出す。及川は慌てたようにわたしの肩にそっと触れて、わたしはまた泣いてしまう。お疲れ様も、いい試合だったも、きっと言ったところで、何もないだろう。そんなありきたりなことじゃなくて、わたしが伝えたいことは。

「及川、すごかった……っ、青城、すごく、強かったっ……」
「……!」
「及川のバレー、もっと、見たかった……っ」

 大好きなバレーを頑張る姿を、もっと見たかった。あと1試合でも2試合でも、見たかった。
 目元を覆ったままに言葉を投げれば、及川が動揺したのが、なんとなく気配で分かった。足元の芝生の緑すらも目に痛い。

「……俺のバレーは終わってない」
「え……?」
「今のチームではもちろん最後だけど。でも、死ぬんじゃないんだからさ。また、見に来てよ」

 わたしの腕を目元から下げさせて、ぐっと抱き締められる。「ちょっと汗臭いのは我慢してよね」と拗ねたような声が上から降ってきて、わたしの目からはまた涙が溢れだす。ああもう。好きだなあ。たとえ彼の一番になれなくても、この先彼がいる道に寄り添えなくても。及川徹は、わたしの青春のすべてみたいな形をしていた。


「わたしね、W及川徹Wの、ファンだからさ」
「……うん?」
「これからも応援、させて」

 及川の腕の中から抜け出して、無理矢理笑顔を作る。女のわたしも羨ましくなるくらい長い睫毛と大きな黒目にふちどられた及川の目が大きく見開かれているのが、なんだか可愛らしかった。ぬるくなったであろうパックジュースを持ち直して、及川の横を通り過ぎようとする。すると、また腕を掴まれた。ついさっきあった同じような光景と違うのは、及川の顔が赤いことだろうか。さっきまでまともに顔を見ていなかったから、変化のほどはあまりきちんと分からなかったけれど。

「ほんとお前って、よくわからないよね」
「……?」
「大体、ファンってなんなのさ」

 決意したように真っ直ぐにわたしを見て、それから困ったように笑う及川は、わたしの腕を優しい強さで掴んだままだ。

「あのとき、なんで自分のモノにしておかなかったんだろうって、何回も思ったよ」
「……何が……?」
「俺がフッたあとも、おまえ、試合見に来てくれてたから、まだ俺のこと好きなんだって自惚れてたんだよね。そしたら、青城じゃなくて烏野行くなんて言うからさ」

 本当は今日だって、烏野の応援に来てんじゃないかって思って、声かけるの、すごくビビッてたんだよ。そんなこと、おまえは気付いてないだろうけど。

 決断も行動も、色んなことにおいて勇敢な及川が、わたしのことで悩むだとかビビるだとか、そんなことはてんで想像できなかった。困ったような瞳にわたしを映したまま、骨ばった手でわたしの瞼のはしっこをするりと撫でる。涙が焦げついたその場所はひりひりと痛むけれど、触れられたことには不思議と驚かなかった。他人のパーソナルスペースにそっと触れるのが上手な指だったということを思い出す。

「あのときは、俺にはバレーかそれ以外のものかって認識しかなくて、だからお前のこと、要らないって言った。手に入れても、大事にできないと思ったから」

 及川の声が、酸素を薄くしてゆくような気がした。呼吸しているのに息が苦しくて、そのせいで体温がじわじわと上がってくる気すらする。目を逸らすことができたらこんな感覚からも解放されそうなのに、それができない。ああ、本当に睫毛が長い。羨ましくなるくらいだ。

「もしも俺のこと、もう好きじゃないって言うなら、抵抗して」

 及川はわたしの顎をそっと持ち上げた。何もかもがスローモーションに見える。まるで、最後の烏野のスパイクをレシーブしかかった及川を見ているみたいに、何もかもがゆっくりだった。これから起こることが分からないわけでも、振りほどくことができないわけでもなかった。『抵抗して』というだけあって、わたしを上向かせる指はごく優しい触れ方をしていたのだ。それでもわたしは、拒まなかった。

「………ねえ。おまえのことが好きだよ」
「……順番が逆だね」
「うるさいな、……ビビッてたって言ったでしょ」

 くちびるを離した及川はわたしから視線を外して、襟足あたりの髪をくしゃりと掻いた。照れ隠しみたいに見える。あんな大胆不敵なプレーをしてみせる及川が、キス云々による確信が持ててからわたしに好きだと言う、そういった算段だったのだろうか。そう考えると急に180センチを超える長身にも関わらず彼のことが可愛らしく思えてきて、なんだかお腹だか背中だかがぽかぽかと温かくなった。

「……で、返事は?」
「あ、うん、……わたしも好き、です」

 ゆっくりと言葉を噛み砕いて飲み込みながら伝えると、「やっと俺のもんにできた」と及川は笑っていた。試合で負けて悔しいはずなのに、やるせないはずなのに、泣きたいはずなのに、そうやって笑う及川を見て、わたしの目の奥がまたぴりっと痛む。

 及川のバレーは終わっていなくて、仲間とともに飛んだまま。わたしはまだ彼みたいにうまくは飛べないから、時々立ち止まりながら、だけどこの先もやっぱり、その隣にそっといたいのだ。今も昔も、及川徹のその道に、たくさんの希望を見ているのだ。

「ねえ、及川」
「ん、何?」
「泣いていいよ」

及川は、一瞬ぽかんとしてから、くしゃりと笑顔になった。そうして、窮屈そうに背を丸めて、わたしの肩口に額を押し付けた。バーカ、という呟きのあと、かすかに震えるそのたくましい肩を、そっと撫でる。わたしの前でくらい泣いてほしいから、とは言えなかったけれど、いつか伝わってくれたら嬉しいと思った。

たとえ天才ではなくとも、及川徹は、わたしのヒーローなのだ。




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